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いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
by ikenosai
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カテゴリ:お父さんお母さん( 20 )


「もう東京へは行くこともないじゃろう」


 高校3年の夏、自ら青春の幕引きをし始めていた。

最後の敗戦で国体への夢が途絶えてしまった。

高2の夏の国体予選、高3のインターハイ予選、高3の国体予選と全て同じ相手に敗れて、3敗、無残にも勝ち星のない戦績で終わろうとしていた。

秋からの就活、青春にもピリオドをと覚悟していた。

そして、10月に地元のゴムの加工工場への就職が決まった。

しかし、ずっと迷っていた。

こんなもんじゃない。

ここで終わらせるわけにはいかないと・・・。

自分自身に何度も言い聞かせていた。

迷走する先で、父と一緒に工場へ行き、採用を辞退し、謝罪した。

今頃になって思う、父は宙ぶらりんの私をどう思っていただろうって。

そして、さらに迷走する先で陸上自衛隊を受けた。

その次につながる体育学校への希望も兼ねて。

そんなに簡単にはいかないのに、往生際が悪く、情けなかった。

それでも父も母も私の迷走に付き合ってくれていた。



 11月も終わる頃、一発逆転のチャンスが舞い込んできた。

駒澤大学からの体育推薦の話だった。

「ボクシングをしに大学に行く気はないか」というスカウトの電話だった。

しかし、我が家には私を上京させるほどのお金はない。

担任の先生が家に来て父を説得してくれたが、翌日になると「やっぱり無理じゃ、そこまでの仕送りはできん」と父に言われて、半ばあきらめていた。

それでも赤本の学部と授業料のところを見ていて夜学での可能性はないものかとスカウトに電話で聞いてみた。

昼間バイトして、夕方部活に行って、夜の授業を受けるという、ぬるま湯に浸かって生きてきた私には相当の覚悟が必要なチャレンジだったが、運命を変える何かがこの先にはあると信じてお願いした。

数日後、スカウトの方が80キロほど離れた倉敷からはるばる説明にいらして、私と家族は覚悟を決めた。

受験できる学部が法学部しか残っておらず、一般受験に交じって合格平均点の半分くらいは採らないと合格できないし、入学後の授業についていけないとのことで、そこから初めての受験勉強が始まった。

高校受験のときも全く勉強せず、高校卒業後は就職と思っていたので進学のための知識すら持ち得ていなかった。

12月から猛勉強が始まった。

社会は好きだった日本史の問題集に取り掛かり、国語は漢字を中心に自力で、英語は卓球部でお世話になった顧問の先生が毎日、放課後に補習をしてくださり、熟語を中心に勉強した。

冬休みに入り、受験のための旅費を稼ぐために酒販会社で酒の配達のバイトをした。


 3月に入り、受験で上京した。

津山から高速バスに乗って新大阪まで行き、そこから初めての新幹線に乗った。

物珍しさもあってか問題集を持ったままで車窓にくぎ付けになっていた。

名古屋を過ぎて、浜名湖、富士山が見え始め、多摩川を越えて、浜松町から見えた東京タワーに私は無限大の希望を抱いていた。

そして、渋谷からバスに乗って世田谷区の弦巻まで行くと、お世話になる監督の奥様に案内され合宿所に着いた。

春休みで数人の先輩しか残っていなかった。

空いたベッドを借りて二晩泊ることになった。

翌朝は入学試験。

昼には試験が終わった。

午後から東急新玉川線に乗って二子玉川に行き、大学の練習場を案内してもらった。

初めて見る自動改札に困惑してしまった。

夜になって、先輩から「家に電話をしなさい」と言われ黒電話から父に電話した。

受話器を握った私は思わず、「試験はできんかった、だめかもしれん。」とあきらめの境地を父に伝えた。

父からは「いや、お父さんは、お前があんなに勉強するのを初めて見せてもらった。それが本当に嬉しかった。じゃけえ、そんなにがっかりするな。ようがんばったがな。お金を今どのくらい持っとる。もう東京へは行くこともないじゃろう。何日か遊んでから帰ってもええで。思い出を作ってこい・・・。一つだけ約束がある。変な気だけはおこさんでくれいよ。」

その言葉でハッと目が覚めた。

次の日の午前中に東京からまっすぐ帰宅した。

3日ほどして合格の連絡が来た。

私の人生の中で約2番目に嬉しい出来事になった。

そして、両親を連れて入学式に出た。

大学受験は私の一生を左右する大きな出来事だったと思う。

入学後は早朝から働いて、部活して、星空のキャンパスに通う日々が始まった。



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ここから東京へ旅立った(国鉄姫新線 美作大崎駅)






 



by ikenosai | 2019-06-15 21:04 | お父さんお母さん | Comments(4)

