いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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終戦のエンペラー
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「6才のボクが、大人になるまで」を観に行こう



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 最近、どうしても観に行きたい映画がある

 前回観た映画は「風立ちぬ」そう思えば、映画館から遠のいている

 通勤で、毎日立川の映画館の前を通るのに。


6才のボクが、大人になるまで」の宣伝をテレビで観た。


 ニューシネマパラダイス以来の期待感を感じた。


 それを考えると私の好きな映画は、概ね、主人公は少年が多い。


 しかも、順風満帆な少年ではなく、何かを抱えながら成長していく話が好き。


 特に感動した映画のそれぞれの大好きな場面。



「マイライフ・アズ・ア・ドッグ (スウェーデン)

 結核を患う母の病状悪化のため、田舎の叔父の家に一人預けられる少年の話。その村の少年達に混じってサッカーとボクシングに興じる一人の少女と出会い、最初は子ども同士無邪気に遊んでいたが、それぞれの体の変化と思春期を迎えようとする少年に起こる数々の出来事に感動する。母が亡くなった知らせを聞き、本当は悲しんでいるのに、誰にも解ってもらえない彼の感情が解ってくると涙が溢れてくる。夏目漱石の「坊ちゃん」でも母との関係で似た場面に私はグッときたのを思い出す。



「顔のない天使」

 12歳の主人公の少年チャックは姉、妹とそれぞれ父親が異なる複雑な家庭に育ち、家族から孤立していた。普通の子ではない扱いを受ける中でメルギブソンが演じる元教師マクラウドと巡り会う。それぞれに孤立していて悩みを持っていたが、次第にうち解けていく。

 ある日、姉と喧嘩をしたチャックは自らの記憶とは異なる実父の死の真相を知りマクラウド邸へ駆け込む。マクラウドは帰宅するよう説得をするもチャックは帰宅せず一夜を過ごす。翌朝、チャックの母から通報を受けた保安官が保護し、帰宅。マクラウドには地域からの偏見の眼差し。

 マクラウドによって、勉強の楽しさを知り、変わっていったチャックは、無理だと思われていた士官学校への進学をする。

 ある夜、士官学校の寄宿舎を抜けだし、マクラウド邸に会いに行くのだが、マクラウドはもうそこにはいない。誰もいない幽霊屋敷でチャックにあてた手紙を見つける。その手紙を読んでいる場面で涙が溢れてくる。

 最後のシーンは卒業式。帽子を一斉に天に投げた後、遠くにいる一人の男性にチャックの目は止まる。マクラウドはチャックに会ってはいけないと裁判所から言われていた。しかし、遠くから見守っていたのである。そして、手を振ってすぐに立ち去っていく。思春期に揺らいでいたチャックの心に人間の優しさを深く突き刺したのはマクラウドだった。ふたりの心のふれあいが後半からエンディングまで涙、涙で続いていく。



 とにかく変わり者の私は、少年が大人になっていく話が大好き。


思春期の男の子に関わるのが好きなのは、自分がもともとだめな人間で、いかに生きていくのか、それも、いかに人々の中に善く生きていくのかを少年期に感じ、多くの失敗の中にあっても、それを人生のふくらみにして前向きに生きようとし、そして、今もそう思い、自分の人生の課題として生きているからなのだろう。


心ひとつで変われることはいっぱいあるけれど、思春期までの子どもの頃に、何か重いものを抱えてしまっている人は多く、それぞれの生い立ちの中に秘められた拘りのある感情は、人々の心が変わることで慈悲を引き出す幸福への糸口につながると信じている。だから、私は今、生きて、そしてこれからも生きていけるのだと思う。





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by ikenosai | 2014-10-31 10:18 | いつか余熱に気づくとき | Comments(0)

