いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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終戦のエンペラー
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“119104”にこめて②

 隣を歩いていた仲間が、立てた上着の襟で口元をかばいながら、ふいにつぶやいた。

「ねえ、君、女房たちがおれたちのこのありさまを見たらどう思うだろうね・・・! 

女房たちの収容所暮らしはもっとましだといいんだが。

おれたちがどんなことになっているか、知らないでいてくれることを願うよ」そのとき、わたしは妻の姿をまざまざと見た!

 雪に足を取られ、氷に滑り、しょっちゅう支え支えられながら、何キロもの道のりをこけつまろびつ、やっとの思いで進んでいくあいだ、もはや言葉はひとことも交わされなかった。

だがこのとき、わたしたちにはわかっていた。

ひとりひとりが伴侶に思いを馳せているのだということが。

 わたしはときおり空を仰いだ。

星の輝きが薄れ、分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まっていた。

今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。

精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。

わたしは妻と語っているような気がした。

妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。

まなざしでうながし、励ますのが見えた。

妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。
(ビクトール・E・フランクル「夜と霧」より)

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~結婚記念日を“夜と霧”に重ねて~

 着の身着のまま送られてきた収容所の中で、生き抜く大きな力となっていた妻の存在。

現代においてここまで伴侶を思える機会などなくなってきているのかもしれない。

しかし、本当に辛いとき、悲しいときに伴侶を思い、感謝の気持ちになれるとしたら、その感覚は計り知れない幸福感になるだろう。

幸福は精神の中でつくられていくのだと強く感じる場面だった。

 1997年の今日、僕たちは結婚した。

今でも思うこと、それは、この人と結婚できて良かったこと。

それが、これまでの嬉しいことの原点。

夏の終わりの記念日。

いつも、思い出す。

あの日から始まった色々なことを。

そして、フランクルに学ぶ伴侶への思い・・・。
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by ikenosai | 2014-08-31 08:47 | “119104”にこめて | Comments(1)

