いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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 母の海

 母の故郷は二つある。

一つは愛媛県の南宇和に、もう一つは島根県の浜田にあった。

私はどちらの故郷も大好きだ。

なぜならば、どちらも海が近かったからだ。

母の両親は愛媛県の出身,祖父は南宇和の外泊、祖母は御荘だった。

そこは、すごくきれいな海の漁村で祖父は漁師をしていた。

母はその村で八人兄弟の上から三番目の次女だった。

終戦の年に生まれた母は、戦後の貧しさを多くは語らなかったが話してくれたことがあった。

その頃は、魚とさつまいもばかり食卓に出ていたらしい。

メジカというカツオの小さめの魚を網の中で天日干ししたのをおやつ代わりに食べたらしい。

私もこの魚を食べたことがあるがカツオ節のような固いものだったので美味しいとは感じなかった。

しかし、母に言わせれば何よりも思い出深いおやつで、今でも懐かしさと美味しさを忘れることができないらしい。

初めて白い米のご飯を食べたのは中学生のときだったらしく、初めて食べる白いご飯に感動し、噛めば噛むほど甘くて美味しかったと話してくれた。

そんな母は珊瑚のきれいな海で鍛えられた。

海に投げられ、船に近寄ってくるものなら再び引き離され、何度も何度も繰り返し泳ぐことで海に負けないように育てられた。

私は子どもの頃、この海でホゴを釣ったことがある。

100メートルもの深い海に糸をたらし、手探りで釣る深海魚、地上に上がってくると水圧がなくなり目玉がとびだして出目金みたいになるので最初はびっくりした。

海に潜ったこともある。

透明度が高く、水の中は珊瑚でいっぱい。

鮮やかな模様の魚も泳いでいる。

この辺りの海では真珠の生産が盛んで、アコヤ貝を養殖しているところがあった。

母の姉は貝に真珠の玉を入れる職人をやっている。

一族は、母が中学へ入る頃、浜田へ移ったらしい。

祖父がイカ釣り漁師になって船を持った。

市街地から2キロ程離れた所に、瀬戸ヶ島という小さな橋が架かっている島がある。

当時は渡し舟で行き来したらしい。

日本海の荒い海のすぐ前に母の実家はある。

すぐ側には海の幸が食べられる宿がある。

危険な岩場では長い竿を手に石鯛をねらう人達でにぎわう日もある。

少し離れたところに小さな砂浜があり、人も少なく、島の人たちのプライベートビーチになっている。

細い路地を抜け、ビーチへ向かう途中に厳島神社があり、ここは宮島の厳島神社と同じらしく、この島の守護神として祭られていた。

遠い遠い昔、この島の人たちは捕鯨を中心に生活をしていたらしく、神社の敷地内に絵図があった。

また、近くの水産試験場にもこのことについての資料が展示されていた。

地場産業は水産加工品を中心にした蒲鉾やワカメ、干物などがほとんどで市場に行くとたくさん売られている。

沖合漁業やイカ釣り漁が多い。

大きな電球がたくさんぶらさがって海の夜景がとてもきれいだった。

夜出て朝帰ってくるため、朝の食卓がとても豪華に感じた。

イカの刺身やアジの刺身が食べられた。

母の弟たちも地元で漁師をやって生活をしている。

沖合漁業も同じように夜から朝にかけての仕事だったので遊びに行くと昼間は家にいて夕方出かけていた。

私の子どもの頃は、何日いても飽きないところだったので雨の日以外は、釣りに行ったり、泳ぎに行ったりしていた。

海がとてもきれいだったので、水中眼鏡を付けて潜るとウニや貝、魚が採れた。

今でこそアワビやサザエは捕ってはいけないことになっているが、当時はおじさんたちが調理して出してくれた。

今では市場に持って行くと高く売れるらしく、食卓にはサザエぐらいしかのぼらなくなった。

私の子どもの頃はどちらに行くにも時間がものすごくかかった。

南宇和は12時間位かかった。

しかし、今では瀬戸大橋ができ、高速道路網も広がってきたので4、5時間で着くようになった。

浜田にいたっては、7時間かかっていたのが、中国自動車道と浜田自動車道を通れば3時間足らずで着くようになった。

早いときには2時間半で着いたこともあった。

しかし、その分自然がどんどん破壊されている。

浜田の瀬戸ヶ島には大きな吊橋が架けられ、産業開発が計画されつつある。

母がとても残念がっていた。

子どもの頃遊んだ浜辺がなくなって埋め立てられるところも出てきた。

しかし、一方では地域活性化のためにと必死で取り組んでいる人達もいる。

客観的立場の私たちがどうこう言えるものではない。

でも、浜田の海も南宇和の海も感動せずにはいられないくらい美しい海である。









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# by ikenosai | 2008-11-06 17:51 | お父さんお母さん | Comments(0)

食べることは“命”をつなぐ大切なこと!