にっぽん縦断 こころ旅

火野正平さんの「にっぽん縦断 こころ旅」、今週も中国地方(島根・山口)。

それぞれの寄稿者の思い出の原風景のお便りに涙があふれてくる。

ふと思い出した僕の青春時代のこころ旅・・・。

寄稿には間に合いませんでしたので、この場所で明かします。


1985年(昭和60年)夏休み。

 7月21日、僕の追いかけていた青春が終わった日。

全国大会にかけていた最後の試合が終わった。

明日から何を目標に生きていけばよいのかと失望の淵に立っていた。

両親との約束で就職することだけは覚悟していたので、残りの夏休みをどうにか充実させたいという一心で、翌日からバイトを始めた。

酒販会社のバイトは朝から晩までビール運び、繁忙期ともあって、酒屋に卸すビールの数は半端ではない。

毎日のように大きなトラックが来て、どっさりとビールをおろしていく。

当時は断トツでキリンのラガービールだった。

アサヒ、サントリー、サッポロは隅っこにポツリ。

ほとんどが黄色のP箱に埋め尽くされて、塀のようになって、酒販会社の周囲を囲んでいた。

 私はそこで、最後の青春の思い出にと、旅費稼ぎに必死だった。

 津山を拠点に、日替わりで配達の助手をした。

市内の酒屋は午前、午後でトラックに積み込み、郡部はさらに大きなトラックで朝、積んで、おろした後、空いた隙間に空き瓶を積んでいく。

遠くは、福渡(現 岡山市北区)、上斎原(現 真庭市)、奥津温泉、柵原(現 美咲町)、加茂町(八つ墓村のモデル)、阿波村(現 津山市)、物見峠を越えると鳥取県。そんなエリアの酒屋を一軒一軒訪れ、配達をする仕事だった。

体力だけには自信があったので、楽しかった。
 そして、お金をためて、仲の良かった友だちと自転車で中国地方を一周する旅行をした。

 

1日目 8月19日(走行距離180㎞)

早朝5時に出発。

東津山から、久米、落合、久世、勝山と抜け、美甘、新庄、そして、四十曲峠(ここはおそらくあさのあつこさんのバッテリーで出てくる“おろちとうげ”と僕は推測する。)。下は旭川支流でとった写真。

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峠を越えると、渓流から水を引いたプールがあった。

小さな山の小学校、さらに下って岸本、日野、そして、米子へ、この日はかなり無理した。

途中で撮った宍道湖の写真、もうすでに陽は西に傾いていた。
 それでも漕いで、出雲に。
 橋の下にテントを張って野宿。



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2日目 8月20日(走行距離80㎞)

 友だちにお願いして、この日は、浜田にある僕の祖父母の家に。

瀬戸ヶ島という本土と橋でつながった小さな島。

僕の大好きな島。

家の前は青くて深い日本海。

到着後すぐに僕は海に飛び込んだ。

その頃は、祖父母ともに元気だったので、みんなにもてなしていただいた。


3日目 8月21日(走行距離100㎞)
 赤ん坊の時から知っている海。島根の海は僕の原風景。

 

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 萩に向かった。

萩城の中にある海辺のキャンプ場で一夜を過ごした。

 両親に萩焼の湯呑を買った。

 この日は甲子園の決勝、山口代表の宇部商業が出場していた。

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4日目 8月22日(走行距離70㎞)

 秋吉台を抜け、湯田温泉へ。

 途中、秋芳洞、景清洞を観光。

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 ドライブインの厨房で水をもらった。

やさしいおばさんが、氷水を入れてくれた。

 長い自転車道を通って湯田温泉に。

 共同浴場に入って、河原の芝の上にテントを張って野宿。


5日目 8月23日(走行距離130㎞)

波乱の一日の幕開け。

午前中、岩国の錦帯橋へ。

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その後、知らず知らずに入ってしまった自動車専用道路。
 通行する車の視線が冷たく、時々怒っている人も。
 パーキングエリアで気づき、自転車を担いで塀から出した。
 さらに、2km近くもあるトンネルではほこりまみれに・・・。
 さらに、さらに・・・。
 宮島へ渡るも、宿代が高くて、野宿もできそうになく、広島駅へ。

 この夜、友だちと大喧嘩になり、一旦は別行動に。

 それでも、気になり、喧嘩別れした場所に戻ると、友だちはのんびりタバコをふかしていた。

互いに謝って、仲直り、そして、広島駅周辺の公園のベンチに横になっていると、知らないおじさんが、こんなところで一夜を明かすのは危険で、蚊もいるからと、家に呼んでくれた。

 単身赴任のそのおじさんは、段原という地区で、原爆にも耐えたぼろアパートの6畳一間に住んでいた。

1枚の布団を横にして、3人で寝た。

財団と協力して福祉施設をつくるために広島に来ているとのこと。

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6日目 8月24日(走行距離80㎞)

