いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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思い出の写真

 アマチュアボクシングの世界は非常に地味です。

私が大学時代、わが部は貧乏な部で、試合の映像がほとんど無く、写真ですら誰も撮っていませんでした。

そんな中で、私たちの一隅を照らし続けてきたカメラマンがいました。

そのカメラマンは高尾啓介さんといいます。

その方の集大成である『この道一筋~高校ボクシング指導者の横顔』という写真集が出版されアマチュアボクシング界では話題となりました。

残念ながら、その写真集には私のようなマイナー選手は載っていません。

しかし、私を大学におくって下さった熊本道之先輩のことが大きく載っています。

長年にわたって駒澤大ボクシング部に大きく貢献された素晴らしいOBのひとりです。

北京オリンピックに出場した清水聡君を育てたのも熊本先輩でした。

私は、熊本先輩との出会いがなければ、この素晴らしい人生を歩むことはなかったことでしょう。

こんな素晴らしいご縁をいただき、ただただ感謝の一言です。

そして、後楽園ホールのリングサイドで、私のようなマイナー選手を撮り続けてくださった高尾氏にも、ただただ感謝です。

下の写真は、高尾氏の撮ってくださった写真で、大学1年のとき、高校チャンピオンに1Rで勝ったときのものです。
e0148909_517232.jpg

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# by ikenosai | 2008-10-28 05:15 | 思い出のポケット | Comments(3)

海まで走ろう

 それは、新学期が始まった13歳の春だった。

授業はまだ始まっておらず、昼前には皆、家に帰った。

私も家に帰ろうと思っていたが、偶然に嫌な集団と出くわしてしまった。

奴らは、1つ年上の不良グループで6人いた。

私が、通りがかったところを待ってましたとばかりに行き先を塞ぎ、ひとりひとりが、それぞれの欲しいものを万引きしてこいと脅すような口調で言い、期限は明日までだと言った。