身体の病・心の病は関わった環境と食べたものによる収支報告!

大人の歯は全部で32本あり、うち尖った犬歯が4本ありますから、32分の4つまり、8分の1の範囲内であれば動物性の食品を摂っても大丈夫だと考えられています。

そして、穀物は8分の5、野菜においては8分の2となります。

動物性の肉や牛乳などの乳製品その他、魚貝類なども含めて8分の1が歯の由来による理想的な食事バランスだと言われています。

人間が安定した心を維持するためには、食事の安定供給が重要だと考えられます。

農業だって、収穫時期に約1年分の食料が確保できることで精神的なゆとりが出てきます。

その安定の1コマが毎回の食事なのです。


 今の若者の食事は全く逆転しているようで、肉などの動物性のものが大半で主食のご飯が少しだと、次の食事までもたず、イライラしたり、興奮したり、心が乱れるものです。

しかも、次の食事もままならなければ、不安定にもなっていきます。

それに加えもっと恐いのが、ちょっとした空腹時に、砂糖の多い食品を摂ってしまうことなのです。

カロリー計算だけの食事は何の意味もありません。

白砂糖の多い食品が今、子ども達を蝕んでいます。


健康と“予防”

 いつまでも健康でいたいものです。

健康に何が必要かと考えていきますと、やはり日頃の予防が大切になるようです。

食べ物には大きく分けて、酸性のもの、アルカリ性のものがあり、更に詳しく調べていくと陰と陽に分かれるそうです。

今では、そのバランスに基づいた食事の学問があるくらいです。

アメリカの歌手“マドンナ”の食事作りをしている方はこの学問を極めた日本人だそうです。

陰・陽のバランスや酸性・アルカリ性を中和させた食事が健康に大きく影響しているようです。

 今の日本経済は、身体に影響を及ぼす心配のある食品やそれに使われる添加物を生産したり、使ったりすることで成り立っている企業が少なくありません。

全ての人たちが今の社会で生きていくためには簡単に否定することはできません。

しかし、それぞれが学んで選択する力を養っていくことは、今後のそれぞれの子々孫々に健康な生き方を残していくための課題になっていくでしょう。

自然の力を上手に生かす方法にヒントがあり、旬の物にはその季節を生きぬく秘密があります。

また、季節外れの食べもので身体を冷やす習慣がつくとガンやその他の生活習慣病等へも影響していきます。


 酸性過多が引き起こすもの

酸性の強い食べ物には、白砂糖・精白小麦・卵黄を使ったケーキなどのお菓子、刺身や焼き鳥に日本酒。

焼肉にビール。

その後のラーメンやそばなど中和を考えない偏った食事は酸性体質になり、血液を汚します。

通風やリウマチの悪化はこういった偏食と過食が大きく影響しているようです。

また、酸性体質はガン細胞が増殖していく上でとても好条件なようです。

血を汚す環境には、すでに肝臓や腎臓への負担が大きくなっていて、その他の病気にも発展していきます。

まず、腹八分目が大切なこと、これは低体温にならないための秘訣です。

食べ方も、焼き魚にショウガ・すき焼きにコンニャク・干しぶどうの入ったパン・ご飯に梅干し・豚はショウガ焼きなどにし、動物性のものに野菜を付け合わせるなどして工夫したバリエーションを楽しみながら美味しくいただくことが大切なようです。