お父さんが迎えに行くから・・・


 父の好物だった干し柿

 先日、退院したばかりの母から電話があった

「今年は、柿はいらんなぁ・・・」って

「干し柿もないで・・・」

「もう、作っとらんけん・・・」

前はあったのに・・・っと僕が返すと

「ありゃー、お父さんが好きだったんじゃー・・・」

「もう、食べるもんがおらんけん、作っとらんのじゃー」

母はそう言った

私は、ふと実家の軒下のあの干し柿の風景を思い出していた


そして、また、父とのことを懐かしく思いおこしていた






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海だ。

海が見えた。

やっと海まで来た。

そして、さらに、勢い良く、私はこぎだした。

海辺に自転車を止め、しばらく海を眺めていた。

しかし、海の向こうに陸が見え、民家の灯りも見える。

ここは海なのかと疑い始めた。

海でなければ、ここを越えてさらにその向こうへ行かなければと思った。

海であるか、海でないかを調べることは容易だった。

そこの水に手を浸し、なめてみた。

しょっぱい、塩の味がする。

間違いなく、そこは海だった。

その地形で児島湾だと分かった。

目的の地にたどり着いたことがすごく嬉しかった。

真っ暗で静かな海辺だったが、まだ8時前だった。

安心したのか、私はコンクリートの床に仰向けになったまましばらく眠った。

すごく疲れていた。

肌寒かったせいか、30分位して目がさめた。

やはり、ここで眠ることは難しい。

しかし、十分なお金があるわけでもなく不安になってきた。

みんなのことが気になった。

きっと私を探している。

そう思い始めた。

このまま一夜を明かす気はなかった。

持っていたお金も電話をかける位しかない。

もし、このお金をほかのことに使えばどこに連絡することも出来なくなくなってしまう。

私は自転車に乗り、電話ボックスを探した。

すぐに、それは見つかった。

10円玉を何枚か入れて、家に電話をかけた。

すぐに父が出た。

「今、どこにおるんなら、寒うないか。」と話しかけてくる。

私はすぐに、ここにいることを話した。

「お父さんが迎えに行くから、おまえは津山に向かって戻ってこい。

たぶん、どっかですれ違うだろう。

しっかり注意して見て行くけん、おまえも注意して戻ってこい。」


私は無我夢中で自転車のペダルを踏んでいた。

しかし、暗かったせいか、来た道が分からなくなっていた。

迷いながら、大きな土手に出た。

しかし、道が途中から進入禁止になっていて鎖でふさがれていた。

自転車と歩行者専用の長い橋を渡り、反対側の土手に出た。

橋の手すりに、旭川と記してあった。

線路があった。

しばらく行くと、駅もあった。

備前原駅だった。

たぶん、ここを通れば津山の方へ行くだろう。

そう思って走った。

ここまで来れば不安も何もない。

あとはなるようになる。

そう思って、深く考えることはしなかった。

車とすれ違うたびに、もしかして父かも。

そう思いながら何台も車を見た。

しかし、こんなに早く来るわけはない。

車でさえ1時間半位かかるところだから、その位の時間は読んでおかないと。

しかし、電話してから、かれこれ1時間程経っていた。

玉柏駅のあたりだった。

慎重に通る軽トラックが私の前を通り過ぎたあと、Uターンして私の横で止まった。

父だった。


(13歳のときの家出の話)

いけのさい「海まで走ろう」より
全文へジャンプ → https://ikenosai.exblog.jp/8821359/












by ikenosai | 2018-11-11 17:24 | お父さんお母さん | Comments(4)

私を育んだもの3分の2


(作品展に寄せた絵と詩)



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 小学校に入学して間もないころ、「青い山脈」という唄を口ずさむ上級生に合わせて私も口ずさんでいた。


 いつも眺めていた中国山脈とこの唄が私の中では重なっていた。


いつかあの山を自分の力で越えていきたいと夢見ていた。

そして、高校1年の時自転車であの山を越えて鳥取砂丘まで出掛けた。


 この土地が私を育み、今がある。


 私の原点、私の故郷の原風景。 


岡山県津山市郊外・・・


 手前の里山までに中国自動車道、JR線、国道がある小さな集落






 「 花嫁さん 」(私のお母さん)

                                  
  生まれ育った南宇和の漁村から瀬戸内海を渡り日本海側の浜田漁港に引っ越し、最初は近所の缶詰工場で働いていましたが、大阪の親戚の店を手伝うため家族のもとをはなれ、ひとり大阪にいきました。