 親切なおじさんと別れ、平和公園へ。

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そして、憧れていた尾道へ。

転校生、時をかける少女、さびしんぼ、当時の新日鉄のコマーシャルで尾道大橋を知った。
 それ以来、必ず自転車でこの橋を渡ると決めていた。(今ではしまなみ海道の入口)

 残りのお金を出し合って、最後は民宿に泊ってのんびり過ごすことにした。

興奮を抑えられない僕は、友だちを宿に残してひとり千光寺山へ、林芙美子の放浪記の石碑に行って、そこからの尾道水道の景色を眺め、失神しそうだったことを今でも覚えている。 

通りすがりの観光客、若い学校の先生(女性)が一人で観光に来たと話してくれた。
 僕の興奮に共感してくれていた様子。
 お互いに写真を撮り合った。

 映画の撮影場所がいくつもあり、大林宣彦監督の実家が階段の途中にあった。

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7日目 8月25日(走行距離150㎞)

 朝早く、友だちと尾道大橋を渡り、向島からの千光寺山を眺めていた。

そして、最後の日、ひたすら津山を目指した。

途中の福山で、立ち寄った店にいたおばさんが偉いわねとアイスクリームをおごってくれた。

岡山市を経由し、まずは、東津山の友だちの家に行き、家の人に挨拶して、まだ明るいうちに自宅に着いた。

 両親はまだ、畑に行っていた。

帰ってきたことを伝えると、父が淡々と「おかえり」と言った。

 なんだか、すべてがこじんまりとして小さく見えた。


夏休みが終わり、担任の先生の政経の時間。

先生が、「今日は授業は休みじゃ。」と僕を前に呼んで、「お前、夏休みの旅行の話をみんなにしてくれえ。」とのこと。

 僕は、最初から最後までの出来事を詳細に話した。

 みんなは、僕の話に興味津々な様子で聴いてくれていた。

 僕は、ふたたび旅行のことを思い出し、嬉しくなっていた。

 僕の両親と、友だちと、友だちの両親と、直前にも関わらず、許可をくださった担任の先生に感謝が込み上げていた。

 そして、旅行の途中で、氷水をくださったり、アイスクリームをおごってくださったおばさん、一晩、家に泊めてくださった広島のおじさんへも感謝が込み上げていた。

僕の高校3年の夏はこうして過ぎていった。

このあとに、人生を変える大きな大きな出来事があることなどまったく予想もしないまま・・・。






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by ikenosai | 2014-10-21 12:36 | 海まで走ろう | Comments(0)

「人はなぜ、食い違い、争うのか?」を考える!

文化高等学院通信(平成18年2月創刊・研究誌) 
第25号 (平成26年 10月 1日)
                  
  〒207-0012
  東京都東大和市新堀1-1435-20
                  
  特定非営利活動法人 文化高等学院


「誠実」と「不誠実」
  そして、解ろうとすること!


