いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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<   2013年 05月 ( 2 )   > この月の画像一覧


花嫁さん

 明日は5月の第2日曜日、母の日ですね!
 僕の大切なお母さんのお話をぜひ、ご覧ください。



 これは僕のお母さんの話です。
 生まれ育った南国の漁村から瀬戸内海を渡り日本海側の浜田漁港にひっこしてきました。最初は近所のかんづめ工場で働いていましたが、大阪のしんせきの店を手伝うため家族のもとをはなれ、ひとり大阪にいきました。大阪の店にはたくさんのお客さんがきていて、親しい人もでき、街にもすっかりなれていました。

 正月を二日後にむかえたある夜、お店によくくる男の人がやってきて、明日いなかに帰るんだが、できればあなたをつれていなかに帰りたいと話したのです。それが花嫁さんになるお母さんへのお父さんからのプロポーズの言葉でした。花嫁さんは迷うことなく次の日荷物をまとめて、汽車に乗って僕のいなかにやってきました。おおみそかの夜、とつぜん花嫁がやってきて、みんなはびっくりしました。花嫁さんはもっとびっくりしました。いなかには、三番目と四番目の弟、二人の妹がいる大家族だったのです。代々続く家だったので、一族が集まるいそがしい家でした。えらいところにお嫁にきたと思ったことでしょう。

 一年ほどしてお姉ちゃんが生まれ、それから一年半して僕が生まれました。がんこなおじいちゃんやわがままなおばあちゃんにもまけずにがんばっていましたが、たえられなくなったある日、お姉ちゃんと僕をつれて、いくあてもなく家出をしたことがありました。それでも僕たちの幸せを考えてくれた花嫁さんは覚悟をきめて、お父さんの待ついなかにもどったのです。なれない土地でたいへんでした。それでもその土地になれようと一生懸命生きました。

 僕が幼稚園のとき、がんこなおじいちゃんが病気でなくなりました。
わんぱくでいたずらばかりしていた僕はいつもみんなにめいわくをかけていました。あやまりにいくのはいつも花嫁さん。

 中学生になった僕は、不良になり、先生にも、近所の人にも迷惑をかけていました。あやまりにいくのはやっぱり花嫁さんです。「息子がご迷惑をかけてすんません。」といつも頭をさげてばかりでした。

 僕が中学二年生のときおばあさんが寝たきりになってしまい、そこから介護の生活が三年間続きました。来る日も来る日もおばあさんのお世話です。ご飯を食べさせて、体をきれいにふいてあげます。とこずれやオムツかぶれがあると、どくだみの葉っぱをかわかし、それをにだしたお湯を体に塗ってあげました。

 おばあさんは花嫁さんに文句ばかり言っています。嫁は信用できないと言われても、いつもやさしくお世話しました。あいまを見て家々の電気メーターを見る仕事をして家計を支えていました。おばあさんが死ぬ少し前、おばあさんがわがままばかり言うもんで、花嫁さんはとうとうおばあさんと言葉でけんかをしてしまいました。僕から見るとおばあさんが悪かったと思います。それでもなくなる直前でなかなおりしました。夏の終わりの暑い日でした。

 おばあさんがなくなった数日後は花嫁さんの四十一歳の誕生日でした。お姉ちゃんとお金を出し合ってケーキを買ってささやかにお祝いをしました。
 
 僕が高校を卒業するころ、花嫁さんはヤクルトの配達のお仕事を始めました。僕の小学校の学区内でした。一軒一軒にヤクルトはいりませんかと売りにいきました。僕となかよしだった子の家はすぐに買ってくれましたが、僕となかが悪かった子の家は、やっぱり買ってくれませんでした。

 配達で地域の情報を知り、僕によく話してくれました。僕が東京の大学に行ってからもずっとヤクルトを配っていました。地域ではヤクルトさんと言われていました。山あいに住む一人暮らしのおじいさんやおばあさんの家にもヤクルトを配達しました。三輪のバイクで毎日毎日配達にいきました。そのうちいろいろな人の悩みや相談を聴くようになりました。みんな花嫁さんが来るのを楽しみにしていました。
 
