いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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父の一周忌法要で帰省



私の大好きな風景

田園風景
津山の実家
美作大崎~西勝間田の間の集落

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父の一周忌法要の翌日、島根県浜田市の母の実家へ
再び津山に戻ってから一日だけ、のんびりできた日があり散歩へ!

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子どもの頃、よく釣りをした池

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ところどころに廃屋

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朽ち果てた家も


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                   地元の豪農(大地主)の家
                  一族が街に出てしまって・・・
                    高齢化する地域に・・・




もうすぐ母の日ですね!
 僕の大切なお母さんのお話、お読みくだされば嬉しいです。

 これは僕のお母さんの話です。
生まれ育った南国の漁村から瀬戸内海を渡り日本海側の浜田漁港にひっこしてきました。
最初は近所のかんづめ工場で働いていましたが、大阪のしんせきの店を手伝うため家族のもとをはなれ、ひとり大阪にいきました。
大阪の店にはたくさんのお客さんがきていて、親しい人もでき、街にもすっかりなれていました。

 正月を二日後にむかえたある夜、お店によくくる男の人がやってきて、明日いなかに帰るんだが、できればあなたをつれていなかに帰りたいと話したのです。
それが花嫁さんになるお母さんへのお父さんからのプロポーズの言葉でした。
花嫁さんは迷うことなく次の日荷物をまとめて、汽車に乗って僕のいなかにやってきました。
おおみそかの夜、とつぜん花嫁がやってきて、みんなはびっくりしました。
花嫁さんはもっとびっくりしました。
いなかには、三番目と四番目の弟、二人の妹がいる大家族だったのです。
代々続く家だったので、一族が集まるいそがしい家でした。
えらいところにお嫁にきたと思ったことでしょう。

 一年ほどしてお姉ちゃんが生まれ、それから一年半して僕が生まれました。
がんこなおじいちゃんやわがままなおばあちゃんにもまけずにがんばっていましたが、たえられなくなったある日、お姉ちゃんと僕をつれて、いくあてもなく家出をしたことがありました。
それでも僕たちの幸せを考えてくれた花嫁さんは覚悟をきめて、お父さんの待ついなかにもどったのです。
なれない土地でたいへんでした。
それでもその土地になれようと一生懸命生きました。

 僕が幼稚園のとき、がんこなおじいちゃんが病気でなくなりました。
わんぱくでいたずらばかりしていた僕はいつもみんなにめいわくをかけていました。
あやまりにいくのはいつも花嫁さん。

 中学生になった僕は、不良になり、先生にも、近所の人にも迷惑をかけていました。
あやまりにいくのはやっぱり花嫁さんです。
「息子がご迷惑をかけてすんません。」といつも頭をさげてばかりでした。

 僕が中学二年生のときおばあさんが寝たきりになってしまい、そこから介護の生活が三年間続きました。
来る日も来る日もおばあさんのお世話です。
ご飯を食べさせて、体をきれいにふいてあげます。
とこずれやオムツかぶれがあると、どくだみの葉っぱをかわかし、それをにだしたお湯を体に塗ってあげました。

 おばあさんは花嫁さんに文句ばかり言っています。
嫁は信用できないと言われても、いつもやさしくお世話しました。
あいまを見て家々の電気メーターを見る仕事をして家計を支えていました。
おばあさんが死ぬ少し前、おばあさんがわがままばかり言うもんで、花嫁さんはとうとうおばあさんと言葉でけんかをしてしまいました。
僕から見るとおばあさんが悪かったと思います。
それでもなくなる直前でなかなおりしました。
夏の終わりの暑い日でした。

 おばあさんがなくなった数日後は花嫁さんの四十一歳の誕生日でした。
お姉ちゃんとお金を出し合ってケーキを買ってささやかにお祝いをしました。
 
 僕が高校を卒業するころ、花嫁さんはヤクルトの配達のお仕事を始めました。
僕の小学校の学区内でした。
一軒一軒にヤクルトはいりませんかと売りにいきました。
僕となかよしだった子の家はすぐに買ってくれましたが、僕となかが悪かった子の家は、やっぱり買ってくれませんでした。

 配達で地域の情報を知り、僕によく話してくれました。
僕が東京の大学に行ってからもずっとヤクルトを配っていました。
地域ではヤクルトさんと言われていました。
山あいに住む一人暮らしのおじいさんやおばあさんの家にもヤクルトを配達しました。
三輪のバイクで毎日毎日配達にいきました。
そのうちいろいろな人の悩みや相談を聴くようになりました。
みんな花嫁さんが来るのを楽しみにしていました。
 