粗食が中心になっていきますと、たまに外食していただく焼き肉や洋食などがとても有り難く嬉しいものです。

家でも外でも、ご馳走ばかり食べていたら、内臓は休まる暇がありません。


 低体温の子ども達 冷え性の大人達

幼稚園や保育園などでは、体温が37度代中盤位から登園できないなんてことが多いようです。

もともと子どもは体温が高いことが抵抗力につながっています。

しかし、最近では、季節外れの果物や清涼飲料水、アイスクリームなど口当たりの良いものばかり食べていて、主食のご飯の量が減っています。

基礎体力がつかない食生活で、しかも、低体温は病原菌に対して抵抗力がありません。

そのため、病弱な体になって、少し食べ過ぎたときや、睡眠不足などで身体が休まらないときに熱を出して寝込むことが多いようです。

大人も同様の生活をしていけば、冷え性などの影響で、生理痛や腰痛を引き起こしてしまいます。

冬の過ごし方、夏の過ごし方と工夫が必要になりますが、足下を冷やさないこと、冷たいものを摂りすぎないことは1年を通してとても大切なことのようです。

また、喘息やアレルギー性の疾患には白砂糖を極力減らすだけでも改善することが整体などでも紹介されています。

適度な運動や笑うこと、歌うことは血行を促進し、体を温めます。

呼吸の浅い人には特にお薦めです。そして、深呼吸もしましょう。


長寿の木“屋久杉”に学ぶ

 杉の樹齢は長くて500年程度ですが、栄養の少ない花崗岩の屋久島では寿命が長くなり樹齢2,000年以上にもなる木があります。

現代人の食事は栄養過多で、半分以上は医者のために食べているという専門家もいます。

食事内容を3世代ほど前に戻すことや腹八分目は今後の課題になるでしょう。
テニスで復活を遂げたクルム伊達公子さんは食事の改善で玄米食に切り替えたそうです。

80才、90才の元気な長老は粗食が長生きの秘訣になっているようです。


 四里四方に病なし~旬のものにこそ生きぬく力がある~

地場の植物はその土地の季節を生きぬく力を持っています。

例えば寒い冬の野菜は、少しでも暖かな土の中や土の側でしっかり生命をつないでいますし、暑い夏の野菜は日に向かって葉をひろげ、暑さに耐えられる強さがあります。

季節に合っていない植物は自然の中では育ちにくいということです。

夏のキュウリやトマトは暑さに耐えられる秘密があり、人間はそれを食べることで、身体を冷やし暑さをしのぐのです。

冬は寒さに耐えられる植物が寒さをしのいでくれているのです。

もし、季節を逆にして食べたら、体調に影響することは想像できるでしょう。

今、日本は畑を中国やアメリカなどの諸外国に依存しています。

地場のものはどんどん作られなくなっていますし、もし、見えないところでたくさんの農薬が使われていたら国内自給率の問題に加え、農薬被害がどうなのかという問題もでてきます。

今すぐには分かりません。

何代か先に答えがでるのです。

子ども達の未来の環境整備をしていくのは、今の大人達の大切な役割なのです。

その入口が食育なのです。


 調理できる力と工夫こそ本当に生きる力となる

ビワの葉やタンポポの根っこの効用はあまり知られていません。

風邪などで喉が痛いときダイコンやショウガを下ろして飲んだり、また、お腹を下したときなどには、ニンジンをつぶしたスープが良いそうです。

野菜が持つ自然の力を今では誰も教えてくれません。

また、八百屋さんが旬の野菜の調理法をアドバイスしていた風景も、今のスーパーでは希薄なのかほとんど見ません。

昔、天皇の料理番をされていた秋山徳蔵さんは、それぞれの食材の調理法や適切な保存法を本で紹介されています。

その本には、鍋にお湯をはっただけの調理法やレンジで温めるだけの調理法はありません。

生きるために命をつなぐ大切なことは本当は手間をかけて作るもののようです。

5百円玉を持たせばお昼は何とかなるでしょう。

しかし、命をつなぐ大切な意識はどんどん遠のいていっていることが何よりも心配です。


 食育は“自己管理”の源

食べることでは、自分がどれだけ食べればよいのか、あるいは食べられるのかという自分を管理できる力も重要です。

レストラン等でのバイキングで食べ残しの皿が多いのも、食育の問題として考えていく必要があるようです。

戦国時代の小田原城主北条氏康が息子氏政がご飯に汁を注ぎ足しているのを見て、自分の食べる量も解らないようでは、人の気持ちなど解るはずがないと失望したそうです。

案の定、息子は秀吉に滅ぼされ切腹します。

名家である北条家には存続の話もあったはずです。

しかし、何度会議を開いても北条家は何の決断もできないのです。

これが世にいう“小田原評定”です。

今でこそ平和ボケした世の中ですが、昔はご飯を食べることでさえ命に関わる重要なことだと名将たちは捉えていたようです。


 まごわやさしい ~日本食は素晴らしい ~

⇒まめ=豆類・豆腐・味噌・納豆:たんぱく質とマグネシウムが豊富 
⇒ごま=ゴマ、ナッツ類:老化の原因となる活性酸素を防ぐ抗酸化栄養素
⇒わかめ=ワカメ 昆布などの海藻類:カルシウムなどのミネラルが豊富
⇒やさい=野菜:ベータカロチンやビタミンCが豊富
⇒さかな=魚類:不飽和脂肪酸のオメガ3が豊富なたんぱく質
⇒椎茸=キノコ茸類:ビタミンDが豊富
⇒いも類=じゃがいも・さつまいも:腸内環境を整える食物繊維が豊富