私は、そんなに怖いとは感じなかったか。

しかし、何分にも厄介だった。

もし明日、万引きをせず、のこのこと学校に来たら、何かの仕打ちを受けるだろう。

そう思うと、どうも憂鬱になる。

良い方法を考えなければと思いながら家路をたどっていた。

帰る途中、私はあることをひらめいた。

それは、家出をすれば、明日は学校に行かなくてすむ。

ただ、それだけのために、私は家出をすることを決心した。

机に地図をひろげ海までどのくらいあるか調べてみた。

直線で見れば50キロぐらいだが、道をたどれば70キロ以上はある。

まして、こんなに遠くへ1人で出かけたことは1度もなかった。

私は、道に迷わないか少し心配だった。

しかし、川を下って行けば、なんとかなるだろうと安易な気持ちで出発することにした。

出発前、不安なことが1つあった。

それは、お金を少ししか持っていなかった。

それでも決行し、親友の家に寄って、事情を話した。

そして、詳しい行き先は告げず、ただ、海まで行くと伝え、出発した。

午後2時を少し過ぎていた。

風もなく、ぽかぽかとした春だった。

自転車に乗り、吉井川を目指した。

吉井川は鳥取県との県境の中国山脈から流れる大きな川で、中流には私の故郷、津山がある。

私の家は津山の街から8キロ程はずれた、集落にあった。

近くにあった広戸川をつたって3キロも行けば、吉井川に出る。

吉井川を渡って、私は、時計を見た。

2時半になる頃だった。

私はついに覚悟を決めて、一心不乱にペダルをこぎ始めた。

感じる風はまだ暖かく、心地良かった。

しばらくして、となりまち町に入った。

川の向こう側から大きな鉱山が見え、鉄道も見え始めた。

それは片上鉄道で鉄鉱石を主に運んでいる単線の鉄道だった。

1時間に1本ぐらいの間隔で旅客車両が走っていた。

赤くとんがった屋根の駅が2~3キロおきにあったので駅名を見ることを楽しみにして走り続けた。

吉井町に入って川沿いの道が途切れた。

橋を渡り、反対側の川沿いの道に変えた。

長く長く続くなだらかな道、川を下っていたためか、上り坂はほとんどなかった。

ベンガラで一面が真っ赤な工場があった。

道にもその赤茶けた色が染まっていて、辺りは静かで人の気配もなく不気味だった。

小さな川からは赤い水が吉井川にそそがれていた。

私は、一心不乱にペダルをこぎ続けた。

ただ、今の現実から逃れようと必死だった。

佐伯町に入った。

まだまだ海は遠かった。

なだらかな単調な道を走っていた。

海まで、海までと、そう思いながら。

そして、まだまだ暗くなる気配は感じられなかった。

未開の地にこんな冒険があったことを私は初めて知った。

好奇心は益々高まっていった。

和気町に入り川沿いの道がなくなった。

再び橋を渡り、反対側の川沿いの道に移った。

しばらくの間、民家もなく静かな道が続いた。

通る自動車も少なかった。

そして、その静寂の中から大きな、大きな工場が川の向こう側に見えてきた。

黄色のビールケースが塀のように積まれている。

大きなキリンビールの看板が見えた。

そこはビール工場だった。

キリンビールが岡山でも作られていたことをそのとき知った。

西日に向かいながらビール工場が遠ざかっていく。

やがて、川沿いの道がなくなった。

地図を持ってきてなかった私は、どうにかこの先の道を探さなければと思いながら、海の方向を考えた。

南だ、南に行けば海にたどり着く。

そして、しばらくの間、迷いながら民家の路地を走っていた。

辺りが暗くなってきて、どこを走っているのか分からなかった。

お腹も減った。

喉も渇いた。

しかし、あまりお金は持っていない。

買い物をする店も近くにはなかった。

そうしているうちに、カップヌードルの自動販売機を見つけた。

少し休もう。

そう決めて、しばらく休んだ。

公衆電話の住所を見て、そこが瀬戸町であることを知った。

吉井川からもずいぶん離れてしまっていた。

暗い夜道の中、ペダルをこぎ始めた。

とにかく、標識のある大通りに出なければ行き先が定まらない。

そう思いながら民家の路地を走っていた。

走っても走っても、大通りが見つからない。

やがて川に出た。あまり大きな川ではないが、その川を下って行けば必ず海に出る。

そう信じてこぎ続けた。

川の彼方に、大きな、大きな、平野が見えてきた。

少しずつ動く、大きな船の灯りも見えた。

海だ。海が見えた。

やっと海まで来た。

そして、さらに、勢い良く、私はこぎだした。

海辺に自転車を止め、しばらく海を眺めていた。

