いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
by ikenosai
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新のトラックバック
終戦のエンペラー
from Anything Story
カテゴリ
画像一覧
お気に入りブログ
記事ランキング
最新のコメント
 いつもやさしいコメント..
by ikenosai at 21:10
素敵なお写真ですね。 ..
by suzu-clair at 08:01
> manekinnte..
by ikenosai at 21:45
大トロ・・・・ そ..
by manekinntetti at 06:24
> sakomamabo..
by ikenosai at 23:10
以前の記事
メモ帳
ライフログ
タグ
ファン
ブログジャンル
検索
人気ジャンル

第11夜 潮騒の向こう岸


上を向いて歩こう!

 仲良し3人組だった永六輔さん、神津善行さん、中村メイコさん。

やがて、神津さん、メイコさんが婚約することになり、その報告をメイコさんが永さんにしたときのこと。

永さんは、目がうるうるしているのにメイコさんは困ってしまい、近くの公衆電話から父に相談。

父からのアドバイスが「涙がこぼれないように、上を向いて歩いて帰りなさい」と言ってあげれば・・・。

それを、そのまま永さんに伝えたのです。

数年後生まれた名曲の秘話だそうです。

                                     

e0148909_09084927.jpg


第11夜 潮騒の向こう岸



 小学校5年生で初めてキャンプに行った。


僕たちの学年は1クラスだけ、しかも23人しかいない。


僕は全員の家に遊びに行ったことがある。

そんな小さな学校なので、キャンプに行っても、手伝いに来る親たちを全員知っている。


1泊2日のキャンプは、山の上にある廃校になった中学の運動場だった。


夕食のカレーも、キャンプファイヤーも先生や親たちが一緒だった。


練習してきた歌をみんなで歌って、そのあと、大人たちが準備していた余興が始まった。


今になって覚えているのは、1つだけ。


1つだけ強烈に覚えているものがある。


「おさななじみ」という歌を10人の大人が順番に歌っていったことだった。


あれ以来、おさななじみという言葉と、あの歌がいつも重なる。


そして、忘れられない曲になっている。


「おさななじみの思い出は、青いレモンの味がする・・・」。


そのとき以来、初めてのキスの味がレモンの味だと信じていた。


キャンプファイヤーの向こう側、火に照らされて見えていたあのかわいい笑顔が忘れられない。


あの笑顔の先に、青いレモンの味が待っている。


あのとき、僕のゴールはあの笑顔の先にある青いレモンの味だと信じていた。


閉じるまぶたのその裏に、あのときの笑顔の君はもういない。


 セーラ服の君はスルーしたけれど、いつか未来で結ばれると信じて、ただただ黙って君に憧れていた。


ラブレターだって何度も書いた。


でも出せなかった。


大学生のとき、僕たちの小学校が建て替えられた。


解体の時にセレモニーがあって、解体後の校舎の床下から、小さな封筒が出てきた。


僕はそっと拾ってみた。


やっぱりそうだった。


6
年生の時に出すはずだったのに出せないままになって、床の下に隠してしまっていたあのラブレターだった。


僕なりの思いが綴られていて、まるでタイムカプセルを見つけたようだった。


恥ずかしくて、誰にも見せられないので、すぐにポケットの中に隠してしまった。


セレモニーでは参加者全員で校歌を歌った。


はっきり歌詞を覚えていた。


君を思い出すのはこの校歌と小学校のキャンプで聴いた「おさななじみ」。


僕はずっとあの笑顔のままの君が好きだった。


それは、今でも・・・。


 あれから君はどこに行ったのか。


君のお兄さんが殺人未遂事件を起こしてから、君の一家は急にいなくなった。


そして、被害者が1ヶ月後に亡くなって、一家どころか、親戚までもいなくなった。


 あきらめきれないままでいた僕は、君を探すことにした。


風の便りに流されて、山陰に行ったり、北陸に行ったりした。