 お店にもすっかり慣れていたある夜、常連の男の人がやってきて、
明日、田舎に帰るんだが、できればあなたをつれて田舎に帰りたいと話したのです。


花嫁さんは迷うことなく荷物をまとめて、一緒に汽車に乗って田舎に行きました。


大晦日の夜でした。


突然、花嫁がやってきて、みんなはびっくりしました。


代々続く忙しい家で、えらいところにお嫁にきたと思ったことでしょう。


 一年ほどしてお姉さんが生まれ、それから一年半して私が生まれました。


がんこなおじいさんやわがままなおばあさんにも負けずにがんばっていましたが、耐えられなくて、お姉さんと私をつれて、いくあてもなく家出をしたことがありました。


それでも私たちの幸せを考えてくれた花嫁さんは覚悟をきめて、お父さんの待つ田舎にもどったのです。


慣れない土地で大変でした。


それでもその土地に慣れようと一生懸命に生きました。



私が幼稚園のとき、がんこなおじいさんが病気で亡くなりました。


わんぱくでいたずらばかりしていた私はいつもみんなに迷惑をかけていました。


あやまりにいくのはいつも花嫁さん(母)。


「息子がご迷惑をかけてすんません。」といつも頭をさげてばかりでした。


私が中学二年生のときおばあさんが寝たきりになってしまい、そこから介護の生活が三年間続きました。


来る日も来る日もおばあさんのお世話です。


ご飯を食べさせて、体をきれいに拭いてあげます。


床ずれやオムツかぶれがあると、どくだみの葉っぱを乾かし、それを煮出したお湯を体に塗ってあげました。


おばあさんは花嫁さんに文句ばかり言っています。


嫁は信用できないと言われても、いつもやさしくお世話しました。


あいまを見て家々の電気メーターを見る仕事をして家計を支えていました。


おばあさんが亡くなる少し前、おばあさんがわがままばかり言うもんで、花嫁さんはとうとうおばあさんと言葉でけんかをしてしまいました。


私から見るとおばあさんが悪かったと思います。


それでも亡くなる直前で仲直りしました。


夏の終わりの暑い日でした。


おばあさんが亡くなった数日後は花嫁さんの四十一歳の誕生日でした。


お姉さんとお金を出し合ってケーキを買ってささやかにお祝いをしました。



私が高校を卒業するころ、花嫁さんはヤクルトの配達のお仕事を始めました。


配達で地域の情報を知り、私によく話してくれました。


山あいに住む一人暮らしのおじいさんやおばあさんの家にもヤクルトを配達しました。


三輪のバイクで毎日毎日配達にいきました。


そのうちいろいろな人の悩みや相談を聴くようになりました。


みんな花嫁さんが来るのを楽しみにしていました。


いつも買ってくれていたおじいさんやおばあさんが亡くなると葬式にいきました。


私が田舎に帰省していたとき、近くの駅まで花嫁さんが見送りにきました。


たまたま居合わせたおばあさんが「あんた、ヤクルトさんの息子さん?」とたずねてきました。


私が返事をすると「いつもお世話になっとります。」と花嫁さんに親切にしてもらっていることを話してくれました。


私は嬉しかった、花嫁さんがみんなに好かれていて。


花嫁さんはみんなに親切にして、みんなから頼られていました。



花嫁さんが私の家にきてからたくさんの人が亡くなりました。


花嫁さんはいつもみんなのいる仏壇に手を合わせ、ご飯や水をお供えし、線香をたき「なんまんだ、なんまんだ・・・」と唱えます。



お嫁にきてからもう五十年が過ぎました。


南宇和から浜田に移り住んだ花嫁さんの両親も随分と前に亡くなりました。


もう帰る場所もなくこの岡山の中国山脈のふもとで静かに暮らしています。


花嫁さんがいないとみんなが困ります。


親戚の人たちも困ります。


近所の人たちも困ります。


お父さんをはじめ一族を天国に送り、長い年月をかけて花嫁さんはこの土地の人になっていったのです。



花嫁さん、ありがとう、私の家にお嫁にきてくれて。


花嫁さん、ありがとう、私を産んでくれて。


私の大切な、大切なお母さん・・・、いつも、いつもありがとう。 





以下はおまけ(作品展にはない画像)

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 母を思う曲へクリック→ https://www.youtube.com/watch?v=4_OKI91h3tw

      もう一曲→ https://www.youtube.com/watch?v=yCZFof7Y0tQ


今日、3月1日は今は亡き父の誕生日。
「私を育んだもの3分の2」
残りの3分の1は、大きくて優しい父でした・・・。


















by ikenosai | 2018-03-01 08:52 | お父さんお母さん | Comments(6)

父の一周忌法要で帰省



私の大好きな風景

田園風景
津山の実家
美作大崎~西勝間田の間の集落

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父の一周忌法要の翌日、島根県浜田市の母の実家へ
再び津山に戻ってから一日だけ、のんびりできた日があり散歩へ!

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子どもの頃、よく釣りをした池

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ところどころに廃屋

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朽ち果てた家も


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                   地元の豪農(大地主)の家
                  一族が街に出てしまって・・・
                    高齢化する地域に・・・




もうすぐ母の日ですね!
 僕の大切なお母さんのお話、お読みくだされば嬉しいです。

 これは僕のお母さんの話です。
生まれ育った南国の漁村から瀬戸内海を渡り日本海側の浜田漁港にひっこしてきました。
最初は近所のかんづめ工場で働いていましたが、大阪のしんせきの店を手伝うため家族のもとをはなれ、ひとり大阪にいきました。
大阪の店にはたくさんのお客さんがきていて、親しい人もでき、街にもすっかりなれていました。

 正月を二日後にむかえたある夜、お店によくくる男の人がやってきて、明日いなかに帰るんだが、できればあなたをつれていなかに帰りたいと話したのです。
それが花嫁さんになるお母さんへのお父さんからのプロポーズの言葉でした。
花嫁さんは迷うことなく次の日荷物をまとめて、汽車に乗って僕のいなかにやってきました。
おおみそかの夜、とつぜん花嫁がやってきて、みんなはびっくりしました。
花嫁さんはもっとびっくりしました。
いなかには、三番目と四番目の弟、二人の妹がいる大家族だったのです。
代々続く家だったので、一族が集まるいそがしい家でした。
えらいところにお嫁にきたと思ったことでしょう。