永遠の甲子園

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 昨日、高校球児たちの夏の甲子園が終わった。

 いつものことだが、縁もゆかりもない学校同士の対戦では、私は下馬評の弱いチームを応援する癖がある。

 リアルタイムで観ることができなかったが、三重高校を応援していた。

 今大会では、一押しの敦賀気比高校が優勝すると思っていた。

 しかし、勝負の世界はやってみなければ分からない。

 まして、拮抗する高校同士の対決。

 野球をしていなくても、私が憧れていた甲子園。

 思えば、ほかのスポーツに置き換えてその夢に近づけていたのかもしれない。

 3戦3敗のまま、無名の選手のまま、体育推薦で進学した私は、野球部に根強い人気のあった駒澤大に行かせていただいた。

 閑散としたボクシング部の練習場は、たまに来るOBや監督、コーチはいたが、ほとんどは数名の選手が静かに練習をしていた程度だった。

 2学年上のM先輩に私は可愛がっていただいた。

 今でも、後輩に優しく接することができるのはその先輩のお陰だと思っている。

 そのM先輩の同じ学部の仲良しに、野球部の人がいて、時々私たちの練習場にくることがあった。

 気さくな関西なまりの人だった。

 わたしは最初、ただの野球部くずれの恰幅のいい先輩程度にしか見ていなかった。

 ある日、M先輩が、その野球部の先輩を詳しく紹介してくれたことがあった。

 本人を前に、こいつはこう見えて、PL学園の野球部出身でさあ、桑田が1年の時のキャッチャーだったんだよ、と紹介してくださった。

 控えではあったそうだが、正捕手の怪我で、出番があり、しかもホームランも打っていた。

 何より、甲子園で優勝しているのである。

 そんな人を目の前にして、私はそんなに盛り上がらなかったのである。

 最近になって、当時のこと振り返ってみた。

 ジュンク堂書店で分厚い高校野球史をくまなく探し、とうとうその先輩の情報を見つけたのである。

 PLで活躍した、しかも優勝したメンバーであることが今頃になって熱く感じ始め、なぜ、あのときもっと話をしなかったのかと悔やんでいた。

 それ以前の、池田高校の畠山投手、名電の工藤投手、そして、このブログでも紹介している宇部商の秋村投手のことはよく覚えている。

 なのに、なぜ・・・。

 実は、他のスポーツもそうだった。

 私は、自分のやっていたスポーツにしか視界がなかったのである。

 だから、ボクシングのことは誰よりも詳しく、マニアックだった。

 しかし、高校野球はそこまで観ていなかったことをジワジワと思い出してきた。

 あれだけ、話題になった清原、桑田のドラフト会議も、ニュースで見て知る程度だった。

 ぽかんと空いた情報のない青春時代。

 そういえば、早朝から夜まで練習に励んでいた。

 当時は、おニャン子クラブが大人気だったが、その話題にはまったくついて行かれなかった。

 そんな私に、あるとき、仲の良い友達が、菊池桃子、知ってる・・・?と聞いてきた。

 私は、菊池桃子の顔も名前も知らなかった。

 今思えば、それほどまでに、何かに夢中になれたことに感謝している。

 わたしも、アスリートの真似ごとをし、いつしか、甲子園で優勝するような人たちと同じ大学の体育会でスポーツをしているとは、そのころは夢にも思っていなかった。

 広島カープの野村監督が一つ上の先輩で、大学の体育会年間最優秀選手に選ばれていた。

 嬉しいことに、その翌年は私たちボクシング部のチームメイトが年間最優秀選手に選ばれた。

 彼は、1学年下のK君で、その後にはバルセロナオリンピックのアジア予選までいったのである。

 ロンドンでは、うんと若い後輩の清水聡君がメダリストになった。

 彼をずっと育ててきた指導者が、こんな私を大学にすくい上げてくださった。

 今回の夏の甲子園。

 優勝した大阪桐蔭は秋の大会でコールド負けをしている。

 もともと、強いチームなどない。

 そこまでいくには、計り知れない努力があるからだろう。

 そして、その努力の結集が、最高のチームワークによって醸されているのだろう。

 やっぱり、野球は素晴らしい。

 この秋、息子も、地域の野球チームに入る。

 野球の裾野で、小さな感動を積み上げて欲しい。

 そして、いつの日か、人生を彩る何かを見つけて欲しい。

 私は、夏の甲子園に青春時代の余熱を感じ、そこから、生きる力をいただいている。

 この夏輝いていたすべての高校球児たちに“ありがとう”と伝えたい。

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by ikenosai | 2014-08-26 11:12 | のぼーる(野球) | Comments(0)

小さな夏休み

 今日は終戦記念日。

 こんな平和な時代をまずは感謝だと思う。

 慌ただしい日々の中に、ぽっかりと穴をあけたような日にしたいと思い、息子と二人で奥多摩へ。

 いいところがコンパクトに一駅に詰まったところへと思い、沢井駅へ。

 御獄より手前で近いところ、立川から出発して、青梅で乗り換えても1時間以内で行ける避暑地には申し分のない場所。

 駅から坂を下りて青梅街道へ、江戸時代から3百年も続く名主(なぬし)の家を代々守っている古民家、福島家を訪れると、本来なら訪問者を家には上げていないとのこと。

 それでも、今日は特別にと、どんどん勧められるうちに、偉い方をお通しする特別な玄関から上がらせていただいて、各部屋へ。

 当時の御触書など貴重な資料を交え、案内していただいた。

 翌年には屋根の吹きかえで、1年くらいかかり、2年後には新しい屋根になるとのこと。

 ご先祖由来の家屋を守り、引き継ぐには、やはり覚悟がいるとのこと。

 それだけでも、あの世で、先祖の精霊たちがさぞ、お喜びだろうと、思わず手を合わせてしまった。

 じっくり、話を聞かせていただき、お礼を言ってその場を後にした。

 さらに坂を下ると、造り酒屋がやっている店が清流わきにあり、そこで地ビールとともにおでんや煮込みをつまみに。

 息子は大喜びでラムネを飲み、川縁にのりだした長い椅子からせせらぎを眺めながらのひととき。

 昼前だったこともあり、特等席に座らせていただき、のんびり過ごした。


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 昼が過ぎ、来客が多くなってきた。

 沢までおりて、冷たい流れに足を浸して、夏の炎天下で見つけた最高の安らぎの場に感謝しつつ、息子とともに和んでいた。

 対岸の寺に参り、川辺のハイキングコースを御獄方面に。

 ミンミンゼミの鳴き声と多摩川の瀬音が融合し、さらには久しぶりに見る山と渓流の景色が私の心に一夏の思い出を刻んでいるよな嬉しい一日になっていた。

 日々の忙しさにあって、観光地はそうそうは選べない。

 しかし、すぐ来られて、すぐ帰られるこんな場所は他にはない。

 来ている人たちが沢山いて、店に行けば軽井沢、沢に行けば黒部峡谷のような錯覚に陥る、そんな不思議な一日だった。

 沢井からハイキングコースを通って御嶽までの小さな散歩道。

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 息子と過ごしたほんのひととき。

 また来たい、秋は、紅葉が美しいだろうと今から楽しみにしている。

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by ikenosai | 2014-08-15 21:04 | 子育て 一期一会 | Comments(1)