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# by ikenosai | 2008-11-05 16:22 | 食養生 | Comments(0)

“育て直し”のすすめ

便利になったと思われていた子育て・・・

 “育て直し”を提唱されている角田春高先生の本に、九州大谷短大の山田真理子先生との対談があります。
その中で1983年が子育てのターニングポイントだったことが詳しく書かれています。

紙おむつの登場。

ファミコンの登場。

そして、ビデオデッキが10万円を切り、各家庭に普及していきました。

好きなときに好きなビデオが子守りするようになり、ベビーカーの普及でおんぶや抱っこがなくなっていきました。

すでに母乳から粉ミルクになっていましたので、座布団に寝かせ哺乳瓶を自分で持たせて、抱っこすれば抱き癖がつくというお婆ちゃんの智恵が吹き込まれたのです。

テレビで育った世代のお母さんたちは、授乳しながら子どもを見るのではなくテレビを見ていたのです。

今は、メールにも夢中なお母さんがいます。

テレビを見ているお母さんが今、7割もいるそうです。

お母さんのテレビを見る時間は赤ちゃんが将来テレビを見る時間に大きく影響し、テレビに子守りしてもらった子どもは、人と目を合わせることができなかったり、言葉や情緒の発達の影響でコミュニケーションがとれないまま、保育園や幼稚園に通うようになるそうです。

便利な子育ては、本能的な親の愛情を引き出す力を失わせていきます。

その影響なのか、子育てを負担だと感じる親御さんが8割もいるそうです。

どこから負担という気持ちが生まれるのか考えますと、その答えは無償の愛をつくり出すための子どもとのスキンシップや見つめ合う時間の無さが大きく影響していることだけは事実のようです。


個性という表現では片づけられないこと 

 言葉の遅れも個性、偏食も個性、多動も、物を壊すのも、人を傷つけるのも・・・全て個性で片づけてしまうのは、今、ある問題に目をそらせているのと同じことなのです。

実は個性の柱をつくる年齢は、「つ」のつく年齢、おおよそ思春期を迎える頃までのようです。

その中でも生まれてからの5~6年間はとても重要な時期で、親を中心とする大人の関わりの影響が個性となって現れてきます。

適切な関わり方を知らないまま子育てをしてしまえば、大切なことが伝わらないまま大人になってしまうのです。

その世代間連鎖が日本全国に及んでしまっています。

リテラシーが育たぬまま、テレビやゲームに育てられてきた世代は、本来の動物的本能が麻痺していて、問題解決を困難にしています。

冷静な気持ちを準備して、関わっていけば、親子の相互理解は深まっていくでしょう。

寛容な心であきらめることなく子どもに目線を合わせ、離れてしまっている心に寄り添い、しっかり向き合う覚悟が必要なようです。


幼い頃のイメージを意識的につくり直すこと

人は大人になる課程で以外にも頑固な育ち方をしていきます。

自分の育った環境や生い立ちをできるだけ正当化して納得したいものです。

他人からとやかく言われることは特に受け付けなくなるものです。

しかし、少しでも意識を変え、物事を客観的に見ながら、これからの自分のために、育った頃のイメージを意識的に修復できたなら、親御さん自身も世界が変わっていくはずです。

そのためにクリアすべきいくつかの発達課題について考え、取り組んでいくことが親子の隙間を埋めていく近道になるようです。


“発達課題”を見つめ直す 

 子どもが育つためには7つの発達課題を乳幼児期に経過し、さらに同じ内容を思春期に客観視しながら経過できることで大人になっていくと角田先生はおっしゃってます。

7つの発達課題とは、 
①実感(生きている実感をもつこと) 
②安全(物や場所による安心感が広がること) 
③信頼(人による安心感が広がること) 
④言葉(経験を言葉で表し、言葉で理解する) 
⑤2人遊び(対等な2人遊びができること) 
⑥3人遊び(対等な3人遊びができること) 
⑦畏れ(学習意欲あるいは勤労意欲が持てること)。

