いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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第6夜 美しいままで



高校総体の予選から・・・(失恋小話)


 今日は、日本の卓球がオリンピックで個人としては初めてになるメダル獲得の日!

以下は僕が高校時代の頃の話、そして、それをモチーフにして作った失恋小話。

卓球の国体予選、岡山の男子高校生だけで500人が予選に出場。

その中から5人が選出される。

僕は3回戦で負けて、ベスト128がやっと・・・。

それだけ、裾野は広いと思った。

どうしても国体に出たかった僕は、途中で競技種目をもう1つ増やした。

卓球以外ではあったが、国体選手にはなれた・・・。

あれから30年が経つが、やはり卓球でその頂点に立つのはすごいと思う。






第6夜 美しいままで


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年目の高校総体予選は僕にとって栄光の年だった。

団体で臨んだ試合ではシングルスとダブルスに出場していた。

地区総体は地域あげての大イベントでどのクラブ活動にも所属しない生徒はとりあえずどこかの会場に行き試合を観戦することになっていた。

なので僕たちの試合会場にも大勢きていた。

暗いスポーツと思ってやっていた卓球だったが、中学からやり始め、これには結構はまって、高校では1年からレギュラーで出してもらっていた。

そして、今回の会場には中学のときのクラスメートだった女の子がわざわざ僕の試合を観に来てくれていた。

応援の後押しもあってか、張り切っていた僕は全試合に勝ち、チームはベスト4まで勝ち進むことができた。

その日の夜に彼女から電話があり、僕たちの交際が始まった。

毎日が卓球の練習の日々、それでも時間を作っては待ち合わせをし、少しの時間でも会っていた。

てれていたのか、僕はプラトニックな関係でいることに何の違和感もなかったが、周りでは大人の関係にと急ぐ者が多かった。

僕は恥ずかしくてキスもできなかった。

僕は楽しかった、ずっとチェリーな少年のままでいいと思っていた。

それでも1年後、プラトニックな関係のまま彼女と別れてしまった。

彼女は泣いていた。

こんな拙い僕との別れにも淋しそうに悲しんでいた。

その様子を見てから本気で後悔した。

別れてきたのだと自分に言い聞かせ、未練を必死で断ち切って練習に励んでいた。

一人だけの朝練の日々、不安や孤独感に必死で立ち向かっていた。

何度も走って、くたくたになるまで練習をしていた。

孤独の中にあっても僅かな希望とささやかな楽しみだけを妄想していた。

しかし、それは自分の世界でしか抱けなかった。

そうやって満足させようとしている自分を不快にも必死で受け入れている青い僕がいた。

何かにとことん励むことで希望につなげていたように思う。

 高校3年の冬、希望が現実となった。

勉強もろくにしなかった僕が体育推薦で大学に進学することになった。

彼女に電話で話すと「じゃあ遠くに行っちゃうね」と淋しそうに話し、これから遊びにおいでと家に誘われた。

友達に話すと「おまえもチェリーを卒業するんか」と言われ、万全の準備をして家を出ようとしていたときに「今日は会えないわ」と電話がかかってきた。

僕のもう一つの卒業式はおあずけになってしまった。

そして、何もないまま僕は上京した。

数日後、大阪に出た彼女から実家に手紙が届いたので母に転送してもらった。

僕も手紙を書いて、相変わらずのプラトニックな仲良しのまま遠距離での文通をしていた。

 夏休み、国体予選で田舎に帰り、勝って県代表になった。

中国大会まで1ヶ月あったので、バイトをしながら実家に残った。

彼女と電話で話しているうちに大阪で会うことになった。

僕は高速バスに乗って大阪に行った。

大阪の街を案内してもらい、大坂城に行ったり、一緒にご飯を食べたりして過ごした。

夜には帰ると両親に伝えていたので夕方、梅田駅で別れた。

帰りは電車だった。

迷いやすい僕を気遣ってくれてか、ホームまで見送りに来てくれた。

最後の最後、電車が発車する間際になって僕は彼女の手を握って「元気でな」と言葉をかけると、彼女は「最初からこうすれば良かったなあ」と言い、手をつないでデートすれば良かったと僕も後悔していた。