2007年に出版された“まともな人”という養老孟司さんの著書の中で人々の心について上手く書かれている箇所がありますのでご紹介します。

 「戦争中、私は小学生だった。その頭の上に焼夷弾を落としていたのは、同じアメリカの空軍である。その件について、私はまだアメリカに謝罪してもらった覚えはない。なぜ子どもの頭の上に爆弾を落とすのか。そのつもりはないといっても、下に子どもがいるくらいは、相当に想像力を欠いた人でもわかるはずだ。60を過ぎても、まだ自分がそこにこだわっていることを思うと、爆弾を落とせばテロが終わるとは思えない。世界は広いから、私みたいな子どももいるはずだからである。(中略)知米派はいう。アメリカは広い。一口にアメリカなんていえない。それは当然であろう。中国ならもっと広い。そう思ったら反米も親米もない。アメリカにも反米主義者はいる。チョムスキーなんて、その典型ではないか。アメリカという「なにか」を理由にして、「だれかが」力で無理を押し通す。それに反撥する相手がいる。その循環がテロを生んだのであろう。だから私は国益という言葉が嫌いなのである。「いつの」「だれの」益か、それを明確にしてもらいたい。国益とはいまでは環境問題しかない。私は個人的にはそう思っている。片々たる人間の利益ではない。自然のことである。自然がどのような状態に置かれるか、それは未来の人間まで含めた、人類全体の利害に関わる。あとのいわゆる政治経済は、そのときどきのゴミみたいな問題である。時が過ぎれば忘れる。立場が変われば変わる。ナチス・ドイツについて、ビクトール・フランクルはいう。共同責任などというものはない。両親、兄、妹、妻を収容所で亡くし、アウシュヴィッツを神秘的とでもいうしかない運命のもとに、生きて逃れた人がそういう。人間のなかに誠実な人と、不誠実な人があるだけである。遺憾ながら、誠実な人のほうが数が少ない。フランクルはそうもいう。世界はおおかた不誠実な人でいまも埋めつくされているであろう。共同責任とは、ナチスの場合ならもちろんドイツ国民全体のことである。だからテロはアフガン人の共同責任ということでもないし、タリバン全員の責任というわけでもない。さらにフランクルはいう。私の知っていた最後の収容所長は、自分の小遣いから囚人用の薬品を買っていた。収容所から家に帰ると、妻にその日の出来事を語り、ともに泣いていた医師もいた。私が親米とか反米という言葉を好かない理由は、おわかりいただけるであろう。
 私の大学の学生たちに、昨年あるビデオを見せた。イギリス人の若夫婦が子どもを作ろうと思い、妊娠し、出産するまでを記録した、BBC作品である。50分なので、1時間半の授業では余りが出る。その時間を使ってビデオの感想をレポートに書いてもらった。薬学部なので女の子のほうが多かった。レポートの中身はよく似ていて、ほとんどの女子学生が、あれも知らなかった、これもはじめて気がついたと、妊娠と出産について、さまざまな新知識を得たと書いてくれた。驚いたのは、男子学生のレポートである。1割足らずの学生が、母親がどんな思いで自分を産んでくれたか、はじめてしみじみ考えたと書いた。残りの学生はどうだったか。似たようなビデオを高校の保健の時間に見た。とくに新しいこともなく、あんなことならもうすでに知っている。9割がそう書いたのである。それなら知っている。テロなら「知っている」。アフガンが爆撃されたことは「知っている」。男子は子どもを産むことはない。夫婦の思わぬ離間は結婚以前にすでに始まっているのである。厚生労働省の研究所の調査でわかっていることだが、日本の普通の家庭では、結婚後15年まで、夫から妻への愛情は横ばいだが、妻から夫への愛情はひたすら右肩下がりなのである。統計的な解析で、その理由までわかっている。「夫が子育てに協力しなかった」。それが理由である。右肩下がりで、最後は定年離婚に至る。その遠因は子育てにある。子育てへの協力とは、オムツを洗うことでも、炊事をすることでもない。産む性への理解である。それに対して、すでに結婚前の若者たちが、「そんなことはすでに知っている」という。9・11に関する論考が、いまひとつピンと来なかったのは、そういうことであろう。どうせ対岸の火事なのである。ニューヨークのある著名な編集者が、欧州では反テロ攻撃に反対する人が多いと聞いて、あの現場を見なかった人間に、攻撃反対を語る資格はないといった。そう書かれた論考を読んだ。人々の気持ちは、そこまで狭くなってしまったのである。フランクルならそうはいわなかったであろう。テロであれ、反テロであれ、人間のすることだ。人間には誠実な人と、不誠実な人がある。小さな声で、ただそうつぶやいたかもしれない。われわれはなにごとであれ、「すでに知っている」世界に住んでいる。なにも知ってやしないのである。テロの現場にいたところで、ほとんど五里霧中、すぐ身の回りのことですらよくわからないはずである。何十年一緒に住んで、女房の気持ちがどこまでわかるか。それがわかっているなら、自分が考えることが正しいと思いつめて、飛行機を乗っ取って、ビルに突っ込んだりしないはずである。どこかの国に爆弾を落とせば、そういう視野狭窄がなくなるか。逆にそういう種類の人が増えるばかりであろう。先のニューヨークの編集者は、自分がテロリストと似た感情を抱いていることに気づいていないのであろう。」

 名ばかりの「国益」と「共存」をテーマに考えると戦争と平和について何かを考えるきっかになるのではないでしょうか。また、原理主義という恐ろしい呪縛の中でお互いの歩み寄りの姿勢がなければいつまでも争いは絶えず、欲望ばかりを満たそうとする貧しい心の中をいつまでも、いつまでも彷徨って行くのではないでしょうか。   