といわれています。

前ページの内容の便利な子育てからはこのような発達課題を経過することが非常に困難になっているのが今の子どもたちの育っている環境からおわかりいただけると思います。

そして、何度もいいますが、本来の動物である人間としての子育てを知らない親御さんたちの世代間連鎖がこの発達課題の経過をより困難にしています。

学ばない限り、受けた子育ての内容を次の世代にもしていくのです。

しかし、ここで子育てをする我々の世代の育った環境、生い立ちを見つめ直し、今の子どもたちのために意識して大切なものを取り入れていくことができたら、きっと子どもたちの育ち方は変わっていくと思うのです。

この子どもたちを見ながら幸福感を得ることが、実は遅ればせながらですが、我々自身を“育て直す”きっかけとなり、子どもたちとともに幸せな生き方をつくっていく大きな岐路になっていくのだと思うのです。


※“育て直し”への強い関心、意識のある親御さんへ・・・
 今こうして意識できていることをまず大切になさってください。

ご自分の育った環境を振り返ってください。

周りの人たちとも比較してみてください。

おそらく、大半の人たちがパーフェクトな子育てを受けていなかったという現状を理解していただけると思います。

そして、安心してください。

本人に力があるからこそ育った環境をカバーするだけの力を持って大人になられているのです。

しかし、その感覚では今の子どもたちには伝わりません。

世代間連鎖に加え、育っている環境が昔より深刻化していること、そして、この問題にまだ気がついていない社会が深刻だといえるのです。

どうか心を大きく、広くされ、子育てを客観的に見られるように心の準備をしていただきたいのです。

そして、取り組んでいただければ子どもはしっかり育っていくことでしょう。


護送船団方式で便利な子育てがおこなわれてしまった現実

 合理性を重視した欧米の文化に日本の人々は憧れました。

そして、少しでも裕福に、少しでも便利にと国内の文明は著しい進化を遂げました。

ボタンを押せばご飯が炊け、ボタンを押せば風呂が沸き、ボタンを押せば目の前で、金田が投げて長嶋が打ったのです。

そして、ボタンを押せば子どもが育つのではと錯覚するくらい何でも可能になるとさえ思ったのです。

今、自然が人間に抵抗しています。地球温暖化がその例です。

実は子どもも自然なのです。

良い子育ては便利にはできません。

便利を求める親を見ても子どもは育っていくのです。

一生懸命に生きている親を見ても子どもは育っていくのです。

どちらが大切か、その意識がこれからを変えていくのです。


困難でも誰かがやらなければならない大切なこと

 今、子どもたちに必要なのは、第1の親、第2の親、それでもダメなら第3の親と“育て直し”を意識して関わることのできる大人の存在が今後の人格形成に大きく影響していくことになります。

そうなると、保育園や幼稚園、小学校、中学校、高校、果ては大学と、それぞれの機関で改善していくための取り組みができるような何らかの働きかけが必要なのです。

少子化問題にも屈せず子育て・教育の機関が生き残っていくために果たすべき役割になりつつあるようです。

教育機関にはそれだけの重要な使命があるのです。

そして、この連鎖に何としても歯止めをかけていくための教育が求められているのです。

実はこれがニート問題の最大の予防策なのです。





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# by ikenosai | 2008-10-30 17:21 | 育て直しのすすめ | Comments(0)

戦前までの2千年と戦後60年の遺伝子

 遺伝子の話でおもしろい話があります。

私の実家は岡山県津山市という中国山脈の麓にある盆地です。

鳥取県との県境にはオオサンショウウオがいたり、ヤマメがいたり、とにかくきれいな川が流れています。

この地域独特のものといえば、台風の被害が大きく、また、中国山脈から吹きおろされる広戸風という独特の現象があります。

私が子どものころは、米作りも徹底していましたので、父も種籾を温床で栽培し、苗を育てていましたが、私が大人になってからは、農協が品種の良い新潟産の苗などを薦めるもので、当初は、コシヒカリがうちでも作れると張り切っていました。

ところが、不思議なことに、新潟で培ったDNAにはこの地域独特の広戸風に抵抗する力が備わっていなかったようで、すぐに倒れて、地元では“転けヒカリ”と呼ばれ、歓迎されませんでした。