彼女は淋しげな表情を抑え、笑顔を作って手を振ってくれた。

いよいよ電車が走り出して遠ざかっていく彼女を横目に、彼女がまだ僕を好きでいてくれていたことにやっと気がついていた。

それでも、僕たちは仲良しの友だちでずっとこんな関係を続けていた。

それぞれに何のトラブルも持ち込まないさわやかな関係を高校2年の時からずっと続けていた。

26歳のとき僕は田舎に帰った。

1年半も田舎にいたので、彼女が帰省したときに会える日があった。

僕は免許を取って以来ペーパードライバーで、田舎でやっとマイカーが持てるようになったので、彼女を誘って山陰までドライブをした。

運転が下手な僕の助手席でも彼女は楽しそうにこれまでの色々な話をしてくれた。

それでも、僕に気遣ってか恋人の話は一切しなかった。

山陰は僕の得意な場所だったので迷うこともなくすいすい行けた。

雨が降ったりやんだりする中で湯村温泉まで行った。

温泉には入らなかった。

浦富海岸に寄ると雨があがっていて海を眺めながらぼんやり過ごした。

帰りはまた雨が降っていた。

暗くなっていたので家まで送った。

近くの広場に車を止めて語りつくせぬ話をまだ続けていた。

それでもどこかで切り上げてまた別れなければと、少し淋しい気持ちでそのタイミングを待っていた。

彼女もそんな切ない気持ちでいたのかもしれない。

彼女が車から降りなければという雰囲気になってきた。

お互いに淋しい気持ちが通じ合っていたのか解らないが、彼女と目と目が合って、しばらく見詰め合う時間があった。

表情が分かるくらいの暗闇の車の中だった。

周りには誰もいなかったので僕はそのまま彼女の唇に自分の唇を重ねた。

彼女は抵抗なく僕の行為を受け入れた。

そして、抱き合い、長い間、その状態でいた。

彼女の目から涙が流れていた。

彼女は涙声になって強く抱き合ったまま会話を続けていた。

付き合い始めた高校時代から10年が経っていた。

初めて僕たちは恋人たちのように唇を重ね、お互いの気持ちを感じていた。

あの日の青く、切ない思いが10年経ってよみがえってきたのを僕は感じていた。

初々しいはずの彼女は成熟した大人になっていた。

それでも、僕には10年前のあの純真無垢のまま接してくれていた。

そして、これから何年か経ってまた会ったとき、もし彼女がひとりだったら、次は僕から交際を申し込むつもりだった。

あれ以来、彼女とは会っていない。

あの阪神淡路大震災で彼女は被災地にいた。

被災地でお世話になっていた男性の住む家族の家に嫁ぐことになったと最後の電話で彼女から聞いた。

永遠のお別れになると僕は直感した。

そして、あのときのまま、思い出を閉じ込めて、僕からも彼女からも連絡は取っていない。
               「恋別離苦」(短編集)より


                                                                                                                                                       

                           







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by ikenosai | 2016-08-12 22:04 | 恋別離苦(短編集) | Comments(0)

今年も行かなかった東浜海岸



 毎年、帰省するたびに、 今回は絶対に行こうと思っている海がある。

しかし、他の事にとらわれて、ついつい行きそびれてしまう。

そういえば、息子が生まれてからまだ一度も行っていない。

浦富海岸も鳥取砂丘も行っていなかった。

さらに東の兵庫県との県境にある東浜海岸が私の一番のお気に入りだった。

田舎で中学校の講師をしていた頃は、2~3週間に1回のペースで出かけていた。

春であろうが秋であろうが真冬であろうが出かけて行った。

春先の海が特に好きだった。

ポカポカと暖かく、しかも誰もいない。

そんな静かな海で、ひとりぼんやり過ごすのがとにかく好きだった。

海沿いの旧道の路肩に車を止めて、波打ち際を歩く。

晴れの日の青々とした水平線を眺めているのが大好きだった。

夏になると大勢の海水浴客で賑わう浜辺も、シーズンオフには誰もいない。

そんな静かな海によく出かけていた。

 通勤電車の中から駅のホームを眺めていたら、見覚えのある景色にハッとした。

飛行機で撮影したらしき浦富海岸の景色だった。

何日も、何日も、電車のドア付近から眺めていたが、今日はとうとう途中下車してポスターをじっくりと見た。

やっぱり浦富海岸とその手前の小さな漁港だった。

砂丘のポスターもあった。

何とも懐かしく見入ってしまった。

やっぱり私は海が好きだった。

あの透きとおるきれいな海。

青々とした水平線を眺めるのがやっぱり好きだった。

来年こそはあの東浜海岸に必ず行くぞ・・・。




(東浜の動画が見られるお薦めのサイト)http://player.video.search.yahoo.co.jp/video/cb5650ce76eb65e201948396b3250cdb?p=%E9%B3%A5%E5%8F%96%20%E6%9D%B1%E6%B5%9C%E6%B5%B7%E5%B2%B8&b=1&of=&dr=&st=&s=&pd=&ma=&rkf=1&from=srp
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by ikenosai | 2010-09-25 22:00 | いつか余熱に気づくとき | Comments(0)