永遠の友だち


 大学を卒業してからの数年間、教員採用試験を受けながら、三軒茶屋の飲食店で働いていました。当時の常連客に白人の男性がいて、ある日、その男性と話ができる時間があり、ぎこちない英語で彼に職業を聞きました。彼はアメリカの化粧品の営業で日本に来ているとのこと。そして、彼からこんな提案をされました。「僕の事務所は僕だけの時間もあるので、ぜひ遊びに来てください、そして、私はあなたに英語を、あなたは私に日本語を教えてください。」と。それからは、常連でもあったため、平日は毎日顔を合わせ、時々彼の事務所に行って英会話を教えていただき、一緒に浅草に出かけたり、新宿で一晩中飲み明かしたりして楽しいお付き合いをさせていただきました。彼のアパートに泊めていただいたこともあり、彼の机の上にはきれいな日本の女性の写真が飾られていました。彼に誰かと尋ねると「私の好きな人・・・、私は好き、彼女は、多分そうでないかも・・・。」私はつかさず、「それは、片思いって言いますよ・・・。」と言った感じで話しました。私はハンディーサイズの英和、和英の辞書をいつも持っていました。彼は私が知るアメリカ人では一番シャイでした。それなのに、金髪の白人で身長は190センチもあり、大男でした。それがシャイなもんですから、そのギャップにみんなが驚くぐらいでした。
 翌年の年末年始に岡山県津山市にある私の実家に一緒に来ないかと誘うと、「それは、楽しみだ。」と行くことになりました。古い昔の家にアメリカ人が来て5日間も過ごすのは大変だろうと思いました。すきま風が吹く2階は、部屋にいても吐く息が白くなり、寒くて目が覚めるような家。トイレは和式で汲み取り式。カルチャーショックは予想の範疇でした。東京駅で待ち合わせて、新幹線に乗りました。彼は果物の盛り合わせをお土産に持って一緒に自由席に。ローカル線に乗り継ぎ7時間程かけて実家に。家に着いて驚いたのは、和式トイレに様式便座がのっていたことです。父曰く「アメリカの人はうちの便所はよう使わんでなあ。」とのこと。早々にホームセンタで買ってきて準備してくれていたのです。元日は、私が運転をして、父、義兄と4人で湯原温泉の露天風呂に行きました。実家からは、高速道路を使えば、40分ほどで行かれるところ、一升瓶を温泉につけて回し飲みをしている大勢の人たちに混じって彼も入りました。地元のおじいさんが「わしゃあ、生まれて初めて、ナマの外人さんを見るんじゃあ、握手してくれんかのう。」と近寄ってきたりして、温泉で大人気でした。温泉脇にある酒場で父と義兄と彼はおでんをつまみに日本酒を飲み、運転手の私はコーラを飲んでいました。彼は日本の中でも、極度の田舎を見て楽しそうで、興味津々なようでした。その年は高校のクラスの同窓会もあり、お店をハシゴして、明け方までみんなが代わる代わる彼を囲み、アメリカの話を聞いては盛り上がり、ここでも彼は大人気でした。最後の日の朝、両親は彼にお土産を持たせ、彼からはお礼にと、それぞれにマフラーが贈られました。「あなたのお父さん、お母さんが大好きです。」と言っていました。東京に戻ってからも、相変わらず仲良くお付き合いをしていました。
 翌年の春、私は東京での生活を終え、田舎に帰ることになり、彼にも事情を伝えると、最後にお別れ会をしたいと、企画し、一回目はアメリカ人だけのお別れ会で彼の親友を下北沢に集めてくださり、日本人の大切な友だちとして私を紹介してくれました。2回目は、彼の親友の日本人ばかりを集めてでした。はるばる京都から来た人もいました。ここでも大切な友だちとして皆に紹介してくれました。その中に、彼の部屋で見た写真の女性もいました。ひときは目立つ美しい人だったので、すぐに気がつきました。やはり、彼の片思いなのかなと思いました。
 田舎に帰ってからは、彼から餞別でいただいた鞄を持って通勤していました。その鞄のエピソードを話すと、わざわざ職員室まで見に来る生徒もいました。
 学校での勤務の期限が来て私は再び上京しました。そして、彼の結婚パーティーに招かれました。相手は、あの写真の人ではない日本人でした。それから、数年後、カリフォルニアに住んでいると夫婦仲良く寄り添った写真の葉書が実家に届いていました。母から「アダムさんから葉書がきとるけん送るな。」とのこと。急いで返信するもそこからは音信不通に。それ以来、彼とは会っていません。しかし、もし、今、会えたなら、きっとこれまでの年月など関係なく、すぐに以前のように親しく接することでしょう。国境を越えてもこんな関係がいろんなところにあれば、国家間はよい関係でいられるはずです。彼を田舎に連れて行ったとき、姉から言われた言葉を私は今でも大切にしています。「もし、あんたがアメリカに行ったとき、あんたがしてほしいことを今、彼にやっているんじゃな。」と。地球で共存する我々がもっと、もっと相手を思いやる心を持ったとき、そしてそれによって人々の内面から変わっていくとき、本当の平和が築かれていくのだと思います。いつまでも、過去を引きずっていては、未来への融和にはたどりつけないでしょう。今こそ、悪しき因縁とでも言いますか、その因縁を切っていく時代にしていかれればと願っています。