しかし、一旦、種籾をつくらなくなった農家には、今さら以前の種など残っていません。

なのでやむなく“転けヒカリ”の苗を今でも買うハメになっています。

その後も、やはり難問続きでした。

もともと、東北地方の産物なのでこちらでは害虫にも抵抗力がなく、大変な年もありました。

永い年月で培われてきた情報というものは恐ろしいです。

必要でない機能は進化せず、不要なものは退化していくのですから、その地域に適したそれぞれの歴史に基づく考え方で対応していかなければ、上手くはいきません。

人間の体もそうなのです。

温かい地域の人が寒い地域に移り住むと随分と冷えに悩んだり、その影響で病気になったりもします。

また、寒い地域の人が暑い地域に移り住むのも色々と問題が出てきます。

私たちは私たちそれぞれの祖先に由来する遺伝子についてもっと研究をしていかなければならないようです。

そして、現代の食文化をみてください。

たくさんの多国籍な食生活が日常的になってきていて、しかも、戦後60年でこんなに変わってしまっています。

医学でも、科学的な実証がなされないものには誰も感心がないことからも、いつの間にかなおざりになっていて、医者は医者で患者がいるから商売になる、だから、お金にならない予防学については誰も研究の意欲を持たないようです。

研究費自体が自腹になれば興味を示さないのはごく自然なことだと思うのです。

だからこそ、社会保険庁や各保険会社で予防学の研究を推し進めていっていただきたいのです。

戦後60年間で発生した、以前はなかったような病気や心の問題がたくさん取りざたされてきています。

それは、もともと、農耕ができ、穀物を中心とした環境で安定して食べてきた文化の中で、今は欧米化した動物性の食品、精製した砂糖や小麦を大量に摂取することによって本来の長い長い歴史に基づいてきた食文化が大きく崩されてきてしまったことこそが、今のDNAの抵抗をよびおこしているのです。

だから、アレルギーに悩む人々が戦前よりもはるかに多く、理解しがたい心の問題による痛ましい事件が蔓延っているのです。

ゆっくり時間をかけて欧米化していけばそんなには問題はなかったはずですが、何しろ、敗戦直後から、アメリカ主導でアメリカの都合に合わせて食文化までもが変わってしまっているのです。

こんなことは教科書には載せてくれません。

戦争に負けたつけは大きな傷跡として今も、国民を苦しめているわけです。




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# by ikenosai | 2008-10-28 23:30 | 食養生 | Comments(0)

懐かしい日々 ~少年時代の思い出~

 全てを捨てて、新たなこの地、東京に希望を抱いて私はやってきた。

何よりも愛しい人が東京にいたから。

父を、母を、姉を説得し、再び上京したのである。

念願が叶い、その人と結婚をした。

かわいい娘、息子を授かった。

そして、がんばって生きる支えとなった。

家族を大切にしなければ私の人生は無であると思った。

しかし、私には充分な経済力がなく、妻と力を合わせてやっと成り立っている状況を妻へは申し訳なく思う。

純粋で明るい性格、やさしい父、母に恵まれている妻がこんなつたない私を選んだことが何よりも嬉しくもあり、申し訳なくもある。

しかし、私を選んだということは私を信頼し、人生を託しているのだろう。

そう考えだすと、とにかく真面目に、平凡ながらも妻が喜ぶ人生を、私なりにつくっていかなければ、きっと私も幸せにはなれないのだろうと思う。

妻は東京生まれの東京育ち、田舎者の私の気持ちを正確に理解できるものではない。

そして、私も妻への必要以上の理解を求めることは止めにした。

私の田舎は、東京から遥か遠くにある岡山県の北部の津山市である。

しかし、市とはいっても歩いて隣の郡部にいけるほどの街外れであった。

家のほとんどは爺さん婆さんがいる大家族だった。

私の家は先祖代々続く本家の家で、私はその家の長男だった。

正義感が強く賢い姉と年子だったこともあって、できの悪かった私はいつも周りから比較されていたせいか、ひねくれていたように思える。

今では近くにコンビニエンスストアやファーストフード店ができているが、私の幼少の頃、1970年代はとても信じられないくらい大昔にタイムスリップしていたようなところだった。

幸いにも近くに旧国鉄時代からの美作大崎駅があった。

当時はマイカーブームより前だったこともあって、路線バスか汽車が主流の時代だったため、多くの人が汽車を利用していたので駅には2、3人の駅員がいて改札や待合室があり、駅前にはタバコ屋や食堂があり賑わっていた。