 一年ほどしてお姉ちゃんが生まれ、それから一年半して僕が生まれました。
がんこなおじいちゃんやわがままなおばあちゃんにもまけずにがんばっていましたが、たえられなくなったある日、お姉ちゃんと僕をつれて、いくあてもなく家出をしたことがありました。
それでも僕たちの幸せを考えてくれた花嫁さんは覚悟をきめて、お父さんの待ついなかにもどったのです。
なれない土地でたいへんでした。
それでもその土地になれようと一生懸命生きました。

 僕が幼稚園のとき、がんこなおじいちゃんが病気でなくなりました。
わんぱくでいたずらばかりしていた僕はいつもみんなにめいわくをかけていました。
あやまりにいくのはいつも花嫁さん。

 中学生になった僕は、不良になり、先生にも、近所の人にも迷惑をかけていました。
あやまりにいくのはやっぱり花嫁さんです。
「息子がご迷惑をかけてすんません。」といつも頭をさげてばかりでした。

 僕が中学二年生のときおばあさんが寝たきりになってしまい、そこから介護の生活が三年間続きました。
来る日も来る日もおばあさんのお世話です。
ご飯を食べさせて、体をきれいにふいてあげます。
とこずれやオムツかぶれがあると、どくだみの葉っぱをかわかし、それをにだしたお湯を体に塗ってあげました。

 おばあさんは花嫁さんに文句ばかり言っています。
嫁は信用できないと言われても、いつもやさしくお世話しました。
あいまを見て家々の電気メーターを見る仕事をして家計を支えていました。
おばあさんが死ぬ少し前、おばあさんがわがままばかり言うもんで、花嫁さんはとうとうおばあさんと言葉でけんかをしてしまいました。
僕から見るとおばあさんが悪かったと思います。
それでもなくなる直前でなかなおりしました。
夏の終わりの暑い日でした。

 おばあさんがなくなった数日後は花嫁さんの四十一歳の誕生日でした。
お姉ちゃんとお金を出し合ってケーキを買ってささやかにお祝いをしました。
 
 僕が高校を卒業するころ、花嫁さんはヤクルトの配達のお仕事を始めました。
僕の小学校の学区内でした。
一軒一軒にヤクルトはいりませんかと売りにいきました。
僕となかよしだった子の家はすぐに買ってくれましたが、僕となかが悪かった子の家は、やっぱり買ってくれませんでした。

 配達で地域の情報を知り、僕によく話してくれました。
僕が東京の大学に行ってからもずっとヤクルトを配っていました。
地域ではヤクルトさんと言われていました。
山あいに住む一人暮らしのおじいさんやおばあさんの家にもヤクルトを配達しました。
三輪のバイクで毎日毎日配達にいきました。
そのうちいろいろな人の悩みや相談を聴くようになりました。
みんな花嫁さんが来るのを楽しみにしていました。
 
 いつも買ってくれていたおじいさんやおばあさんがなくなると香典をもって葬式にいきました。

 僕がいなかに帰省していたとき、家の近くの駅まで花嫁さんが見送りにきました。
たまたま居合わせたおばあさんが「あんた、ヤクルトさんの息子さん?」とたずねてきました。
僕が返事をすると「いつもお世話になっとります。」と花嫁さんに親切にしてもらっていることを話してくれました。
僕は嬉しかった。花嫁さんがみんなに好かれていて。
花嫁さんはみんなに親切にして、みんなからたよられていました。

 おじいさんの弟が寝たきりになったときもお世話になる老人ホームが見つかるまで家で介護をしました。
お父さんより18歳も若い弟が病気でなくなったときも、花嫁さんはなくなる間際までお世話をしました。
 
 花嫁さんが僕の家にきてからたくさんの人がなくなりました。
花嫁さんはいつもみんなのいる仏壇に手を合わせ、ご飯や水をおそなえし、線香をたき「なんまんだ、なんまんだ・・・」ととなえます。

 お嫁にきてからもうすぐ50年になります。
四国から日本海にうつり住んだ花嫁さんの両親も何年も前になくなりました。
もう帰る場所もなくこの岡山の土地で静かに暮らしています。

 僕たちの一族のために花嫁さんは自分の人生をささげて生きています。
お父さんの親や兄弟、しんせきを天国におくり、とうとうこの土地の一員になりました。

 花嫁さんがいないとみんなが困ります。
お父さんも困ります。
しんせきの人たちも困ります。
近所の人たちも困ります。
長い年月をかけて花嫁さんはこの土地の人になっていったのです。

 花嫁さん、ありがとう、僕の家にお嫁にきてくれて。
 花嫁さん、ありがとう、僕を産んでくれて。
 僕の大切な大切なお母さん・・・、いつも、いつもありがとう。

                                   2010年








by ikenosai | 2017-05-05 22:05 | お父さんお母さん | Comments(4)

久しぶりに母の実家へ帰省

素敵な風景

私の大好きな場所
母の実家
「島根県浜田市瀬戸ヶ島」

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県立水産高校のドック
生徒たちはここから遠方まで船の実習に