風が吹けば桶屋が儲かる

 以前とは違った形でお金の新陳代謝が起きている時代です。肉体よりも頭を使うことにより、違った形でストレスも増えています。ストレスはやがて、ホルモンバランスを崩し、お酒を飲んだり、甘いものを食べ過ぎたりもします。カロリーオーバーで習慣にない運動をお金を払ってでもしなければとスポーツジムに通う時代です。カロリー消費の悪循環は公共の場でも顕著です。たとえば電車の中、やたら座ってスマートフォンをいじっている若者をよく見かけます。脳だけはスイッチがONで体はオフの状態。そして、周囲への配慮はなくなっていて、無関心だけが増大し、本来座るべき人々への配慮がなくなっています。今では、優先席でケータイをいじっている若者がとても多く、みんながやっているから平気だというモラルハザードな時代。法を犯さなければいいという浅はかな考えがそこら中に蔓延しています。年配の人たちにだってモラルハザードは起きています。信号も横断歩道もない道路を自己都合だけで横断する場面をよく見かけます。確かにおおまわりするには遠すぎるし、歩道橋を渡るには階段や坂が大変です。しかし、その習慣は、やがて夜道でも起こりうるわけです。その類の事故が何度も起きているのです。加害者が気をつけることは当然ですが、被害者の常識が向上するだけで、こういった悲しい出来事は減少するはずです。まして、事故に関わるさまざまな手続きが人を動かし、余計なものまでもが日常的になり、そこで使われる税金を考えてもよく分かります。夜間の活動が増えていることは、一見、たくさんの労働力を増やし、雇用を促進しているかのようにも思えます。人々の生活サイクルが多様化され、複雑化され、24時間いつでも好きなことができる時代のようにも思われます。しかし、人間が本来持っている動物的生きものとしての理(ことわり)を考えると崩壊していることが分かります。資本主義と競争原理の定義をそろそろ崩して、新しい時代を考えていく時代になってきているのではないでしょうか。「大地に触れ、人々と関わる」これが面倒臭くなっているという感覚が、機械を介し、無感情を生み、幻想の中に感動を求めていて、リアル(現実)という言葉がよく使われる時代ではありますが、どこかズレている感じがします。そして、いちばん恐ろしいのは、無感情になった人類が機械を介して人を殺す時代でもあるという恐ろしい現実があるということです。このような環境下でいくら感動を求めてもどこか虚しい私利私欲な世界観だけが浮き彫りになってきているように思えてなりません。
 テレビのBS放送や深夜番組で嗜好品や、ダイエットに関わるもの、健康器具、健康食品などの通販ばかりが目立っていて、どこかお金の使われ方が健全ではないように思えるのは私だけなのでしょうか。そして、その隙間に入り込んでいる二次元のアニメ番組は、昼夜逆転の若者を増やしています。多様な生き方を簡単に受け入れる環境は、人間本来の正常であるべきものを失わさせ、やがて心の病へ向かわせていくのです。早寝早起きの人に心身ともに健全な人が多いのは分かりやすい答えのように思うのですが・・・。


健康と予防


 乾いた心に潤いを!