私の家の近くにもホルモン焼の店があり、お好み焼きや焼そばを食べたことをよく覚えている。

道は狭く一車線しかなく、ところどころに対向車を待つ待機場所があった。

それが驚くことに国道なのである。

学校の近くが街になっていて、魚屋、酒屋、駄菓子屋、自転車屋、薬屋などが軒を連ねていた。

私にはその辺りに住んでいる人が都会人に思えた。

スーパーマーケットのない時代だったので、すぐ近くの店にも駄菓子や惣菜があったり、あったかい中華まんも売っていた。

家の周りの道は泥と石が多い道で車が往来するため、かまぼこ型をしていた。

所々に溝があり、下水道が整備されていなかったので、そこを下水が流れていた。

その溝で農機具を洗っている光景をよく見かけた。

家の田んぼは山の方と川の方にあり、川の方が大きな田んぼで田植えは家族が総出でやっていて、役に立たない私は姉やいとこたちと川土手や田んぼのあぜ道で遊んだ。

近くに線路が通っていて踏切があったが遮断機はなく、音もしなかった。

線路に耳をあてて遠くからくる汽車の音を確認したこともよくあった。

春になると線路わきにはつくしがいっぱい咲き、それをみんなで集めてまわったこともあった。

弁当を作り、近くの山に歩いて行き、山桜を見ながら弁当を食べたこともあった。

その山のことを花見坂とよんでいた。

山に田んぼがたくさんあったから溜め池もたくさんあったので、小鮒を釣りによく出かけた。

橋の上から川の中をのぞき込むと橋が影になって川の中の魚が泳いでいるのがしっかりと見える。

田んぼの土を粘土にして戦車や船を作ったりもした。

束ねたわらを集めてマットにし、宙返りの練習をしたこともよくあった。

父に見つかるとすごく叱られたので見つからないように遊んだ。

その頃は、自然と季節を体で感じていた。

白っぽい衣類の肘や膝には草の汁が染み付いて洗濯してもなかなか落ちなかった。

洗濯機はあったが、脱水機はなく、横にローラーが付いていてそのローラーに洗濯物をはさんで回しながらしぼっていくのが主流だった。

幼稚園の頃、洗濯機は二層式に代わり、テレビがカラーになった。

ウルトラマンの色が赤だったのを初めて知った。

夏休みには朝から山へ行き昆虫を採りに行った。

目当ては勿論、クワガタとカブトムシだった。

夕方にも同じ場所に行って採った。

当時はほとんどの子どもが昆虫に興味を持っていた。

私は、上級生にも負けないくらいに必死で集めていた。

椎茸を栽培しているところからもらった腐葉土を入れ、クヌギの枝に穴を空け、脱脂綿を入れ蜜をしみ込ませる。

中には50匹ほどのカブトムシがいた。

クワガタは別の水槽に入れて飼っていた。

1番のお気に入りがノコギリクワガタで初めて手にするまでは夢にまで出てくる始末。

次にヒラタクワガタ、ミヤマクワガタの順でコクワガタはおまけのようなものだったので時々近所の小さな子どもにあげていた。

今までで見たことがあっても捕まえて飼ったことがなかったのがオオクワガタだった。

これは今でもすごいクワガタだと思っている。

家々の庭の木には朝からセミが鳴きサナギの抜け殻が木の下の辺りにくっ付いているのをよく見つけた。

木の根元にはセミの穴がありそこに幼虫が居るのを見つけたこともあった。

日中の暑さはとてもじゃないが耐えられない。

これは盆地特有の気候なのだろう。

風が吹けば少しは涼しいのだが全く吹かないと、うだるような暑さである。

プールに行き暑さをしのぎ、家に帰ってから扇風機を体に当てて、かき氷を食べる。

頭がキンキンして痛いのを手で押さえて食べた。

プールに行かない日は仲間たちと集まって川に行った。

水中眼鏡にシュノーケルを着けて堤防下の淀みに潜ってナマズやフナをヤスでついて採ったり、浅瀬にうつ伏せになり、川底と体との間に入ってくる魚を手づかみで採ったりした。