しかし、海の向こうに陸が見え、民家の灯りも見える。

ここは海なのかと疑い始めた。

海でなければ、ここを越えてさらにその向こうへ行かなければと思った。

海であるか、海でないかを調べることは容易だった。

そこの水に手を浸し、なめてみた。

しょっぱい、塩の味がする。

間違いなく、そこは海だった。

その地形で児島湾だと分かった。

目的の地にたどり着いたことがすごく嬉しかった。

真っ暗で静かな海辺だったが、まだ8時前だった。

安心したのか、私はコンクリートの床に仰向けになったまましばらく眠った。

すごく疲れていた。

肌寒かったせいか、30分位して目がさめた。

やはり、ここで眠ることは難しい。

しかし、十分なお金があるわけでもなく不安になってきた。

みんなのことが気になった。

きっと私を探している。

そう思い始めた。

このまま一夜を明かす気はなかった。

持っていたお金も電話をかける位しかない。

もし、このお金をほかのことに使えばどこに連絡することも出来なくなくなってしまう。

私は自転車に乗り、電話ボックスを探した。

すぐに、それは見つかった。

10円玉を何枚か入れて、家に電話をかけた。

すぐに親父が出た。

「今、どこにおるんなら、寒うないか。」と話しかけてくる。

私はすぐに、ここにいることを話した。

「お父さんが迎えに行くから、おまえは津山に向かって戻ってこい。たぶん、どっかですれ違うだろう。しっかり注意して見て行くけん、おまえも注意して戻ってこい。」

私は無我夢中で自転車のペダルを踏んでいた。

しかし、暗かったせいか、来た道が分からなくなっていた。

迷いながら、大きな土手に出た。

しかし、道が途中から進入禁止になっていて鎖でふさがれていた。

自転車と歩行者専用の長い橋を渡り、反対側の土手に出た。

橋の手すりに、旭川と記してあった。

線路があった。

しばらく行くと、駅もあった。

備前原駅だった。

たぶん、ここを通れば津山の方へ行くだろう。

そう思って走った。

ここまで来れば不安も何もない。

あとはなるようになる。

そう思って、深く考えることはしなかった。

車とすれ違うたびに、もしかして親父かも。

そう思いながら何台も車を見た。

しかし、こんなに早く来るわけはない。

車でさえ1時間半位かかるところだから、その位の時間は読んでおかないと。

しかし、電話してから、かれこれ1時間程経っていた。

玉柏駅のあたりだった。

慎重に通る軽トラックが私の前を通り過ぎたあと、Uターンして私の横で止まった。

親父だった。

親父は黙々と私の自転車を荷台に固定した。

車の中で意識がぼんやりしていた。

親父が話し始めた。

「おまえ、みんなに心配かけたなあ、先生が家に来とるで、おっちゃんらあも。」

私は、事の重大さにやっと気づき始めていた。

それから家に着くまでのことを今ははっきりと覚えてはいない。

家に着いたとき母さんが外に出てきて、「もう、やっちゃあいけんで。」そう言った。

家に入ると、家の中には学校の先生達と親戚の叔父さん叔母さん達が地図を広げて待っていた。

2階には、いとこ達がいて、私は益々居場所を失っていた。

そんな中、副担任をしていた先生が「今日は、もう寝んちゃい。何人かの友達に電話をかけとるけん今日のことを聞かれるかもしれん。そしたら、遊びに行っとって遅く帰ってみんなに心配かけたということにして、それ以外は黙っておきなさい。」と言った。

あとから2台の車が帰ってきた。

私を探すため、それぞれが違う道を走ってきたことが分かった。

3台の車が3方向に分かれて私を探し、見つけたのが偶然にも親父だった。

次第に、みんな退散し、私は風呂に入り、疲れていたせいか朝までぐっすり眠った。

学校へ行く途中で、友達にあった。

「昨日は、本当に行ったんじゃな。」とびっくりした様子で話してきた。

私は彼の驚いた表情に何だか変な自信を持ってしまった。

学校に着くと、昨日私に指示を出した連中の1人がやってきた。

その人は数年後に無免許で暴走運転をして、壁に激突した。

助手席にはまだ中学生の女の子が乗っていた。

2人とも即死だった。

筋金入りの不良だったその人が、心配そうに、「家出したんか。」と言ってきた。

私はただ「うん。」とうなずいただけだった。

それ以来、その人とたちからは、何も言われることはなかった。




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# by ikenosai | 2008-10-25 06:58 | 海まで走ろう | Comments(0)