「学生諸君に向けて、新しい進路へのヒントないしアドバイスを書けという編集部からの依頼であるが、実はとりたてて何もないのである。しばらく生きてみればわかるが、個々人の人生はそれぞれ特殊であり、他人のヒントやアドバイスは何の役にも立たない。とくにこういうところに書き連ねている人生の諸先輩の「きれいごと」は、おみくじほどの役にも立たない。
 振り返ってみるに、小学校の卒業式以来、厭というほど「はなむけの言葉」を聞いてきたが、すべて忘れてしまった。いましみじみ思うのは、そのすべてが自分にとって何の価値もなかったということ。なぜか? 言葉を発する者が無難で定型的な(たぶん当人も信じていない)言葉を羅列しているだけだからである。そういう言葉は聞く者の身体に突き刺さってこない。だとすると、せめていくぶんでも本当のことを書かねばならないわけであるが、私は人生の先輩としてのアドバイスは何ももち合わせておらず、ただ私のようになってもらいたくないだけであるから、こんなことはみんなよくわかっているので、あえて言うまでもない。これで終わりにしてもいいのだけれど、すべての若い人々に一つだけ(アドバイスではなくて)心からの「お願い」。どんな愚かな人生でも、乏しい人生でも、醜い人生でもいい。死なないでもらいたい。生きてもらいたい。」

 哲学博士の中島義道さんが電気通信大学の卒業生に贈ったはなむけの言葉より


お薦めの“1冊”


「移民の宴」~日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活~



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 著 者 高野秀行
 出版社 講談社
 価 格 1600円(税別)

 日本に住んでいる外国の人たちの食生活を中心に紹介しているこの本では、故郷を大切に思っている人たちが多く、どこかノスタルジックな思いが伝わってきます。また、コミュニティを作っているケースが多く、タイの寺院や、モスクがあったりと、彼らなりの信仰への価値観を持っています。国はそれぞれに違いますが、共通して、畏れるものがあり、先祖への深い信仰のようなものも感じます。そして、一時的にとまどいながらも、それぞれの事情を抱えながらも、独特の世界観を持ちながら日本に溶け込み、たくましく生きています。
 東日本大震災で被災した外国の人たちについても触れているページがあり、異国の地での大変さも伝わってきます。
 国内でありながら、異国情緒を感じることのできる地域が紹介されていて大変興味深い1冊です。


編 集 後 記


 最近、「グラン・トリノ」という映画をBS放送で観ました。グラン・トリノとは1970年頃に生産されたフォードトリノという自動車のことで、クリントイーストウッドが演じる主人公の宝物です。自動車工を50年勤めあげたポーランド系米国人の彼は妻を亡くし、愛車グラン・トリノのみを誇りに、日本車が台頭し、東洋人の町となったデトロイトで隠居暮らしを続けていました。頑固さゆえに息子たちにも嫌われ、限られた友人と悪態をつき合うだけで、亡き妻の頼った神父をも近づけようとしなかったのです。彼を意固地にしたのは朝鮮戦争での自己の罪の記憶であり、その影響で誰ともうち解けなかったのですが、隣人のアジア系モン族の少年とその家族との交流を通して、心が癒されていき、最後には、神父とうち解け、心の拠りどころとなったモン族一家の悪しき因縁を断ち切るために悪と戦い死んでいきます。遺言によりモン族の少年がいただいたグラン・トリノを運転しているところで映画は終わります。何とも言えない後味に、共感している自分は男なんだとつくづく思いました。そして、偏屈で頑固なところがよく似ていると自分を振り返っていました。どこか懐かしい昔の男性を描いたこの映画で、イーストウッドは俳優の仕事を終えました。この映画からも、戦争が狂わせた人々の人生について考えさせられます。先月、終了したNHKの連ドラ「花子とアン」でもそれがよく分かります。今回の連ドラの「マッサン」のモデル、ニッカウヰスキーの創立者、竹鶴政孝さんは伴侶であるリタ夫人に65歳で先立たれ、その後、身の回りをお世話する女性と巡り逢います。夫を戦争で亡くし、後家さんになっていたその女性が、私の奥さんのお祖母様でした。こんな秘話は、私がここで明かさない限り、誰も知りえません。妻の両親の結婚式、花嫁と一緒にバージンロードを歩いている竹鶴さんの写真が妻の実家には残っています。数年前に、そのお祖母様は亡くなられました。長男の挨拶で「母が亡くなり、やっと終戦を迎えました。」という言葉に戦争を引きずっていた重いものを感じました。今もまだ、本当の終戦を迎えていない人々がまだまだいらっしゃることでしょう。(S・I)(http//ikenosai.exblog.jp)
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by ikenosai | 2014-10-19 21:43 | 文化だより | Comments(0)