いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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自分が変わればすべてが変わる


自分が変われば相手も変わる

心が変われば態度も変わる

態度が変われば行動も変わる

行動が変われば習慣も変わる

習慣が変われば人格が変わる

人格が変われば運命が変わる

運命が変われば人生が変わる
              ヒンズー教の一節より


 何も残せない。

私は自分の人生で残せるものは何もないと分かっている。

どんな生き方であろうと、そうだと分かっている。

やがて、百年が経ち、千年が経てばもう何も残っていないだろう。

土地を持っても、お金を持っても、どんなに財産を持ってもいつかなくなる運命だと分かっている。

なのに、今欲しいもの、必要と感じているものはそんな類(たぐい)のものばかりである。

心を満たそうとするものは、おおかたの煩悩に影響を受け、自分勝手な欲望に囚われすぎている。

あれも欲しい、これも欲しいと目に入るものが何でも欲しくなってしまう。

しかし、ほとんどのものは、少し考えると、そんなに必要でないものばかり。

私の心を満たすものはいったい何なのだろう。

物欲は、やがて限度を超え、メガサイズへと膨らんでいく。

結局は、きりがない。

なのに煩悩はそれを貪ろうと必死なのである。

得られる収入から物欲を満たすにはあまりにも限界がある。

だから私は考えた。

私なりの生き方を。

それは、身近なところでの思い出づくりだった。

娘が、もし、パパが死んだら大好きな本をお供えしてあげるね・・・と言った。

私は、娘と私の本棚にある本を一冊ずつ見ていった。

全てが現世での悩みを解決するための本だった。

生き方について、自己啓発について、子育てについて、教育について・・・等々。

結局、あの世で必要な本は一冊もない。

この世で必要だと感じていた本を使わないでもよい生き方が実は最高の生き方だった。

それは、魂に向き合うことだった。

妻の・・・。

娘の・・・。

息子の・・・。

お互いの両親の・・・。

姉の・・・。

そして、私に関わる身近な人たちすべての・・・。

こんな私にできること・・・。

誠実に向き合い、それぞれの記憶の中に真心のこもった思い出を残すことくらいしかできない。

だから、私は生きる。

いつか行く彼岸で無念を残さぬために・・・。

そして、いつか子々孫々に良き心が芽生えるわずかな種を蒔くために・・・。


 だから、自分が変われば相手も変わる

心が変われば態度も変わる

態度が変われば行動も変わる

行動が変われば習慣も変わる

習慣が変われば人格が変わる

人格が変われば運命が変わる

運命が変われば人生が変わる





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by ikenosai | 2010-10-31 07:18 | 温故知新 | Comments(0)

平成22年 駒澤大学 経済学部 キャリアデザイン  講義記録 ・・・1

 昭和43年(1968)1月18日 岡山県津山市生まれです。

 同郷の有名人は中学の先輩に稲葉浩志さん、高校の後輩にオダギリジョーさん、岸本斉史さんがいます。

 津山市は中国山脈の麓、岡山県の北部に位置する城下町です。
 
 中学の頃は、1年中、釣りをしていて、間違って1mほどのオオサンショウウオを釣ったこともありました。

 生まれたときは、祖父母 両親 叔母 叔父 そして、1つ上の姉の8人が2世帯で住んでいました。

 実家は兼業農家、母は愛媛県南宇和の漁師町の生まれです。

 父は、工事現場で重機の操縦をして収入を得ていました。

 厳しかった祖父は、私が悪いことをするたびに灸(やいと)を据えましたが、私も懲りもせず、悪戯ばかりの毎日でした。

 祖父の厳しいせっかんの影響なのか、小さいころからどもりがひどく、年上の人たちにからかわれていました。

 幼稚園年中の時、祖父が59才で亡くなりました。  

 年長の時、ダンプカーに両足をはねられ、死にそうになり、3ヶ月も入院しました。

 田植えのシーズンに事故に遭ったのですが、秋の運動会のかけっこは、1等賞でした。

 小1の時池で溺れて死にそうになったこともありました。

 4年生からスポーツ少年団に入り、ソフトボールにサッカー、夏は水泳もやりました。

 6年生でキャプテンになり、ソフトボールでは地区優勝し県大会へ。

 あまりの生徒の少なさからお山の大将でしたが、中学ではそうはいきませんでした。

 中学は1学年300人もいました。

 入学して、バレー部に入部しましたが、厳しい先輩にしごかれ、休めば殴られるので、全く行かなくなってしまって、筋金入りの不良になり、ゲームセンターを荒らし回っていました。