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そのさきは日本海

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大きな吊橋

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昔のままの海辺も

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島にある「厳島神社」

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今だ現役の井戸

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狭い路地

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韓国からの漂流物


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療養中のおじに会いに

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そして1日目の夕日が沈むころ


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漁港の食堂で食べた「のどぐろの炙り丼」


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母と姪
小さなビーチ


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一般道(国道9号線)を通って


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仁万町にある「サンドミュージアム」へ


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世界一の「砂時計」(1年時計)

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間近で見られるレプリカ



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 以前かかわった生徒たちとマレーシアに修学旅行に行ったとき。

その年は精神的に重い女子生徒が何人かいた。

それでもみんな一生懸命に私についてきてくれて楽しい旅行になった。

帰りの飛行機の中。

両サイドに生徒が座り、みんな疲れていたのか眠っていた。

私は、いくつか観られる映画の中からたまたま「砂時計」を選んで観ていた。

心の中がいっぱいいっぱいで壊れそうな生徒たちが少しずつ大人になって・・・

1年生からずいぶん成長したことを旅行の中で感じていた。

そんな思いと重なってか、家族のこと、友だちのこと、恋人のこと、そして、本人のこと・・・

たくさんの悩みを抱えながらも一生懸命生きている生徒たち・・・

それだけで感動し、それとも重なって、涙がじんわりとにじんでいた。

私は誰にも気づかれぬよう涙をぬぐっていた。

いつか、この世界一の「砂時計」を見に行きたいと思っていた。

そして、今回見に行くことができた。

やっぱり、あの時の生徒たちのことを思い出し、胸が熱くなった。

ひとりひとりを思い出し、みんな元気でいますように・・・と、そう祈った。



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蒜山高原から見える鳥取の大山


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蒜山(ひるぜん)



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(岡山県)蒜山のジャージ牛乳と(鳥取県)大風呂敷がコラボしたソフトクリーム(450円)

ここのサービスエリア(蒜山)で一押しのスイーツ











by ikenosai | 2017-05-04 22:09 | お父さんお母さん | Comments(0)

さくら咲くころ

 今日は春のお彼岸!

昨年4月30日に天国へいった父を思い、そして、まる5年経つ義理の母を思う。

今日は、これからお寺に出かけ、彼岸会にて、父、義理母、そして我々ご先祖の供養へと・・・。


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 もうすぐさくらが咲きそうな感じがする。

近くのモノレール車庫の敷地にもたくさんの土筆が土の中から出てきている。

この1枚の写真は、立川の災害医療センターのあたりから見えるモノレール。

さくらとのきれいなショットが今では幻に・・・。

私が撮影したお気に入りの写真。


今、桜並木の向こうには、大きなIKEAの建物があり、モノレールは見えない・・・。










by ikenosai | 2017-03-20 08:29 | お父さんお母さん | Comments(2)

塞翁が馬


 紫陽花の咲く6月16日は父の四十九日法要だった。


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 高速バスで津山駅について、汽車を待つ間に、今津屋橋から津山の街を見渡していた。

そして、コンビニで朝食。

広くとってあるイートインコーナーがとても有り難かった。


 この場所は、かつて映画館があった場所。

最後に観たのはキアヌリーブスの「スピード」だった。

田舎特有の2本立て、もう一つは「34丁目の奇跡」。



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 振り返れば30数年前の高校1年の秋、大きな挫折から、私は変わっていった。

何かを達成しようと始めたボクシング。

ひとりで練習するジムを抜け出し、よく走った吉井川の河川敷。

何往復も走っていたこの場所は、今もそのままだった。


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縁に生かされ

 私の青春の原点がこの地にあったことを思い出していた。

鍛え抜いた体幹だけがその後の礎(いしずえ)になって、不思議な縁で運命改革が始まった。

卓球部だったため、部活のあとにジムに行き、朝は八出の河川敷を走り、夜はこの今津屋橋の下を走った。


 高校2年でボクシングのデビュー戦。

卒業までの3試合、すべて同じ相手に負けた。

しかし、やるだけのことはやったという達成感からか、不思議な充実感を味わっていた・・・。

そして、そこで終わるはずだった、それでよかったと思っていた。


 不思議な巡り合わせで、スカウトが来て、私は大学へ進学した。

大学に入るとすぐに、岡山代表で国体に出場。

対戦相手は、アジア大会に出場する日本チャンピオンだった。

そこでは負けたものの、その秋、後楽園ホールでのリーグ戦で、同い年の高校チャンピオンと対戦した。

2年連続でインターハイを制していた選手だった。

これまでに鍛えてきた体幹とスピードがダイナマイトのようなエネルギーになって爆発した。

リングで大暴れした私は、60秒で相手を倒していた。

高校時代で終わるはずだったのに不思議な縁によって開花していった小さな私。

何のために大学に行ったのか?