果たして君はどこにいるのだろう。


高校時代の友人、看護師をしていたころの友人、手当たりしだいに君の手がかりがあれば訪ねてみた。


休日を利用しては、手がかりを探しに、探偵のように出かけていった。


しかし、そんな近くには住めないだろうと察していた。


病院をしらみつぶしに探し、看護師が働ける、老人ホームや障害者施設も探した。


探しているうちに分かったことがあった。


お兄さんが事件を起こす前、君には婚約者がいたこと。


僕は婚約者を見つけて、なぜ、君を見捨てたのか問いただした。


事件のことがバレないように君は生きている。


どうか、まだ、生きていて欲しい。


必ず僕が会いに行くから。


そう祈るしかなかった。


 君の足跡が少しずつ分かり始めた。


3年前に働いていた場所、そこは、大きな大学病院の末期癌の病棟だった。


近所に借りたアパートと病院を行き来するだけの日々。


もうすぐ死んでいく患者を必死で励ましていたと同僚の看護師が教えてくれた。


そして、ある日、理由も告げず、その職場から消えた。


その次に行ったのが、養護施設だったと聞かされ、僕は、北陸にある、海辺の養護施設を探していた。


具体的な場所が分からず、何回も探し回った。


その時点で、もとの名前は通じず、偽名を使っているのではということが分かってきた。


半分はあきらめの境地だった。


君はいったいどうしているのだろう。


どうか、生きていて欲しい。


そう祈るしかなかった。


5年ほど、僕はそのエリアをさまよっていた。


週末のほとんどを、はるばる北陸を訪ねていた。


もう、探すのではなく、君のまぼろしと対話していたのかもしれない。


独り言のように、何度も君に話しかける。


そして、幼いころの思い出をつぶやいていた。


 海辺の古びた老人ホームの側でぼんやり海を眺めていた。


裏庭の広い敷地で、たくさんのシーツやタオルを干している女性がいた。


潮騒に混じって洗濯物を干している女性。


時々聞こえる鼻歌混じりのハミング。


僕は、鳥肌がたってきた。


それは僕の小学校の校歌だった。


僕は、押さえられない衝動にかられて、その女性の側に行って、その歌をなぜ知っているのか訪ねた。


女性は、以前、ここで働いていた看護婦さんが時々口ずさんでいたと教えてくれた。


もしかしてと思い、特徴を聞いた。


女性は、事務室に通してくれて、アルバムを見せてくれた。


そして、この人よ、と指さした。


君だった。


僕は、熱いものがこみ上げて、ブルブルと震え始めていた。


やっと君に会える。


そう思った。


僕は、この女性はどこにいるのか訪ねた。


すると、事務室にいたもうひとりの職員が、昨年、亡くなったと話した。


身寄りもなく、孤独だったことが分かった。


君は、睡眠薬を飲んで、いよいよ眠くなって、これから満ちていく海にのまれていった。


最期に何を思っていたのか。


そう思うと、涙が溢れてきた。


君が元気だったころを必死で思い出していた。


君が死んでいった浜辺に僕はうつぶせて、湿った砂浜を握り拳で叩きながら泣いていた。


もう、戻ってこない君を、心の中で必死に追いかけていた。


追いつけないままの君だと分かっていたのに。


ただ好きだったあの頃を思い出しながら、そして、小さくなっていく君の記憶に微睡みながら、さようならとつぶやいた。


境界線の向こう岸で君は僕を見ている。


やっと会えた。


そう思って安心していた。


このまま君の側に行くつもりで、その境界線を乗り越えようとしていた。


しかし、境界線に川が流れ、その幅がどんどん広がっていき、とうとう君が遠くになっていった。


「あなたはまだ、ここに来てはいけないの」と君が言う。


そして、「まだ生き続けて、人生の本当の意味を理解してから私に会いに来て欲しい」と言うのである。


君の願いを心に受け止めた瞬間に、苦しみが僕をおそった。


潮が満ちて海にのまれる間際だった。


生き続けることへの君からの最後のメッセージだった。


だから、僕は生き続けることにした。


誰かの幸せのために、そして、君が果たせなかった幸せのために。


短編集「恋別離苦」より


e0148909_09080882.jpg



[PR]