 3学期のある日、職員室に行きバレー部を辞めたいと顧問の先生に話すと、その場で3連発、平手で力一杯殴られて顔がはれてしまいました。

 その晩、先生が家にきて、今度は父と一緒に説教されました。

 それでも私は、やめてしまったのです。

 2年の新学期が始まって午前中授業を終えた帰り、3年の不良6人に行き先をふさがれ、万引きを強要されたのです。

 期限は明日まで。

 帰りながら家出することを考えました。

 家出をすれば、明日は学校に行かなくてすむ、ただそれだけのために、家出をすることにしました。

 机に地図をひろげ、海まで直線で見れば50㎞ぐらいだが、道をたどれば70㎞以上はありました。

 午後2時を少し過ぎていました。

 風もなく、ぽかぽかとした春、川を下って海を目指します。

 途中、今は廃線になった片上鉄道の駅を何個も何個も通過しました。

 やがて、川の彼方に、大きな、大きな、平野が見えてきました。

 少しずつ動く、大きな船の灯りも見えました。
 
 海だ、海が見えた、やっと海まで来た。

 そう思いながら、さらに、勢い良く、こぎだしました。

 しかし、ここは海なのかと疑いました。

 水に手を浸し、なめてみました。

 しょっぱい、間違いなく、そこは海でした。

 その地形で児島湾だと分かりました。

 目的の地にたどり着いたことがすごく嬉しかったのです。

 まだ8時前でした。

 私はコンクリートの床に仰向けになったまましばらく眠りました。

 肌寒かったせいか、30分位して目がさめました。

 やはり、ここで眠ることは難しい。

 十分なお金があるわけでもなく不安になってきました。

 みんなのことが気になって、公衆電話を探し、家に電話をかけてしまったのです。

 すぐに父が出ました。

 「お父さんが迎えに行くから、おまえは津山に向かって戻ってこい。たぶん、どっかですれ違うだろう。しっかり注意して見て行くけん、おまえも注意して戻ってこい。」と言いました。

 迷いながら、線路にたどり着きました。

 慎重に通る軽トラックが私の横を通り過ぎたあと、Uターンしてきます。

 父でした。

 父は黙々と私の自転車を荷台に固定しました。

 車の中で父が話し始めました。

 「おまえ、みんなに心配かけたなあ、先生が家に来とるで。」

 私は、事の重大さにやっと気づき始めていました。

 家に着いたとき、家の中には学校の先生達と親戚の叔父さん叔母さん達が地図を広げて待っていました。

 2階には、いとこ達がいて、私は益々居場所を失っていました。

 副担任をしていた先生から今日は、もう寝て、明日学校に行っても大袈裟にしないようにと言われました。

 あとから2台の車が帰ってきました。

 私を探すため、3台の車が3方向に分かれて私を探し、見つけたのが偶然にも父だったのです。

 翌日、私に指示を出した連中の1人が心配そうに、「家出したんか。」と言ってきました。

 それ以来、その不良達からは、何も言われることはありませんでした。

 2年生の夏休み、私は卓球に夢中になっていました。

 毎朝、部活に行き、午後は少年野球の練習に行っていました。

 担任の女の先生から電話があって、翌日職員室に行ったら、京都のお土産に八つ橋をいただきました。

 私は嬉しかったのです。

 それから、先生に迷惑をかけるのはやめました。

 そして、更生し、卓球部で運良くレギュラーになったのです。

 その頃、先生に、あなたは大器晩成だからがんばるのよと言われました。

 その言葉がその後の私の支えになっています。

 私が不良になって以来、母は仕事を辞め、稼ぎの少ない内職をしていました。

 県立の高校でラグビーをやろうと考えていましたが受験に失敗し、サッカーの強い作陽高校に進学します。

 当時からすでに特別進学コースがありましたが、私は勉強を全然していなかったので一番下のクラスでした。(1学年350人で10クラス)