 いつも買ってくれていたおじいさんやおばあさんがなくなると香典をもって葬式にいきました。

 僕がいなかに帰省していたとき、家の近くの駅まで花嫁さんが見送りにきました。たまたま居合わせたおばあさんが「あんた、ヤクルトさんの息子さん?」とたずねてきました。僕が返事をすると「いつもお世話になっとります。」と花嫁さんに親切にしてもらっていることを話してくれました。僕は嬉しかった。花嫁さんがみんなに好かれていて。花嫁さんはみんなに親切にして、みんなからたよられていました。

 おじいさんの弟が寝たきりになったときもお世話になる老人ホームが見つかるまで家で介護をしました。お父さんより18歳も若い弟が病気でなくなったときも、花嫁さんはなくなる間際までお世話をしました。
 
 花嫁さんが僕の家にきてからたくさんの人がなくなりました。花嫁さんはいつもみんなのいる仏壇に手を合わせ、ご飯や水をおそなえし、線香をたき「なんまんだ、なんまんだ・・・」ととなえます。

 お嫁にきてからもうすぐ50年になります。四国から日本海にうつり住んだ花嫁さんの両親も何年も前になくなりました。もう帰る場所もなくこの岡山の土地で静かに暮らしています。

 僕たちの一族のために花嫁さんは自分の人生をささげて生きています。お父さんの親や兄弟、しんせきを天国におくり、とうとうこの土地の一員になりました。

 花嫁さんがいないとみんなが困ります。お父さんも困ります。しんせきの人たちも困ります。近所の人たちも困ります。長い年月をかけて花嫁さんはこの土地の人になっていったのです。

 花嫁さん、ありがとう、僕の家にお嫁にきてくれて。

 花嫁さん、ありがとう、僕を産んでくれて。

 僕の大切な大切なお母さん・・・、いつも、いつもありがとう。




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by ikenosai | 2013-05-11 02:36 | お父さんお母さん | Comments(0)

小さな後押し(私の後援会長)

 人生には不思議なことがある。

 私が大学1年のとき、当時の後援会長から今、「のり平」で飲んでいるから来なさいと誘われた。

 それが、後援会長との初めての出会いだった。

 使えないと先輩からは言われ、紹介もされていた。

 それでも田舎からきた真面目な学生だと言いながら大切にしてくださった。

 たまの週末、今、すし屋にいるから来なさいとご馳走になることもあった。

 リーグ戦にはいつも、後楽園ホールまで来てくださった。

 君の試合は勝っても負けてもノックアウトでハラハラすると言われ、俺はホモじゃないが君が好きだなあとよく言われた。

 とことん、私の応援をしてくださった。

 奥さんも公認で、家にもよんでいただき、ご馳走になった。

 早稲田大のOBで、たまたま駒沢に住んでいただけなのに歴代の先輩たちを可愛がり、期待すらされなかった私をもご贔屓にしてくださり、卒業後も引退した私の後押しをしてくださっている。

 年賀状もいただいている。

 以前、駒沢大のゲスト講師をしたときは、定年退職されたあと、夫婦でそこの臨時職員をされていて驚いた。

 私の一番苦労していた時代を心から支えてくださった方たちだったと思う。

 当時は、バイト先の社長やパートのおばさんたちからも慈悲を賜り、何とか持ちこたえていた。

 朝、6時半からのバイトは午後2時まで続き、バイト先の社長には生活をもっと楽にと時給をみるみる上げていただき、1年後には全員の先輩を抜いていた。

 4時からは多摩川に行き部活。

 憔悴しきった体に鞭を打つようにして、夜学に通った。

 毎日遅刻して、夜9時半まで授業を受ける。

 その繰り返しだった。

 月曜から土曜日まで続き、日曜日は天国のようだった。

 それでも、若かったのか、骨休めのはずの休日もエキストラのバイトをしたり、友達と遊んだりして過ごしていた。

 そんな私を理解し、応援してくださった人たちへの感謝の気持ちで今はいっぱいである。

 こんな拙い私を支えてくださった人たちをリーグ戦のたびに思い出す。

 連休が明けるとあのあこがれていた後楽園ホールでリーグ戦が始まる。

 私も恩返しに行かなければと今から楽しみにしている・・・。


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by ikenosai | 2013-05-04 06:28 | 思い出のポケット | Comments(0)