# by ikenosai | 2016-07-12 09:33 | 恋別離苦(短編集) | Comments(0)

第12夜 五色の短冊




e0148909_05444614.jpg


第12夜 五色の短冊

 まだ海に入るには早かった。

熱海からの帰りの電車で、トンネルを抜けては見える真っ青な海に僕は微睡んでいた。

何度かそれを繰り返し、そしてボックス席の向かいの席を見ては、本当なのかと不安に駆られては、覚醒するたびに安心するのを何度も何度も繰り返していた。

湯河原を過ぎたころ、僕は胸の高鳴りを感じていた。

青い海に太陽が照り返し、宝石を散りばめたような輝きの中で現実と幻想の区別がつかないような不思議な感じになった。

真鶴を過ぎ、小田原を過ぎた。

大磯の辺りからは海が見えなくなっていた。


真っ青な空に雲一つない、台風一過のような朝だった。

7月7日の七夕の日は今年も良い天気だった。

電車に揺られながら、僕はあの七夕の日を思い出していた。

「笹の葉さ~らさら、軒端にゆ~れ~る・・・。」と僕はつぶやいていた。

朝早く、竹の枝を取りに川原まで出掛けていた。

もう戻ることのないあの人に、最後の思いをこめようとしていた。

もう片思いになってしまったけど、僕の思いを届けたくて出勤前にここに来ていた。

片手で持てるくらいの小さな竹の枝に小さな短冊を付けた。


去年の今日、平塚駅のホームの発車メロディーにうっとりとしていたあの人の表情を忘れられないままだった。

相模線から八王子で乗り換えて都心に向かう中央線から見える場所に竹藪があった。

そのとき、あの人が竹藪を見つめながら口ずさんでいた「たなばたさま」。

あの人は、7月7日の夕方に生まれたから夕子という名前になったって言っていた。

あれから1年が経つ。

もう終わろうとしている感じがするけど、やっぱり好きで、僕にはあきらめきれない気持ちだった。

それなのに、もう半年も会っていない。

僕からの一方的な連絡もしだいに勢いを失ってしまい、切なさの中にわずかな希望を持ちつつも、それ以上の関わりを恐れていた。

思えば、今日はあの人の誕生日。

しかも、会えないままの状態から彦星のような感じになっている。

しかし、あの人はそんな感じでもなく、僕を避けているのかもしれない。

本当は嫌いなのかもしれない。

それでも僕は伝えたかった。

そして、祈りたかった。

だから、五色の短冊に願いを書いた。



e0148909_05444614.jpg

しろの短冊には、「夕ちゃんの誕生日がすてきな1日になりますように!」

みずいろの短冊には、「夕ちゃんがいつまでも元気でいられますように!」

きいろの短冊には、「夕ちゃんがいつまでも幸せでいられますように!」

きみどりの短冊には、「どうか、夕ちゃんに良いご縁がありますように!」

最後のももいろの短冊には、
「どうか、夕ちゃんに会えますように!」

と書いて、通勤先の駐車場に駐めてある彼女の車のドアミラーに掛けてきた。

ももいろの短冊が本音だった。


 僕は何となくこれからのことを思い描いていた。

僕が30歳になっても、40歳になっても、50歳になっても、夕ちゃんのことを大切にしておきたい。

もし、会えなくても、このキュンとくる切ない思いのままでもいいから、とじこめていたかった。

だから、その年になったときをイメージして、絶対に後悔しないようにという思いから夕ちゃんに嫌われないよう、それ以上には踏み込まないようにと、そう思っていた。

僕がアクションをおこさない分、夕ちゃんの思いに任せるしかなかった。

それでも、夕ちゃんに会いたかったから、最後の祈りを七夕の日の短冊にこめた。

そして、ずっと会えないままだった。


 40歳をこえた僕は七夕になると今でもあの頃のこと、そして、願いをこめた五色の短冊のことを思い出す。

若かった恋心に思いを馳せ、少しセンチメンタルな気持ちになる。

そして、彼女とはもう会ってはいけないのだと思うのである。

それは、決して開けてはならない玉手箱のように。

遠き日の追憶に浸るとき、戻れない過去に、そのとき以上の期待感とでもいうか、何か成就したものを追いかけてでも取り返したいような、上手く説明ができない悶々とするものを感じる。

しかし、結果として、これで良かったと自分を納得させる理由を集めては、若き日の青かった自分を振り返る。

そして、最後には、彼女に「ありがとう!」という思いになる答えをいくつも、いくつも探している。

そして、そのうち、そう思える僕自身に少しだけプラスの感情がたされて、少しだけ成長したように思えてくる。

そうすることで、あの頃の自分を好きになっていくのである。

短編集「恋別離苦」より

e0148909_05450590.jpg



[PR]