そのときの役割は、足りない部員の微力ながらの補強に過ぎなかった。

そのお陰で、リーグ戦は全試合に出場した。

高校時代にあこがれていた、後楽園ホールで20戦も戦えた。

 大学4年で引退し、しばらくは東京にいたが、田舎に帰った。



二度目の上京

 田舎に戻って、中学校の講師をしていたが、期限が来て、再び上京することになった。

津山駅に見送りに来た両親。

 
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 出発間際になって、私は初めて父を抱きしめた。

私よりも立派な体格にまだまだ圧倒された。

泣きじゃくる父に、申し訳なく思った。

いよいよ扉が閉まったとき、父は扉を叩いて、くしゃくしゃの顔を見せながら「うんうん」とうなずいて、手を振った。

私はそこから動けなくなり、遠ざかっていく両親をずっと見ていた。

結局、岡山駅に着くまで涙に濡れた顔を上げられないまま、そこに立ちつくしていた。

それから、3年後、私は、彼女を実家につれて帰った。

二度目の上京は、その人とどうしても一緒になりたかったからだった。


 父は私が結婚してからずっと、「おまえはええ嫁をもらった」と褒めてくれていた。

そして、私自身も、彼女の両親に大切にされた。

「寵愛」という言葉の意味と、私が彼女の両親から受けた感覚とが重なる。

遠くにいても、近くにいても、みんな仲むつまじく過ごせた日々を、子どもたちも忘れないでいてほしい。


 田舎を捨てて上京したことをときどき申し訳なく思うことがある。

いつも嬉しそうに迎えてくれていた父を思い出しながら・・・。











by ikenosai | 2016-06-19 07:19 | お父さんお母さん | Comments(2)

天国へ


「神様がくれた一週間」


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4月23日(土)
 父が危篤との連絡が姉よりあり、父のケータイへ連絡すると、まだ話ができた。

  25日(月)
 朝早くから、姉のメールで、父が肺炎とのこと。
すぐに、職場の上司に話し、大型連休中の私の担当していた業務を全て、分散し、交代していただくことになった。

  26日(火)
 半ば強引な引き継ぎながら、昼前には東京から新幹線に乗って、新大阪から高速バスに乗り継ぎ、父の病院がある中国勝間田で下車。
姉が迎えに来てくれて、その日から、私も看病するメンバーに加わった。
 父は、話すこともでき、臨終はまだまだ先にあるように思えてきた。



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 病院と家との間にある、私の好きな風景。(国道179号線のそば)


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 春の風を感じながら!

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 ウシガエルがすんでいる池!

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 あふれた水が少しずつ!


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 父の病室から見える景色。
高校時代に読んだ、オー・ヘンリーの「THE LAST LEAF (最後の一葉)」を思い出していた。
希望の葉っぱに私たちがなれればと願った。
 姫新線(勝間田駅と林野駅の間)を通る汽車の音が、時報のように!









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4月30日(土)
 命日になる朝が来た。
まだまだ、そんな余波はなかった。
 霜(しも)が降りた朝だった。


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 大型連休の2日目だった。

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 午後から、ひとり外に出て野球を観ていた。
病院から数キロ先、湯郷温泉の近くにあるスポーツの総合施設の野球場。
シニアリーグの練習試合(津山のチーム vs 美作のチーム)
美作といえば、湯郷出身で今も在住の、あさのあつこさんの「バッテリー」、ここはその聖地と言える場所。
野球を観ながら、少年時代の父とのソフトボールの思い出を振り返っていた。
小6のあの夏に市の大会で優勝した思い出。
父が監督で、私がキャプテンだった。
秋には県大会に出場したことも思い出していた。
のびのびとプレイしていた少年時代。
そのまんま私は大人になった。


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 再び病院に戻るとき、車を止めて眺めていた滝川。
この川は、梶並川、吉野川、吉井川に注がれ、瀬戸内海へと・・・。
水に映る西日に、微睡んでいた。
父とのわずかな時間を意識しながら・・・。


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 西日本の夕方は、東京より少し長い。
通り過ぎていく人々、周りにいる人々が輝いて見えていた。
父の薄れゆく命の儚さと重なってか、切なく、そして尊く見えて・・・。

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 26日(火)から帰郷して5日目になる。
昨朝から父の意識レベルは下がってきていた。
痛みの緩和のため、背中には麻薬の湿布が貼られていた。
それまで堪えていた痛みが嘘のようにすやすや眠っている。

 26日(火)、27日(水)、28日(木)と、この3日間で思い出話を交えながら、父に「ありがとう」と言えた。
そして、父からも「ありがとう」という言葉が何度も出ていた。
 父の手を握り、額と額を寄せ合って「共に乗り越えていこう!」と言葉を掛けると、父は「うん、うん!」と応え、お互いに覚悟した。

 48年もの重なり合う父との現世・・・。
とうとう、私たち家族はジェットコースターに乗り込んだ・・・。
そして、今、絶叫の乗り物に一喜一憂しながら乗っている・・・。
そんな感じがしていた。

 午後から、血圧が下がり始め、酸値も少しずつ下がっていることを看護師からも伝えられた。
もう寝ているだけの父。
寝息が穏やかになってきている。
やがって止まってしまう父の呼吸。