 友達はみんな県立に行ってしまい、私には失望からのスタートでした。

 余剰エネルギーだけはあったようで、そのはけ口が私の課題でした。

 しかし、卓球ぐらいしか自信が無く卓球部に入りました。

 1年の夏、友だちと鳥取砂丘の近くの浦富海岸へサイクリングして2泊のキャンプをしました。

 その後、湯郷温泉のレストランで1日10時間のバイトを2週間ほどし、時給は390円でした。

 初めてのバイトで自転車を買い、サイクリングの日々を送ります。
  
 鳥取砂丘、姫路城、小豆島、岡山港など日帰りで行きました。

 相変わらず部活は卓球部でした。

 サッカー部員の半分くらいが寮生活をしていて、昼食は給食弁当でした。

 しかし、それがあまりにも不評で、最初から手も付けていないのがあり、少しぐらい食べてもばれないだろうと、友だちとこっそり食べてしまったのです。

 それを知った、サッカー部の奴が友だちだけに意地悪をし始めたのです。

 それをやめさせようとしたら、そのサッカー部の私よりふたまわりも大きな奴にボコボコにされてしまったのです。

 1人になって教室にいると、くやしくて涙が溢れ、止まらなくなり、嗚咽の状態でした。

 とても人前には出られないほどひどい泣き顔になっていました。

 情けなくて、情けなくてどうしようもなかったのです。

 そこから、私は強くなって、全国大会に行こうと誓ったのです。

 何をやって全国に行くのか考えました。

 卓球では500分の5、いつも3回戦位で敗退していました。

 以前、地域でお世話になっていた方にボクシングをやっていた人がいたので相談してみました。

 それからトントン拍子でジムに案内され、空き家のジムにボクシング好きのトレーナーだったのでお金は取りませんでした。

 それから、後に辰吉丈一郎のトレーナーをすることになる島田トレーナーの兄に、よくお世話になりました。

 手弁当の人たちによって私は育てていただくこととなるのです。

 練習生は中学生の三谷君とふたりだけ。

 努力さえすれば道は開けるかもしれない、そう思いました。

 三谷君はのちに高校王者、全日本王者、そして、負けましたが2度の世界タイト戦まで行きました。

 今思えば、なんて恵まれていた環境だったかと感謝しています。
 
 しかも、担任の先生が私の顧問になってくださったのです。

 朝、走って、放課後は卓球部、夜はジムで、帰ったらクタクタで寝るだけでした。

 高校最後の試合は夏でした。

 デビューから2連敗だったので、頭を坊主にする覚悟がないのなら試合に出さないとトレーナーから言われ、丸坊主にしました。
 
 結局、同じ相手に3連敗。

 そこそこ強い相手とはいえ、勝つことも知らないまま引退の予定でした。

 家の経済状況を考えると私には就職の道しかなく、青春時代最後の思い出にと、悔いのないよう、夏休みを充実させる計画を立てました。

 夏休みに中国地方を自転車で一周することにし、まず、そのために酒の問屋でバイトして旅費を稼せぎました。

 仲の良かった友だちと二人で、最初は津山から米子を抜け出雲に、そして浜田・萩・山口へ、広島では、駅前で野宿を慣行していたら知らないおじさんが心配して家に泊めてくれました。