# by ikenosai | 2016-07-01 22:00 | 恋別離苦(短編集) | Comments(0)

塞翁が馬


 紫陽花の咲く6月16日は父の四十九日法要だった。


e0148909_05581746.jpg

 高速バスで津山駅について、汽車を待つ間に、今津屋橋から津山の街を見渡していた。

そして、コンビニで朝食。

広くとってあるイートインコーナーがとても有り難かった。


 この場所は、かつて映画館があった場所。

最後に観たのはキアヌリーブスの「スピード」だった。

田舎特有の2本立て、もう一つは「34丁目の奇跡」。



e0148909_05585396.jpg



e0148909_05590651.jpg
 振り返れば30数年前の高校1年の秋、大きな挫折から、私は変わっていった。

何かを達成しようと始めたボクシング。

ひとりで練習するジムを抜け出し、よく走った吉井川の河川敷。

何往復も走っていたこの場所は、今もそのままだった。


e0148909_05583484.jpg



e0148909_05584225.jpg
縁に生かされ

 私の青春の原点がこの地にあったことを思い出していた。

鍛え抜いた体幹だけがその後の礎(いしずえ)になって、不思議な縁で運命改革が始まった。

卓球部だったため、部活のあとにジムに行き、朝は八出の河川敷を走り、夜はこの今津屋橋の下を走った。


 高校2年でボクシングのデビュー戦。

卒業までの3試合、すべて同じ相手に負けた。

しかし、やるだけのことはやったという達成感からか、不思議な充実感を味わっていた・・・。

そして、そこで終わるはずだった、それでよかったと思っていた。


 不思議な巡り合わせで、スカウトが来て、私は大学へ進学した。

大学に入るとすぐに、岡山代表で国体に出場。

対戦相手は、アジア大会に出場する日本チャンピオンだった。

そこでは負けたものの、その秋、後楽園ホールでのリーグ戦で、同い年の高校チャンピオンと対戦した。

2年連続でインターハイを制していた選手だった。

これまでに鍛えてきた体幹とスピードがダイナマイトのようなエネルギーになって爆発した。

リングで大暴れした私は、60秒で相手を倒していた。

高校時代で終わるはずだったのに不思議な縁によって開花していった小さな私。

何のために大学に行ったのか?

そのときの役割は、足りない部員の微力ながらの補強に過ぎなかった。

そのお陰で、リーグ戦は全試合に出場した。

高校時代にあこがれていた、後楽園ホールで20戦も戦えた。

 大学4年で引退し、しばらくは東京にいたが、田舎に帰った。



二度目の上京

 田舎に戻って、中学校の講師をしていたが、期限が来て、再び上京することになった。

津山駅に見送りに来た両親。

 
e0148909_05592236.jpg


e0148909_05593416.jpg
 出発間際になって、私は初めて父を抱きしめた。

私よりも立派な体格にまだまだ圧倒された。

泣きじゃくる父に、申し訳なく思った。

いよいよ扉が閉まったとき、父は扉を叩いて、くしゃくしゃの顔を見せながら「うんうん」とうなずいて、手を振った。

私はそこから動けなくなり、遠ざかっていく両親をずっと見ていた。

結局、岡山駅に着くまで涙に濡れた顔を上げられないまま、そこに立ちつくしていた。

それから、3年後、私は、彼女を実家につれて帰った。

二度目の上京は、その人とどうしても一緒になりたかったからだった。


 父は私が結婚してからずっと、「おまえはええ嫁をもらった」と褒めてくれていた。

そして、私自身も、彼女の両親に大切にされた。

「寵愛」という言葉の意味と、私が彼女の両親から受けた感覚とが重なる。

遠くにいても、近くにいても、みんな仲むつまじく過ごせた日々を、子どもたちも忘れないでいてほしい。


 田舎を捨てて上京したことをときどき申し訳なく思うことがある。

いつも嬉しそうに迎えてくれていた父を思い出しながら・・・。










[PR]