寂しさが少しずつ私を襲い始めてきていた。
もう語らうことはないかもしれない。
しかし、ときどき、手を握り「お父さん」と言葉を掛けている。
どうか、苦しみが少ないようにと祈る私。
「シュワシュワ」と酸素が通る瓶の音に一定のリズムで「~ハッ、~ハッ、~ハッ」と父の寝息の音がする。
その横で、父を見ながら座っている私。
今日も叔父(父の弟)が付き添ってくれていた。
昔の話をたくさんしてくれた。
父との若い頃、大阪にいたころの話など・・・。
私の知らなかったことがたくさんあった。


 夜8時半頃

 以前、肺炎をおこした父は、あの危機的な状況から生還していた。
あれから5年目の春が過ぎていた。
一旦、肺が弱ってしまった父は、弱いなりの肺を、高地トレーニングのような状態で鍛え上げていた。
なので、医者からは2日ともたないだろうと言われていたのに6日が過ぎようとしている。


 夜9時40分頃

 血圧が下がり、120くらいもあった脈拍が50~60に・・・。
肩で呼吸をしていたはずが、浅くなり、弱まっている。

 そして、呼吸が止まった。
もう、戻ってこない・・・。
再び、1回だけ大きく肩で息をした。
それが最後で、もう息がなかった。
「お父さん、お父さん」と耳元で呼んだが父の意識はもうこの世には現れなかった。

 ジェットコースターが止まった。
私は周りを見渡した。
みんながいた・・・。
しかし、父だけがそこからいなくなっていた。

 
 夜22時頃

 当直の医師が死亡を確認した。
呼吸器、諸々の管が外され、やっと父は身軽になった。
主事医も自宅から駆けつけてくれた。

 看護師2人、母、姉、姪、義兄、私で父の体をきれいにし、お気に入りのスーツを着せた。
そして、叔父の車で運ばれて父は帰宅した。
すでに日付が変わっていて、葬儀屋が家に来ていた。



 5月2日(月)通夜

 5月3日(火)告別式



 父の遺言どおりに葬儀がおこなわれた。



 父が私にくれたもの、それは慈悲の一言に尽きる。

みかえりを求めない無償の愛を惜しみなくいただいた。

小学校6年のとき、前年までのソフトボールの指導者が勇退し、私の担任の説得で、父が監督になった。

毎日、16時に仕事を切り上げて、指導に来てくれた。

その年、市の大会で優勝。

私が卒業後も監督をし、3年間務め、市の大会では全て優勝し県大会へ出場した。


 今年に入ってからも父が言い続けていたことがある。

「子どもは親の背中を見て育つ、だから、おまえの生き方は子どもに影響を与えるけん、子どもたちをしっかりとみてやって欲しい・・・。」と。

そして、必ず、「お父さんはそれができなかった。許しちゃってくれいや・・・。」と私に謝っていた。

私は、その言葉を聞くだけで、ああ、親孝行をしなければという思いになる。

しかし、墓石に布団は掛けられぬ・・・。

なので、その思いを子どもたちにと思う。

しっかり、子育てをすることで父への恩返しにしたい。

 
  お父さん、どうか天国から見守っていてくださいね。

いつか私がそちらに行くまでの間・・・。



 棺の中に花をたむけるときだった。

それまでは涙が出なかった。

もう覚悟ができていたから、そう思いこんでいた。

喪主の私は、一番最初に棺の中に花をおくと、思わず父の髪をなでて、自分の頬を父の額につけて「ありがとう、お父さん、さよなら・・・。」と父に話しかけると、止めどなく涙が溢れてきた。

やっぱり、泣いてしまった。

おいおい泣いて、父にお別れをした。






















by ikenosai | 2016-05-13 19:03 | お父さんお母さん | Comments(9)

贈り物

 田舎からお米が届いた。

一族の長男だった私が、東京に来たもんで、お米作りも途絶えてしまう。

父の願いとは裏腹に、私は田舎を捨てて、東京に・・・。

米作りは、大変な上に、儲からない。

だれも作りたがらないのは当然かもしれない。

 それでも、両親は最後の力を振り絞るように、私に米を送ってくれている。

姉夫婦も協力して、大変な思いをしながら、米作りをしてくれていた。

それだけでもありがたくて、ただただ感謝だった・・・。

 昨日、届いたお米の上にハサミがのっていた。

懐かしい、私が子どもの頃から見覚えのあるハサミ・・・。

梱包していた父が、取り除くのを忘れたまま、送られてきたのである。


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 すっかり歳をとった父が、段々遠くへ行くようで寂しくなった。

それでも、春はもう来ている。

今日の帰り道、桜が咲いているのを見て、義理の母を思い出していた。



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 桜が満開のころ、義理の母は天国に旅立った。

いつか行く道、しかし、目に見えない存在になるとやはり、寂しい・・・。

私も少しずつ近づいている・・・。

それは、父よりも、母よりもずっとあとのことだろう・・・。

せめて、そうであることを願っている。

それが、お父さん、お母さんといつか交わしてきた約束だから・・・。









by ikenosai | 2016-03-10 22:20 | お父さんお母さん | Comments(2)