 いつも買ってくれていたおじいさんやおばあさんがなくなると香典をもって葬式にいきました。

 僕がいなかに帰省していたとき、家の近くの駅まで花嫁さんが見送りにきました。
たまたま居合わせたおばあさんが「あんた、ヤクルトさんの息子さん?」とたずねてきました。
僕が返事をすると「いつもお世話になっとります。」と花嫁さんに親切にしてもらっていることを話してくれました。
僕は嬉しかった。花嫁さんがみんなに好かれていて。
花嫁さんはみんなに親切にして、みんなからたよられていました。

 おじいさんの弟が寝たきりになったときもお世話になる老人ホームが見つかるまで家で介護をしました。
お父さんより18歳も若い弟が病気でなくなったときも、花嫁さんはなくなる間際までお世話をしました。
 
 花嫁さんが僕の家にきてからたくさんの人がなくなりました。
花嫁さんはいつもみんなのいる仏壇に手を合わせ、ご飯や水をおそなえし、線香をたき「なんまんだ、なんまんだ・・・」ととなえます。

 お嫁にきてからもうすぐ50年になります。
四国から日本海にうつり住んだ花嫁さんの両親も何年も前になくなりました。
もう帰る場所もなくこの岡山の土地で静かに暮らしています。

 僕たちの一族のために花嫁さんは自分の人生をささげて生きています。
お父さんの親や兄弟、しんせきを天国におくり、とうとうこの土地の一員になりました。

 花嫁さんがいないとみんなが困ります。
お父さんも困ります。
しんせきの人たちも困ります。
近所の人たちも困ります。
長い年月をかけて花嫁さんはこの土地の人になっていったのです。

 花嫁さん、ありがとう、僕の家にお嫁にきてくれて。
 花嫁さん、ありがとう、僕を産んでくれて。
 僕の大切な大切なお母さん・・・、いつも、いつもありがとう。

                                   2010年







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by ikenosai | 2017-05-05 22:05 | お父さんお母さん | Comments(2)

花嫁さん

 明日は5月の第2日曜日、母の日ですね!
 僕の大切なお母さんのお話をぜひ、ご覧ください。



 これは僕のお母さんの話です。
 生まれ育った南国の漁村から瀬戸内海を渡り日本海側の浜田漁港にひっこしてきました。最初は近所のかんづめ工場で働いていましたが、大阪のしんせきの店を手伝うため家族のもとをはなれ、ひとり大阪にいきました。大阪の店にはたくさんのお客さんがきていて、親しい人もでき、街にもすっかりなれていました。

 正月を二日後にむかえたある夜、お店によくくる男の人がやってきて、明日いなかに帰るんだが、できればあなたをつれていなかに帰りたいと話したのです。それが花嫁さんになるお母さんへのお父さんからのプロポーズの言葉でした。花嫁さんは迷うことなく次の日荷物をまとめて、汽車に乗って僕のいなかにやってきました。おおみそかの夜、とつぜん花嫁がやってきて、みんなはびっくりしました。花嫁さんはもっとびっくりしました。いなかには、三番目と四番目の弟、二人の妹がいる大家族だったのです。代々続く家だったので、一族が集まるいそがしい家でした。えらいところにお嫁にきたと思ったことでしょう。

 一年ほどしてお姉ちゃんが生まれ、それから一年半して僕が生まれました。がんこなおじいちゃんやわがままなおばあちゃんにもまけずにがんばっていましたが、たえられなくなったある日、お姉ちゃんと僕をつれて、いくあてもなく家出をしたことがありました。それでも僕たちの幸せを考えてくれた花嫁さんは覚悟をきめて、お父さんの待ついなかにもどったのです。なれない土地でたいへんでした。それでもその土地になれようと一生懸命生きました。

 僕が幼稚園のとき、がんこなおじいちゃんが病気でなくなりました。
わんぱくでいたずらばかりしていた僕はいつもみんなにめいわくをかけていました。あやまりにいくのはいつも花嫁さん。

 中学生になった僕は、不良になり、先生にも、近所の人にも迷惑をかけていました。あやまりにいくのはやっぱり花嫁さんです。「息子がご迷惑をかけてすんません。」といつも頭をさげてばかりでした。

 僕が中学二年生のときおばあさんが寝たきりになってしまい、そこから介護の生活が三年間続きました。来る日も来る日もおばあさんのお世話です。ご飯を食べさせて、体をきれいにふいてあげます。とこずれやオムツかぶれがあると、どくだみの葉っぱをかわかし、それをにだしたお湯を体に塗ってあげました。