日が暮れ、涼しくなってくると蚊が出始める。

家々から蚊取り線香の匂いがただよってくる。

夕ご飯の後、一段落すると縁側で西瓜を食べる。

口に含んだ種を庭に向けて吐き出す。

そんな光景もよくあった。

余った西瓜をカブトムシのいる水槽に入れると西瓜を食べに集まってくる。

水槽の中でいつの間にか西瓜の種が芽を出していることもよくあった。

寝る頃になると、周りはシーンと静まり、静かな雰囲気になっている。

遠くの田んぼから蛙の鳴き声が聞こえてくる。

蚊帳の中でタオルケットにくるまって、いつの間にか眠っている。

窓を開けていたためか、明け方には少し肌寒さを感じ、目を覚ますこともあった。

夏休みが終わる頃はいつも溜まった宿題をまとめてやった。

いつものことだが、はじめのうちは楽しい夏休み、途中から母に宿題のことを言われ少しずつ嫌な感じになって最後には大変な思いをするのが私の夏休みだった。

しかし、今思えば、とても楽しい夏休みで、大人になってからはとてもとても味わえない有意義な夏休みだったように思える。

9月中旬まではプールもあったが、プールがなくなると次第に朝が涼しくなり、やがて寒さを感じるようになってくる。

食欲が湧きはじめ、収穫の時期を迎える。

夜長に虫の声が響きわたり、やがて稲刈りが始まる。

朝露の滴る稲穂を鎌で刈っていく、田んぼの端っこは機械が入らないため手で刈っていくしかない。

また、小さな田んぼもそうだった。

稲刈りが終わり、一段落すると松茸を採りに行った。

父に言わせると「茸を引きにいく。」といっていたが、当時は私の家でも山を持っていた。

父と気の合う仲間のおじさんたち3人でチームをつくり、茸を引きに行く。

山には休憩小屋がつくられており、私もよく連れていってもらった。

おじさんたちが交代で休憩小屋の番をし、あとの2人は腰に魚篭をつけて茸を引きにいく。

戻ってくるころにはその魚篭が松茸でいっぱいになっている。

当時はそれが当たり前だった。

父の話では、夜中も番をしたらしく、空腹を満たすために焼いた松茸を腹いっぱい食べたこともよくあったらしい。

おじさんたちのひとりに少し怖そうなおじさんがいた。

そのおじさんと2人きりの時は怖かった。

しかし、腰にぶら下げたナタで梨をむいて食べさせてくれたこともあって、それ以来怖くなくなった。

そのおじさんは狩猟が好きで狸や猪を撃ちにいっていたこともあって猟犬を何匹か飼っていた。

私はそのおじさんから犬をもらったことがあった。

採れた松茸は木箱に詰め、鉄道貨物で送っていた。

結構、儲かったらしい。

当時の松茸の話しは今では夢のような話しになってしまい、全く採れなくなったので山は手放してしまった。

秋祭りになると、村中の人たちで賑わった。

村の若い衆でお神輿をかつぎ、私もいつかかつぐのだろうと思っていたが、それはなくなった。

母は前日から、太巻きやいなりずしの大きなのをたくさん作った。

山の田んぼにいくと近くに古い神社があり、そこにお神輿は保管されていた。

神社の近くに溜め池があり、田んぼに水をひいていた。

上の田んぼから次第に下の田んぼにと水が注がれていく、上の田んぼが満たないと下には来ないので、ちょくちょくトラブルもあったらしい。

地形からいっても開墾された田んぼらしく、山間のため、米のできが悪かった。

だんぜん、川の田んぼの米が美味しかったので父もしっかり手入れをし、毎年、高く売っていたのが自慢だった。

土だけになった田んぼの所々に大きなわらぐろが作られ、やがて、朝には霜が降りるようになる。

籾殻を燃やす煙が辺りにただよい、私たちはその田んぼで野球をする。

ボールは刈り取った切り株の間をつたって転がっていく。

雨の降った次の日は靴が泥だらけになった。

いよいよ晩秋。

雲海に遮断され、空は真っ白で何も見えない。

霜柱が立つ泥道をザクザクと歩いて学校に行く。

教室にはストーブが炊かれ、煙突に消しゴムで落書きをしたりして先生に叱られたこともあった。

授業が始まって体が温まってくると、段々と足の霜焼けがかゆくなって、左右の足を擦り合わせながらかゆみに耐えていたのが懐かしい。

家の縁側にむしろを敷き白菜が干してあった。

雪の混じった土の付いた大根を冷たい水で洗っている母。

ポン菓子や焼きいもを売りにくるおじさんに子どもたちが集まった。

日の当たらない池には氷が張り、石を投げて割って遊んだ。

冬の終わりもしっかりと凍っていて、子どもがのっても割れない所もあった。

大雪が降った翌朝は、雪の重みで曲がった竹をゆすって、どっさりと雪を頭からかぶったこともあった。

寒さに負けず山を探検し、道に迷って隣の集落に出たこともあった。

そうしていくことで地域の地理感覚が養われた。

家に帰って地図で確認して新たな発見もした。

春休みになるとふきのとうやつくしを見つけ、再び春がやってくる。

こんな一年を少年時代に繰り返した。


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# by ikenosai | 2008-10-28 17:35 | 思い出のポケット | Comments(0)