運動会を観ながら・・・

 昨日は娘の中学の運動会を観に行った。

 先月の息子の運動会は仕事で行かれなかった。

 中学にもなると、競技中心で、いまいち盛り上がりにはかけるが、私は感動しつつ見入っていた。

 娘が出た競技種目は、二人三脚、百足競争、大縄跳び、クラス全員リレーだった。

 当日までの様子は時々伺っていて、大丈夫かな?と心配していたが、勝負の世界はやってみなければ分らない。

 どの競技も申し分のない結果で本当に良かったが、特に印象に残ったのがクラス全員リレーだった。

 3クラスでの対抗戦で、どのクラスもそれなりの戦術で挑んでいたが、娘のクラスは後半に駿足の生徒を集め、半周も遅れていたはずが、終盤に大逆転し、観衆への最高の演出に私は目頭が熱くなっていた。

 昨年度の合唱コンクールでも話したが、やはり、学校は素晴らしい。

 あの多感な年頃の子達の融合の場はまさに学校にあるとつくづく感じた日だった。

 今から、20年近く前、私は岡山県津山市にある中道中学校で社会科の教師をしていたことがある。

13ヶ月ほどの産休代替だったが、運よく運動会と文化祭が2回あった。

 生徒たちと共に協力し合い、計画を進めていくと色々な面から成長が見えてくる。

 教育の真髄はこの関わりの中に垣間見ることができる。

 実は教師がどこまで真剣に生徒たちを信じて関わるかであるが・・・?

 結果としてでてくるのもこういった真剣な取り組みの中からであると思う。

 教師として携わった1回目の運動会のとき、私は計り知れぬ充実感で満たされた。

 それは、生徒たちと共にやり尽くしたことへの充実感からだと今は感じている。

 応援合戦では、リーダーをしていた先生から、応援の仕掛けで使うスロットマシーンを作りたいと相談され、その日の夕方、父と竹薮に入り、長い竹をもらってきた。

 私の幼少期に鯉のぼりをあげる時にいただいて以来の竹薮に、父は懐かしそうに当時の話をしてくれた。

 美術部の生徒に、製作の詳しい内容を伝えると、見る見るうちにスロットマシーンが出来上がり、当日は、3人の先生がドラムを動かし、スリーセブンに合わせ、揃った瞬間に、スロットマシーンの下のゲートから、ボンボンを振りながら生徒たちが一気に出てきて応援合戦がフィナーレになる光景だった。

 応援合戦を向かい側で見ていた先生たちから、「あれは、素晴らしかった。誰のアイデアだ。」と聞かれ、「ボンボンを持って出てきた生徒たちがとても楽しそうで絵になっていた。」と言われ、演出の喜びを強く感じた。

 それぞれの学年代表で結成しているリレーでは、先生チームも加わり、私は第1走者をさせていただいた。

  しかし、第1走者は1年生なので同じ場所では差がついてしまうため、私のスタート位置は一番後ろの走者からさらに10メートルほど後ろからだった。

 それでも、次の先生には1番でバトンを渡せていたので、私の面目はたった。

 2年生はそこそこ速く、追いつかれてきて、3年生で一気に抜かれ、先生チームはビリだった。

 中には、もと陸上部で100メートルの県の中学校記録を持っている女の先生もいた。

 驚くことにその先生は生徒たちの体育の教科書で県の記録として名前が載っていた先生だった。

 その先生さえも、3年生にことごとく抜かれてしまっていたので、私は後半の走者でなくて良かったと思った。

 私自身の中学の運動会も思い出していた。

 小学校では全てのリレーがアンカーで、応援団長をしていたのに中学では一気に陰の存在。

 800メートル走に出場し、7人中ビリ、2年のときは400メートル走で7人中3位。

 3年のときは、おたふく風邪と髄膜炎で2週間休んで卒業アルバムの運動会のところを見ても、記憶にない場面ばかり。

 決して輝けるものではなかったと記憶している。

 それでも、母は応援に来ていたし、運動会前には自主練習をしていた私にスタミナドリンクを毎日飲みなさいと1箱買ってくれていた。

 両親との色々なことを思い出していた。

 小学6年のとき、父はソフトボールチームの監督になった。

 レフト側のファウルボールの位置に校舎があり、1階が音楽室で2階が図書室。

 1階の音楽室のガラスがファウルボールで何度も割られていたので、その都度用務員のおじさんがガラスを入れていた。

 大変な仕事と思った父が、家に余っている大量の板ガラスを寄贈し、1階の音楽室の窓全面に鉄のネットを組んで取り付けた。

 事前に学校から許可を得て、何日かに分けて少しずつ奉仕活動として自己負担で取り付けた。

 それ以来、音楽室のガラスは壊れなくなった。

 それは、卒業後も、私が大学を卒業して数年後の建て替えまでの間ずっとだった。

 私が通う学校のために精一杯できることをやってくれた父に今はとても感謝している。
 

 果たして私は、子どもたちの通う学校にどれだけ恩返しできているだろうか?そして、先生たちに感謝できているだろうかと思いながら1日を過ごしていた。

 学校は素晴らしい、とにかく子どもたちを見ながらつくづくそう思った。


by ikenosai | 2013-06-09 13:48 | お父さんお母さん | Comments(0)