 おばあさんは花嫁さんに文句ばかり言っています。嫁は信用できないと言われても、いつもやさしくお世話しました。あいまを見て家々の電気メーターを見る仕事をして家計を支えていました。おばあさんが死ぬ少し前、おばあさんがわがままばかり言うもんで、花嫁さんはとうとうおばあさんと言葉でけんかをしてしまいました。僕から見るとおばあさんが悪かったと思います。それでもなくなる直前でなかなおりしました。夏の終わりの暑い日でした。

 おばあさんがなくなった数日後は花嫁さんの四十一歳の誕生日でした。お姉ちゃんとお金を出し合ってケーキを買ってささやかにお祝いをしました。
 
 僕が高校を卒業するころ、花嫁さんはヤクルトの配達のお仕事を始めました。僕の小学校の学区内でした。一軒一軒にヤクルトはいりませんかと売りにいきました。僕となかよしだった子の家はすぐに買ってくれましたが、僕となかが悪かった子の家は、やっぱり買ってくれませんでした。

 配達で地域の情報を知り、僕によく話してくれました。僕が東京の大学に行ってからもずっとヤクルトを配っていました。地域ではヤクルトさんと言われていました。山あいに住む一人暮らしのおじいさんやおばあさんの家にもヤクルトを配達しました。三輪のバイクで毎日毎日配達にいきました。そのうちいろいろな人の悩みや相談を聴くようになりました。みんな花嫁さんが来るのを楽しみにしていました。
 
 いつも買ってくれていたおじいさんやおばあさんがなくなると香典をもって葬式にいきました。

 僕がいなかに帰省していたとき、家の近くの駅まで花嫁さんが見送りにきました。たまたま居合わせたおばあさんが「あんた、ヤクルトさんの息子さん?」とたずねてきました。僕が返事をすると「いつもお世話になっとります。」と花嫁さんに親切にしてもらっていることを話してくれました。僕は嬉しかった。花嫁さんがみんなに好かれていて。花嫁さんはみんなに親切にして、みんなからたよられていました。

 おじいさんの弟が寝たきりになったときもお世話になる老人ホームが見つかるまで家で介護をしました。お父さんより18歳も若い弟が病気でなくなったときも、花嫁さんはなくなる間際までお世話をしました。
 
 花嫁さんが僕の家にきてからたくさんの人がなくなりました。花嫁さんはいつもみんなのいる仏壇に手を合わせ、ご飯や水をおそなえし、線香をたき「なんまんだ、なんまんだ・・・」ととなえます。

 お嫁にきてからもうすぐ50年になります。四国から日本海にうつり住んだ花嫁さんの両親も何年も前になくなりました。もう帰る場所もなくこの岡山の土地で静かに暮らしています。

 僕たちの一族のために花嫁さんは自分の人生をささげて生きています。お父さんの親や兄弟、しんせきを天国におくり、とうとうこの土地の一員になりました。

 花嫁さんがいないとみんなが困ります。お父さんも困ります。しんせきの人たちも困ります。近所の人たちも困ります。長い年月をかけて花嫁さんはこの土地の人になっていったのです。

 花嫁さん、ありがとう、僕の家にお嫁にきてくれて。

 花嫁さん、ありがとう、僕を産んでくれて。

 僕の大切な大切なお母さん・・・、いつも、いつもありがとう。




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by ikenosai | 2013-05-11 02:36 | お父さんお母さん | Comments(0)

やさしい母の背中


 私の母は、愛媛県の漁村で生まれ、父とは大阪で知り合って、海のない中国山脈の麓に嫁いできました。

20歳そこそこのまだまだ遊びたい時期に、父にそそのかされてやってきたように思いますが、当時はどこに行っても貧しいのが当たり前だったようで、母も懸命にその土地に馴染もうとがんばっていたと思います。

厳しい祖父と変わり者の祖母、父の妹と弟も同居していて大変だったのではないでしょうか。

姉と私が生まれてから数年後、祖父は他界しました。

私が幼稚園年中のとき、ダンプカーにはねられて、3ヶ月ほど入院しました。

母は何日も連続で私の付き添いをして、毎晩添い寝をしてくれました。

家のこともやり、病院に来ては私の世話をして大変だったと思います。

誰に文句を言うでもなく、いつも優しい母でした。

ある時、私がウサギの風船が欲しいと言い出したら、分かった分かったとすぐに買いに行ってくれました。

しかし、私のイメージしていたウサギの風船はヘリウムの入った浮かび上がるものだったので、これは本当の風船じゃあないと駄々をこねると、ないものはしょうがないとなだめるのです。