 家に行ってビックリ、単身赴任の狭いアパートに布団は1人分、そこに3人で寝ました。

 最終日は憧れの尾道で民宿に泊まり、残金をほとんど使い、翌日家に戻りました。

 本当に楽しかった、もう悔いはない、そう思いました。

10月にはゴムの加工工場に内定、しかし、辞退。

 その後、自衛隊へ進路を変更。

 あまりに狭い自分の進路に悩んでいたときでした。

 11月の下旬 駒澤大から推薦枠がまだひとつ余っているが、受験しないかと、高校に連絡がありました。

 この年、駒澤のボクシング部は新入生の確保が出来ておらず、特に重い階級の選手がひとりもいなかったようです。

 それでも数合わせに誰か入れなければということで無名の私にわずかな可能性をかけて推薦の話がきたのです。

 勝ち星のない、無名の私に推薦の話がくること自体が奇蹟としか言いようがない出来事でした。

 私は、どうしても進学したかった。

 もしかしたらそこに素晴らしい未来が待っているような、そんな大きな希望を持っていました。
     
 泣きながら先生に相談し、その晩、先生が両親を説得しに家まできてくれました。

 その日は、「うん。」と言った父も、翌日になると、「やはり無理だ。」とあきらめるよう言われました。

 私はどうしたら大学に行ってボクシングができるのか、その道を必死で探しました。

 そのためには何でもやってみようと覚悟しました。

 夜学でもいい、昼間働いてもいい、それでも大学に行きたいと思ったのです。

 受験したいと駒澤の関係者に伝えると80㎞も遠方から、本気かどうかの確認と今後のこと、受験のことなどわざわざ説明にいらしてくださったのです。

 その方が、北京オリンピックに出た清水君を育て、今は駒澤のヘッドコーチをされている熊本先輩でした。 
 
 12月に進路を変更し、遅い受験勉強が始まりました。

 経済的な心配をした父でしたが、どうにかしようと懸命でした。

 冬休みは、受験の旅費を稼ぐためバイトもしました。

 卓球部の顧問だった英語の先生が、毎日受験勉強に付き合ってくれて、日本史は自力でやりました。

たった3ヶ月の受験勉強でしたが私なりに懸命に取り組んだのです。

 本当は、自分の運と可能性を試したかったのだと思います。

 運が良かったです、何とか合格して上京しました。

 しかし、何人かの先輩が寮を抜け出し大変なことになっていました。

 合宿所がなくなり、推薦で入った1年生3人だけがアパートで共同生活をしました。

 部員も10人程度で、しかも試合に出たがらない先輩もいて、頼れる先輩は2~3人でした。

 OBの中にも、危機感を感じていた人が何人かいたようです。

 茅ヶ崎に住んでいたOB会長は、毎日仕事の合間をみつけて玉川の練習場に来て、出席状況を確認し、来ていない部員へ連絡をしていました。

 そんな中で同期の1人がやめていきます。
(一番期待されていた関東チャンピオンでしたが、部活をサボりはじめ、とうとう田舎に帰ったのです。)

秋からリーグ戦が始まりました。

 当時はとにかく貧乏な部で、10数万円かかるリーグ戦の参加費は、全員でバイトして分担して、払っていました。

 強化合宿も、夏休みや春休みにバイトして参加費をつくりました。

 初戦の法政戦でいきなりウェルター級。

 小柄な私には、とにかく相手が大きく感じました。

 気後れしてしまい、すぐタオルが入って試合が終わってしまいました。

 第2戦目は東海大でした。

 相手は2年連続高校チャンピオンで、しかも私より4階級も上のミドル級のチャンピオンが減量してのウェルター級です。

 私は、減量どころか増量してもリミットにいきませんでした。

 高校で勝ったこともなく、地区予選で敗退する無名の選手だった私には、千載一遇のチャンスでした。

 とにかく、誰もが、私を哀れに思い、善戦すればそれで良いと思っていたことでしょう。

 しかし、勝負の世界は最後まで分かりません。

 あきらめてはいけないのです。

 覚悟を決めた私は、ゴングと同時に力一杯、得意の左ストレートを打って、そこから連打、連打で猛攻撃したら、60秒間に3回倒して、とうとうレフェリーが試合を止めたのです。

 一発もパンチを受けることなく、僅か1分間で勝負がついたのです。

 しばらく体が震えていました。

 何かの霊がとりついて、私を後押ししたような感覚がして、軽快に強いパンチが、しかも連続で出せたのです。

 苦しかったのは2部残留を決めた第3戦目の日体大戦でした。

 この一戦は、私にとって最も価値のある1勝でした。

 このために、この一戦のために私は駒澤に来たんだと思いました。

 主将の作戦でウェルター(67㎏)からライト(60㎏)の階級に変更したのです。

 実は、一番軽い階級の先輩が根性がなく、欠場となったのです。

 そして、作戦を練り、勝てる可能性の組み合わせにしたのです。

 最上級のウェルターで相手チームに病欠が出て結局、5階級で争うこととなりました。

 3人勝てば何とかなる。

 そう信じてみんなこの一戦にかけたのです。

 作戦の話を聞いた火曜日から土曜日の朝まで、5日間で5㎏以上の減量でした。

 最初は1回の練習で3㎏落とすのですが、その後は脱水症状で、食べ物も水分も極力我慢します。

 計量が終わったら、あれも食べよう、これも食べようとただ計量当日が早く来ることを願いながら、サウナに行ったりして過ごしました。

 試合当日、65㎏以上あった体重が、5㎏以上減って59.7㎏になっていました。

 計量後、水道橋のマックでハンバーガー2個にシェーク、渋谷の地下街でカレーライスを食べ、寮に戻ってからは、先輩の差し入れて下さった仕出し弁当を2個、それからヨーグルト3個、ジュースもたくさん飲んで、もうお腹は満腹になっていました。

 体重を計ると、3㎏も増えていました。

 夕方から後楽園ホールで試合です。

 ウォーミングアップを始めると、最初は元気があって、スピードもあって、シャドーボクシングをしていて、先輩からも、今日は動きが機敏でスピードがあるなといわれましたが、すぐに疲れが出てきて、気分も悪くなってきたのです。