あと一勝・・・

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 今日から、夏の甲子園が始まる。

 台風の影響で二日遅れでの開幕。

 テレビで、地区予選の決勝で敗れたチームを特集していた。

 思いおこせば、私の母校、作陽高校も、決勝で敗れたことがあった。

 初めて、決勝に出た年のエースはその後、プロ野球からのスカウトもあった。

 感心するのは、私の従兄弟で、中学、高校と補欠ながらも、高校球児を続けていたK君のことである。

 私のように、意識的にスタンドプレーしかしてこなかった小さな人間にとって、チームの土台となって支え続けていた彼の存在に今では尊敬の眼差しをおくっている。

 ただただ、野球が好きで野球部にいたK君から、聞いた当時の話を思い出していた。

 初めて強いと言えるチームで、彼はベンチ入りを果たしている。

 これは、何よりも、努力の賜(たまもの)である。

 強かったチームゆえに、練習試合ではPL学園とも戦っている。

 当時のPL学園には、清原和博さんの弟がいたそうである。

 嬉しそうに「清原の弟がいた・・」と話していた。

 強いチームゆえの忙しさ、勝ち進むごとに当時は60キロ以上も先の地に早朝から出かけ、勝ち進んでいった。

 ベンチでの応援、仲間を信じ、ひたすら祈って見守っていたK君。

 やさしい、たくましい精神の礎(いしずえ)はこのころ育んできたことが大きく影響していると思う。

 彼を見るたびに、そんな思いが湧き上がってくる。

 私も見習わなければと、年下の彼に、学び、励まされている。

 彼が高校3年生のとき、甲子園に行けるかもしれない・・・。

 その言葉に、どれだけの希望をいただいたことか。

 しかも、私の母校、作陽高校。

 それでも、甲子園は遠いままで、いまも夢の、また夢である。

 岡山県で甲子園に行く高校は、未だに県南の地域のみ。

 あの鳥取県との境にある奈義町出身の名選手、大杉勝男ですら、県南の高校に野球留学している。

 それが今回出場の関西(かんぜい)高校である。

 県北の夢、津山の夢、いつか県北からの初の甲子園出場に今も見果てぬ夢を抱いている。

 私はやっぱり野球が大好きなんだと思い、開会式を観ている。

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                        いけのさい 作(陶芸)



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by ikenosai | 2014-08-11 09:53 | のぼーる(野球) | Comments(0)

“119104”にこめて①

 わたしたち、この収容所に最後まで残ったほんのひと握りの者たちが、あの最後の数時間、「運命」がまたしてもわたしたちをもてあそんだことを知ったのは、人間が下す決定など、とりわけ生死にかかわる決定など、どんなに信頼のおけないものかを知ったのは、それから数週間もたってからだった。


 あの夜、トラックの荷台で自由への道をひた走っていると錯覚した仲間たちのことを思うと、またしてもテヘランの死神の昔話を思い出す。


 というのは数週間後、わたしは数枚の写真を見せられたのだが、それはわたしがいた収容所からそう遠くない、わたしの患者たちが移送されていった小規模収容所で撮られたものだった。


 患者たちはそこで棟に閉じこめられ、火を放たれたのだ。写真は半ば炭化した死体の山を示していた。 (ビクトール・E・フランクル「夜と霧」より)

     

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                    いけのさい 作(刺繍)




 収容所に送られた初日、最初の選抜で分けられた自分とは別のグループがどこに行ったのか同僚に尋ねる場面が強烈なインパクトを与えている。


 もう一つのグループは煙突からもくもくと天に昇って行ったのである。


 初日の洗礼で生きた心地がしなかったことだろう。


 しかし、それから幾多もの修羅場をくぐり抜けて行く。


 フランクルがどれほどの低い確率で生きながらえたことかと、この事実に驚くことだろう。


 どんなに強運でどんなに信仰が深くてもここまでの確率で生きのびるのには何か特別な力でも授かっていない限り不可能ではないかと思う。


 それでもあの連続する最悪の事態を何度も乗り越えたフランクルには何か特別な使命があったのだと思う。


 そして、この劣悪な環境の中でフランクルが見せた仙人のような心と周囲へのまなざしはただただ感動せずにはいられない。


 それは人間が本来持っている精神の自由に他ならない。


 また、フランクルにはいつ死んでもいい、潔く正しく生き尽くすという覚悟と信念があったのだと思う。


 悔いのない人生はまず、覚悟から始まるのではないだろうか。


 私たちは日々の暮らしの中で覚悟して生きていくことが大切である。


 その他にもう一つ、身近な人を大切にしていることが伝わってくる。


 著書の中では妻を本当に愛し、大切に思っていること、妻に感謝していることが分かる。


 妻だけでなく周りの人への思いやりが伝わってくる。


 フランクルが伝えるもの、それは周囲への愛、信じて覚悟すること、そして、最後の最後まで希望を持つことだったと思う。


 フランクルは収容所の中で絶えず希望を持っていた。


 そして、ここでの暮らしをいつかみんなに伝えようと強く思い、イメージをしていた。


 それが生きのびる希望だった。


 また、収容所で生きのびた人の特徴は、配給された食糧をもまずは他人からと譲れるような慈悲深さと謙虚な心だった。


 そして、そのような人が最後まで生きのびているという事実を「夜と霧」は後世に伝えている。




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by ikenosai | 2014-08-08 15:48 | “119104”にこめて | Comments(0)