4歳半、パパとふたりで1泊旅行

 岐阜にいる叔母のお見舞いに、娘とふたりで出かけました。

岡山の両親と姉家族にそこで落ち合うことになっていました。

娘も従姉弟と会える楽しみもあって、前日から「明日会えるの?」と私に何度もたずねていました。

朝、4時半、娘を毛布にくるんで車に乗せましたが、眠そうな表情でも従姉弟に会える楽しみもあってか、全く嫌がりませんでした。

車の少ない時間帯で高速道路を走行中、寝袋の中からニッコリして目を覚ましてきました。

7時頃でした。

「パパ、これから皆に会えるの」と嬉しそうに私にたずねてきました。

諏訪湖のサービスエリアで焼き立てのパンを食べながら一休みしました。

娘には、今日は温泉によって泊まっていくことを話すと嬉しそうに、「楽しみ」と答えました。

何度か休憩しながら、9時には多治見インターを出て、9時半には可児の病院に着きました。

母と姪が車のところまで走って来ました。

娘はもう大喜びで姪に抱っこしてもらっていました。

母たちは1台の車に8人乗ってお見舞いに来ていたようです。

前日手術を終えたばかりの叔母は疲れた様子でしたが、昼前から看護婦に付き添われ歩く練習を始めていました。

これ以上いても叔母が疲れるだけだと話し合い、帰ることになりました。

皆で昼食を食べに行き、その後、皆と別れた娘は、寂しそうに、「ああ、もっと遊びたかった」と話していました。

私は娘に、「機関車に乗りに行く?シュッシュッポッポだぞ・・・」と話すと「楽しそう、もう元気になった」と笑顔で答えました。

そして、明治村に向かったのです。

広い駐車場から少し奥に入ったところに入口があり、嬉しいことに娘はまだ、入場無料でした。

入ってすぐのところに蒸気機関車の駅があって、ひらがなで「とうきやうえき」と書いてありました。

発車まで20分もあったので、土産屋を見物しながら時間をつぶして待ちました。

機関車は明治時代に開通した新橋~横浜間を走っていた陸蒸気と言われていたものと同じ機関車でした。

次の駅の「名古屋」で降りて、市電に乗って「京都」から「品川燈台前」まで行きました。

明治村の中は日本中から集められた歴史的建造物が移築され、とても面白いものでした。

明治時代の病院を娘はたいそう気に入っていたようで、一回見た後、また、見に行きました。

西郷邸を見ているとき、洋風のたたずまいの中に、テーブルがセットされ、洋食器にナイフやフォークまでのっていました。

娘がそれを見て、「ボナパルトの家みたい。」と言ったとき思わずびっくりしました。

ボナパルトとは、ナポレオン=ボナパルトのことで、以前、BS放送でやっていたナポレオンのドラマに見入っていたとき、そう言えば娘も一緒に見ていたことを思い出したのです。

西郷邸の中には、カフェがあり、娘はアイスクリームを、私はカフェオレを注文しました。

洒落た洋館の上品な雰囲気に娘は満足な様子でした。

閉門が近づき、私たちは、後ろ髪を引かれる思いで外に出ました。

帰りは、温泉に寄って、車の中で寝ることを話すと、娘はわくわくしたようすで、嬉しそうでした。

高速道路を東京方面に向けて遅くならないうちに、諏訪湖サービスエリアに着きました。

ゆっくり温泉に入ったあと、レストランで晩御飯を食べました。

トイレのお湯が出る水道のところで歯を磨き、車のシートをフラットにした上に寝袋を敷いて、私の手を握ったまま娘は眠りました。
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# by ikenosai | 2008-10-25 06:45 | 子育て 一期一会 | Comments(0)

意欲充分やる気充分

 春休みが終わる頃、8歳の娘と3歳の息子を連れて横浜港に行きました。

海を見に行こうと誘い、午前10時には電車の中にいました。

電車好きの息子は南武線に感激し、京浜東北線に感激し、最後は遊覧船に感激していました。

中華街のレストランでも大喜びだった息子は、午後から眠くなり、私は抱っこひもで息子を寝かしながら娘の手を引き中華街を歩いていると、中国雑貨の店の前を通るたびに娘にチャイナドレスをせがまれ、何軒目かでとうとう買ったのです。

家に戻ってから娘は嬉しそうにそのチャイナドレスに着替え、夕食の準備を手伝い始めました。

「今日は中華にしましょう。」なんて嬉しそうにいいながら、配膳等の準備を手伝っていました。

翌日もその翌日もチャイナドレスを着て、嬉しそうに夕食の準備を手伝っています。

以前は飯事(ママゴト)で充分だった娘も、今では本当の手伝いをしたがるようになっています。

この気持ちを削がないよう関わらなければと思います。

春の横浜は娘にきっと素敵な思い出を残したことでしょう。

                                 平成20年 4月
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# by ikenosai | 2008-10-25 06:43 | 子育て 一期一会 | Comments(0)

 運動会

 5月最終の日曜日に娘の小学校で運動会がありました。

小学2年生の娘は練習の話を毎日の夕食時に話してくれていました。

五月晴れの朝を迎え、私は早朝に場所取りに行きました。

すでにたくさんのシートが敷かれ、保護者の人たちの熱い気持ちがその様子から伝わってきました。

運動会が始まり、娘の一生懸命に踊る花笠音頭に感激し、7年間の成長に深く感謝していました。

5・6年生の組み体操のとき、保護者の人たちが、その瞬間を懸命に残そうと撮影に必死になっている姿がところどころで見られ、なんとも胸が熱くなり、私も3~4年後はこんな風になるのだろうと思いつつ、この時の気持ちをいつまでも大切にしなければと思ったのです。

子どもは、いつの日か抱っこができない大きさになり、やがて毎日会えないところに離れていくかもしれません。

今しかない、今しかない。

そう思いながら愛娘の姿を遠くから眺めていました。  

                          平成19年 5月 
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# by ikenosai | 2008-10-25 06:41 | 子育て 一期一会 | Comments(0)