# by ikenosai | 2016-06-19 07:19 | お父さんお母さん | Comments(2)

小学校最後の運動会



2013年 6月 9日 投稿の記事より・・・


  私自身の中学の運動会も思い出していた。

 小学校では全てのリレーがアンカーで、応援団長をしていたのに中学では一気に陰の存在。

 800メートル走に出場し、7人中ビリ、2年のときは400メートル走で7人中3位。

 3年のときは、おたふく風邪と髄膜炎で2週間休んで卒業アルバムの運動会のところを見ても、記憶にない場面ばかり。

 決して輝けるものではなかったと記憶している。

 それでも、母は応援に来ていたし、運動会前には自主練習をしていた私にスタミナドリンクを毎日飲みなさいと1箱買ってくれていた。

 両親との色々なことを思い出していた。

 小学6年のとき、父はソフトボールチームの監督になった。

 レフト側のファウルボールの位置に校舎があり、1階が音楽室で2階が図書室。

 1階の音楽室のガラスがファウルボールで何度も割られていたので、その都度用務員のおじさんがガラスを入れていた。

 大変な仕事と思った父が、家に余っている大量の板ガラスを寄贈し、1階の音楽室の窓全面に鉄のネットを組んで取り付けた。

 事前に学校から許可を得て、何日かに分けて少しずつ奉仕活動として自己負担で取り付けた。

 それ以来、音楽室のガラスは壊れなくなった。

 それは、卒業後も、私が大学を卒業して数年後の建て替えまでの間ずっとだった。

 私が通う学校のために精一杯できることをやってくれた父に今はとても感謝している。
 

 果たして私は、子どもたちの通う学校にどれだけ恩返しできているだろうか?そして、先生たちに感謝できているだろうかと思いながら1日を過ごしていた。

 学校は素晴らしい、とにかく子どもたちを見ながらつくづくそう思った。



 


e0148909_22294197.jpg


e0148909_22300347.jpg


e0148909_22295297.jpg


e0148909_22301633.jpg
追記(平成28年6月)

  そして、今回は2年ぶりに運動会を観に行くことができた。

 6月28日(土)だった。

 私の役割は弁当作り!

 友人の父も招待して一緒に観た。









[PR]

# by ikenosai | 2016-05-30 22:34 | 現世に乾杯! | Comments(0)

天国へ


「神様がくれた一週間」


e0148909_11163724.jpg


4月23日(土)
 父が危篤との連絡が姉よりあり、父のケータイへ連絡すると、まだ話ができた。

  25日(月)
 朝早くから、姉のメールで、父が肺炎とのこと。
すぐに、職場の上司に話し、大型連休中の私の担当していた業務を全て、分散し、交代していただくことになった。

  26日(火)
 半ば強引な引き継ぎながら、昼前には東京から新幹線に乗って、新大阪から高速バスに乗り継ぎ、父の病院がある中国勝間田で下車。
姉が迎えに来てくれて、その日から、私も看病するメンバーに加わった。
 父は、話すこともでき、臨終はまだまだ先にあるように思えてきた。


e0148909_11173717.jpg
 病院と家との間にある、私の好きな風景。(国道179号線のそば)


e0148909_11172262.jpg
 春の風を感じながら!

e0148909_11175093.jpg

e0148909_11170785.jpg

 ウシガエルがすんでいる池!

e0148909_11182562.jpg

 あふれた水が少しずつ!


e0148909_11190571.jpg

 父の病室から見える景色。
高校時代に読んだ、オー・ヘンリーの「THE LAST LEAF (最後の一葉)」を思い出していた。
希望の葉っぱに私たちがなれればと願った。
 姫新線(勝間田駅と林野駅の間)を通る汽車の音が、時報のように!








e0148909_11195244.jpg

4月30日(土)
 命日になる朝が来た。
まだまだ、そんな余波はなかった。
 霜(しも)が降りた朝だった。

e0148909_11200567.jpg

 大型連休の2日目だった。

e0148909_11204738.jpg

 午後から、ひとり外に出て野球を観ていた。
病院から数キロ先、湯郷温泉の近くにあるスポーツの総合施設の野球場。
シニアリーグの練習試合(津山のチーム vs 美作のチーム)
美作といえば、湯郷出身で今も在住の、あさのあつこさんの「バッテリー」、ここはその聖地と言える場所。
野球を観ながら、少年時代の父とのソフトボールの思い出を振り返っていた。
小6のあの夏に市の大会で優勝した思い出。
父が監督で、私がキャプテンだった。
秋には県大会に出場したことも思い出していた。
のびのびとプレイしていた少年時代。
そのまんま私は大人になった。


e0148909_11210910.jpg

 再び病院に戻るとき、車を止めて眺めていた滝川。
この川は、梶並川、吉野川、吉井川に注がれ、瀬戸内海へと・・・。
水に映る西日に、微睡んでいた。
父とのわずかな時間を意識しながら・・・。


e0148909_11213709.jpg

 西日本の夕方は、東京より少し長い。
通り過ぎていく人々、周りにいる人々が輝いて見えていた。
父の薄れゆく命の儚さと重なってか、切なく、そして尊く見えて・・・。

e0148909_11215759.jpg



e0148909_11221213.jpg

 26日(火)から帰郷して5日目になる。
昨朝から父の意識レベルは下がってきていた。
痛みの緩和のため、背中には麻薬の湿布が貼られていた。
それまで堪えていた痛みが嘘のようにすやすや眠っている。

