フランスのノルマンディー地方にあるモンサンミッシェルは海に浮かぶ神秘的な教会です。
1200年もの大昔、アヴランシュ司教オベールという人が夢枕に立ったミカエルの声に従い建てたそうですが、彼の死後にも改築・改修がおこなわれ、今の立派な建物になっています。
マザーテレサも神の声に従い誰にも真似のできないあれだけの偉業を成し遂げました。
曽野綾子さんの恩師にあたる尻枝正行神父がなぜ神父の道を選んだのかというお話が“レ・ミゼラブル”を思い出させるようなできごとでした。
神父の父親が戦死され、終戦当時は姉2人弟1人母だけの母子家庭で、神父は13歳ながら一族の長だったため、家のこともやらなければならなく、住む家の補修もままならない時代にあって、正行少年は、ある日、意を決して家を直す釘を盗むため、その家の主がイタリア人の神父とも知らずに泥棒に入ったのです。
少年はその場で捕まりましたが、イタリア人の神父は理由を聞くと少年のリュックに入るだけの釘を詰めてくれ、「足りなかったら、またいらっしゃい」と言ったのです。
ジャンバルジャンの銀の燭台が彼にとっては釘だったのです。
少年はイタリア人にも警察にも捕まることはなかったのですが、神にとらえられて神父の道に入ったのです。
その神父が30年ほど前の著書に「それにしても、良き父母をもつ理想的な家庭だからといって、必ずしも子どもが立派に育つとは限りませんね。私はその実例を余りにも多く見てしまいました」と書いています。
決して比較して分かることではないですが、昔に比べ、生活に困らない現代であっても、ついつい不遇を恨み、不幸を感じてしまいがちになります。
しかし、そんな中にも無償の愛(神の愛や仏の慈悲)は存在しているのです。
どんな不遇にあっても、人を変える神秘の力に満ちています。
そんな深い愛にふれたとき、人は変わっていくのでしょう。
そして、できるだけ身近な人たちが愛をもって接していることはとても大切なことなのです。
学ぶとは知識を身につけ、それが智慧となってこそ意味があるのです。
なぜ勉強しなければならないかという疑問への答えはそこに集約されています。
智慧を授かった者が深い感謝を感じ、愛に満ちあふれたとき、人は神の声を聞くのでしょう。