そのときは、不満を言って困らせていましたが、その母のしてくれたことへの嬉しさが今頃になってこみ上げてきます。

私を育てるのに一生懸命だったのだと、苦労かけたなあ、悪かったなあと思うのです。

ひとりものの祖父の兄が近くの公会堂で住み込みの管理人をしていて、いつも家に来て、私たちと一緒に夕食を食べていました。

少しでも支え合おうという考えもあったようです。

そのお爺さんには、私は随分と可愛がってもらったことを覚えています。

私が小学校のとき、お爺さんは、ぎっくり腰になり、歩けなくなってしまったのです。

何ヶ月間か、母が自宅で介護していましたが、民生委員や市の福祉のすすめで、養老院へ入所することになりました。

最初のうちはよく面会にもいっていましたが、私が高校のとき、独り寂しく亡くなったのです。

亡くなる1ヶ月ほど前、養老院から死期が近いと連絡がありました。

母がお爺さんに面会に行ったのですが、意識もハッキリせず、話ができなかったそうです。

棺桶に入ったお爺さんの痩せ細った姿に、人間の孤独さを感じさせられました。

私が中学2年のとき、祖母が夏風邪を患い、何日間か寝込みました。

体重が百キロほどある祖母だけに、治ってはみたものの、歩けなくなってしまったのです。

毎日、食事の準備と排泄の介助、毎晩の清拭で大変なようでした。

しかし、祖母の心の内を理解していたのでしょう、母は、文句も言わず、約3年間もその生活を継続していたのです。

内職をしながら、電力会社の依頼で電器メーターのチェックをする仕事もやっていて、そんな姿もあってか、私は不良を卒業するきっかけをこの時期にもらったように思います。

いよいよ祖母の元気がなくなってきた頃、母に何度も不満をいう祖母の姿がありました。

あまりにもひどかったようで、母が我慢できず、とうとう怒りだしたのです。

私も姉もどうにかなだめながら、母を落ち着かせました。

祖母も謝って、お互いが理解し合えて良かったなあと思っていた数日後、祖母はこの世を去っていきました。

私はなんて、素敵な母に育てられたのだろうとそのとき、思えたのです。

だから、決して母の悲しむことはできないなとも思いました。

私が高校を出て上京する頃、母はヤクルトおばさんをしていました。

4キロ四方のエリアを毎日、三輪バイクで回って配達に行きます。

母の話で驚いたのは、山間部の一軒家に独りで住んでいる老人が何人かいて、母が配達で訪れるのを楽しみにしているそうでした。

バリカンを出してきて、頭を刈ってくれと頼むお爺さんもいたそうです。

そのお爺さんの子どもたちは都会に出ていて、お爺さんだけで静かに独りで生活していたそうです。

しかし、あまりの寂しさからか、首を吊って亡くなったそうです。

「独りは寂しいんじゃ」と母は残念そうにそのことを話してくれました。

母はいつもそういう孤独な年寄りの話をしみじみと私にしてくれました。

誰かが気にかけてあげなければいけないこと、人は支え合っていかなければ駄目なんだと、直接は言わなくとも、私に伝えようとしているのがよく分かったのです。

母は両親に、最期の最期まで送金をしていました。

年中苦労の絶えない母が一生懸命生きて、人生の意味を私に伝えようとしていました。

貧乏な生活ではありましたが常に一喜一憂して、毎日を大切に積み上げている母が私には誇りだったのです。

自分にできる精一杯のことをしている母が私は大好きです。

そんな母のような生き方を私もできるようになりたいと思うのです。

親の思いは自分自身がこうやって子どもを授かり、子育てをしていくうちに分かっていき、感謝できるようになっていくのだと思います。

人生はまだまだ学ばなければいけないことが山積みであるからこそ、これからも一生懸命生きていこうと母の背中に教えられているのです。


 どこの馬の骨だか判らぬ私でさえ、愛し、祈り続けていてくれる両親がいます。そんな慈愛に満ちた親の愛が私の心の支えになっているのです。



 今日は母の日、お母さんいつもいつもありがとう!


Gift de お花屋さん
 思い出したらお花を贈ろう!
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by ikenosai | 2010-05-09 08:40 | お父さんお母さん | Comments(0)