 26日(火)、27日(水)、28日(木)と、この3日間で思い出話を交えながら、父に「ありがとう」と言えた。
そして、父からも「ありがとう」という言葉が何度も出ていた。
 父の手を握り、額と額を寄せ合って「共に乗り越えていこう!」と言葉を掛けると、父は「うん、うん!」と応え、お互いに覚悟した。

 48年もの重なり合う父との現世・・・。
とうとう、私たち家族はジェットコースターに乗り込んだ・・・。
そして、今、絶叫の乗り物に一喜一憂しながら乗っている・・・。
そんな感じがしていた。

 午後から、血圧が下がり始め、酸値も少しずつ下がっていることを看護師からも伝えられた。
もう寝ているだけの父。
寝息が穏やかになってきている。
やがって止まってしまう父の呼吸。
寂しさが少しずつ私を襲い始めてきていた。
もう語らうことはないかもしれない。
しかし、ときどき、手を握り「お父さん」と言葉を掛けている。
どうか、苦しみが少ないようにと祈る私。
「シュワシュワ」と酸素が通る瓶の音に一定のリズムで「~ハッ、~ハッ、~ハッ」と父の寝息の音がする。
その横で、父を見ながら座っている私。
今日も叔父(父の弟)が付き添ってくれていた。
昔の話をたくさんしてくれた。
父との若い頃、大阪にいたころの話など・・・。
私の知らなかったことがたくさんあった。


 夜8時半頃

 以前、肺炎をおこした父は、あの危機的な状況から生還していた。
あれから5年目の春が過ぎていた。
一旦、肺が弱ってしまった父は、弱いなりの肺を、高地トレーニングのような状態で鍛え上げていた。
なので、医者からは2日ともたないだろうと言われていたのに6日が過ぎようとしている。


 夜9時40分頃

 血圧が下がり、120くらいもあった脈拍が50~60に・・・。
肩で呼吸をしていたはずが、浅くなり、弱まっている。

 そして、呼吸が止まった。
もう、戻ってこない・・・。
再び、1回だけ大きく肩で息をした。
それが最後で、もう息がなかった。
「お父さん、お父さん」と耳元で呼んだが父の意識はもうこの世には現れなかった。

 ジェットコースターが止まった。
私は周りを見渡した。
みんながいた・・・。
しかし、父だけがそこからいなくなっていた。

 
 夜22時頃

 当直の医師が死亡を確認した。
呼吸器、諸々の管が外され、やっと父は身軽になった。
主事医も自宅から駆けつけてくれた。

 看護師2人、母、姉、姪、義兄、私で父の体をきれいにし、お気に入りのスーツを着せた。
そして、叔父の車で運ばれて父は帰宅した。
すでに日付が変わっていて、葬儀屋が家に来ていた。



 5月2日(月)通夜

 5月3日(火)告別式



 父の遺言どおりに葬儀がおこなわれた。



 父が私にくれたもの、それは慈悲の一言に尽きる。

みかえりを求めない無償の愛を惜しみなくいただいた。

小学校6年のとき、前年までのソフトボールの指導者が勇退し、私の担任の説得で、父が監督になった。

毎日、16時に仕事を切り上げて、指導に来てくれた。

その年、市の大会で優勝。

私が卒業後も監督をし、3年間務め、市の大会では全て優勝し県大会へ出場した。


 今年に入ってからも父が言い続けていたことがある。

「子どもは親の背中を見て育つ、だから、おまえの生き方は子どもに影響を与えるけん、子どもたちをしっかりとみてやって欲しい・・・。」と。

そして、必ず、「お父さんはそれができなかった。許しちゃってくれいや・・・。」と私に謝っていた。

私は、その言葉を聞くだけで、ああ、親孝行をしなければという思いになる。

しかし、墓石に布団は掛けられぬ・・・。

なので、その思いを子どもたちにと思う。

しっかり、子育てをすることで父への恩返しにしたい。

 
  お父さん、どうか天国から見守っていてくださいね。

いつか私がそちらに行くまでの間・・・。



 棺の中に花をたむけるときだった。

それまでは涙が出なかった。

もう覚悟ができていたから、そう思いこんでいた。

喪主の私は、一番最初に棺の中に花をおくと、思わず父の髪をなでて、自分の頬を父の額につけて「ありがとう、お父さん、さよなら・・・。」と父に話しかけると、止めどなく涙が溢れてきた。

やっぱり、泣いてしまった。

おいおい泣いて、父にお別れをした。





















[PR]

# by ikenosai | 2016-05-13 19:03 | お父さんお母さん | Comments(9)