海さえあれば楽しかった

 高校生になって、最初の夏休みがきた。

友だち3人と早々に、キャンプを計画した。

大して小遣いを持っていなかったので、自転車で日本海の浦富海岸に行くことにした。

浦富海岸は鳥取砂丘から兵庫県に向けて行ったところにある絶景の海岸である。

私以外の2人は、すでにサイクリング用のドロップハンドルのいいやつに乗っていたので問題なかったが、私は中学時代から乗っているくたびれた自転車。

1人が気を遣ってくれて、余っているいいのがあるからと貸してくれた。

テントやタオルケット、飯ごう、鍋、燃料等々分担して持つことにした。

早朝5時に待ち合わせて出発した。

自転車で遠出するのは中学2年のとき兵庫県の相生に行ったサイクリング以来だった。

楽しさが込み上げてくるのか、みんなスイスイ飛ばして、意気揚々と黒尾峠の坂を上っていた。

峠のドライブインで少し休んだ。

まだ、早朝だったので、人は少なかった。

山の中だったので、水道の水が冷たく美味しかった。

鳥取県側の道はほとんど下り坂で、しかも急だったので、あっという間に鳥取市に入った。

そこから国道9号線を通って、ひたすら浦富海岸のある岩美町を目指す。

砂丘の側をとおり、ああ海まできたという実感でみんな興奮気味だった。

思いの外、上ったり下ったりしながら、やっと浦富海岸にたどり着いた。

日差しは強く、暑かったが、昼までには充分に時間があった。

海水浴場の事務所に行き、手続きをした。

高校生でしかも自転車で来たことを伝えると、料金を半分にまけてくれた。

テントをはり、荷物を入れ、自炊できるようにした。

急いで水着に着替え、その日から原始人のような裸の生活が始まった。

太陽が見えている時間帯はご飯を食べるとき以外は、水中メガネとシュノーケルを付け、ずっと潜っていた。

どんな美人が水着姿でいてもお構いなしだった。

私たちはイルカのようだった。

そして、海の景色の一部のようだった。

夜は、そこらじゅうで花火をやっていたので、私たちも買い込んで野郎だけで楽しんだ。

翌日の朝は、早朝に目が覚め、飯ごうで飯を炊き、朝ご飯を作った。

そして、8時頃にはもう海の中にいた。

昼ご飯を食べるとき以外は、夕日が沈むまで海の中にいた。

いくら潜っても飽きない景色。

魚の群れや、浅瀬にやってくるボラを追いかけて遊んだ。

小島の岸から飛び込んだりもした。

午後から海水浴場のイベントがあり、宝探しに参加した。

広い砂浜を利用し、枠内の砂の中に色々な品物が埋めてあった。

みんな、それぞれに何か見つけたが、何を見つけたのか今は覚えていない。

それでも、3日連続の海の暮らしはすごく楽しかった。

3日目、午前中は海で遊んでいたが、午後、荷物をまとめて、海をあとにした。

充分に満足感はあったはずなのに、まだまだ海にいたいという気持ちが強かった。

鳥取駅まで1時間近くかかった。

そこからは、ひたすら千代川を上っていくだけである。

来るときよりも上り坂が多く、みんな疲れが出始めていた。

智頭駅を過ぎたあたりから、本格的な上り坂に入る。

それでも、体力に自信のあった私は、テンポ良く、スイスイと自転車を漕いで上っていった。

上り坂も最後のほうは急なヘアピンカーブが続く。

それでも、漕いで漕いで登り切った。

振り返ると、2人がついてきていなかった。

20分ほど休憩しながら待ったが、一向にくる気配がなかった。

坂を見下ろしても、姿はなく、心配になった。

私は、とうとう上ってきた坂をまた下り始めた。

長かったはずのヘアピンカーブをあっという間に駆け下りてみると、疲れ切った2人は、自転車を路肩にねかせ、本人たちも路肩の安全な場所で仰向けになって死んだように寝っ転がっていた。

体力の差は歴然とあった。

私は運動部に所属し、毎日2時間以上の運動は当たり前だったし、ちょうどマッチョにあこがれていたこともあって、筋トレにもはまっていた。

彼らも普通の高校生並みの体力はあったが、私が異常に元気だったと思う。

再び列をつくり、坂道を上り始めた。

彼らを先に行かせ、私はその後ろについた。

さすがに2度目のヘアピンは疲れた。

それでも、彼らのペースだったので、ついて行くことができた。

黒尾峠の頂上のドライブインで一息入れた。

トンネルの向こうは、岡山県。

あとはほとんど下るだけ。

ここまでくればもう安心だった。

途中まで一緒に行き、私だけ方向が違うので途中で別れた。

家に着いたのは夕方だった。

ヒグラシの鳴き声が山の方から盛んに響いていた。

家にはまだ誰もいなかった。



 今日は海の日、当時はそんな祝日はなかった。

それでも、中学や高校のときは、毎日が海の日かプールの日だったように思う。

さらにお金のない日は、川に潜ってナマズやアユを捕っていた。

その川も今は、とても泳げるような川ではない。

あんな田舎でさえ、時代とともに環境破壊が進んでいるのだと思うと、何だか悲しい感じがする。

3年前の夏、四万十川に行った。

今では日本最後の清流なんて言われているが、私の実家近くの川も昔は同じような清流だった。

那岐山の麓、塩手池から流れる広戸川は、私が子どもの頃はまだまだきれいだった。

堤防近くの浅瀬にうつぶせになると、遡上するハヤがお腹のすき間に入ってくる。

それを手づかみで捕るのが楽しかった。

近くには、駄菓子屋もあり、300ミリのコーラをよく飲んでいた。

その場で空き瓶を返すので、一本50円で飲めたのも、何ともありがたく、いい時代だったなあと懐かしい。

そんな駄菓子屋も店主が亡くなり、儲からない趣味のような店だったので今はない。

あるのは、どこへ行っても金太郎飴のごとく、個性のないコンビニだけである。
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by ikenosai | 2009-07-20 07:14 | 海まで走ろう | Comments(0)