 そして、リングに上がるころはピークでした。

 初回で倒すつもりでブンブン振り回して、ダウンを奪ったのですが、すぐにスタミナが切れて、思うように体が動きません。

 前半は攻勢に出ていましたが後半は劣勢になって私もダウンを奪われました。

 重い鎧を身にまとい、足掻いているようなそんな感じでした。

 そして、判定に。

 みんなの視線がリング上の私に集まっています。

 ここで負ければ、間違いなく入れ替え戦です。

 部員の少ない駒澤は、3部に落ちる最大の危機的状況でした。

 みんな不安そうに必死でリング上の私を見ています。

 私の勝利がコールされて、みんな大喜びでした。

 嬉しかった。

 本当に嬉しかった。

 このときほどみんなの役に立てたと実感したことはなかったのです。

 本当に嬉しかった。

 しかし、苦しさはすでにピークを超えていて、私は急いでトイレに行き、朝から食べていたものを全部吐いてしまいました。

 結局、消化しきれずお腹の中に残っていたのです。

 顔色は真っ青でした。

 リングの上で吐かなくてよかったとつくづく思いました。

 その後の試合で日体大が全敗したので私たちは虎の子の1勝で2部残留を果たすことができました。

 最悪の年だったと今でも思うのですが、何とかして新入生をかき集めた先輩たちの努力の賜物だと今頃になって思うのです。

 その時代だったからこそ、弱い私にも、活躍の場がいただけたのだと思います。

 今だったら、間違いなく補欠です。

 いや、まず推薦の話がないでしょう。

 今は、部員が30人以上ですから。

 少数ながら一丸となって乗り越えたことを今でも誇りにしています。

 2年から三軒茶屋の牛丼屋で7年ほど働きました。

 この時期から、バイトの収入が安定して、仕送りはもらってません。

 当時は、朝6時半から午後2時まで働いて、そのあと部活へ。

 早寝早起きに徹し、リーグ戦中は5時に起きて学芸大学駅まで往復4㎞弱をジョギングし、バイトへ行っていました。

せめて、そのくらいはしないと体力的に不安でした。

 試合のある土曜日も、朝の計量後、バイトへ行き、2時まで仕事をして、試合に出ていました。

 そういえば、途方に暮れてしまったことがありました。

 2年から寮を出て国道246と環7の交わる上馬に住んでいました。

 試合当日、朝の計量で8時に後楽園ホール集合なのに目が覚めたのは7時40分でした。

 電車で行くと少なくとも40分はかかります。

 一瞬にして終わったとあきらめそうになりました。

 が、しかし、何か方法はないものかと、すぐに財布を持ち国道246でタクシーを捕まえて後楽園まで、車中で運転手に一抹を話すと同情してくれたのか、必死で目的地へ向かい、8時丁度に後楽橋の下に。

 降りる直前、運転手から、「私も昔、ボクシングを頑張った時期があった。4回戦ボーイで終わったけど・・・今日の試合頑張ってね・・・」と激励の言葉までもらったのです。

 走って控え室に向かうと私の補欠になっている先輩が青ざめて、おめー坊主にするぞ・・・と怒っていました。

 その日の相手は前年の高校チャンピオンで、当時、話題になっていたピストン堀口の孫でした。

 残念ながら、試合には負けました。

 勝つ予定だった次の試合では試合中に鼓膜が破れ記憶喪失になり、気がついたら負けていました。

 それでも本能で戦っていたらしいです。

 どんなにつらく、厳しい状況がきても、このころのことを思い出すと、何でも乗り越えられる気がします。

 そのくらい一番苦労した時期で、逆に強くなれた時期でした。

 最悪の3年目、学業がおろさかになり、もう1回2年生をやることになりました。

 しかし、ポジティブに考えました。

 1年余分にいくことで教科に余裕がでて、あきらめていた教職科目を履修することにしました。

 しかし、手続きの期限が1年時の終わりになっていたので、受け付けてもらえなかったのです。

 それでも相談し、お願いをしてみると、作文の課題が出て、意気込みを800字の作文にし、翌日提出し、履修できることになりました。

 4年目、実はまだ3年生、夏までにリーグ戦が終わり、引退しました。

 最後の試合は逆転KO勝ちでした。

 スッキリしました、これでやっと引退だと思いました。

 4年間でリーグ戦全試合出場し、後楽園ホールで9勝11敗
 大学での全成績は 30戦 15勝 15敗(KO率60%)
 全日本ベスト16、国体中国地区大会(岡山・広島・島根・鳥取・山口)で個人優勝したことぐらいしか記録はありません。

 ありがたいことにリーグ戦は1年生から全試合に出場させていただきました。

 今の駒澤は1部リーグで安定していますから、本当に強いです。

 しかも、OBには北京オリンピックに出た清水君もいます。

 駒大ボクシング部の歴史が流れている中でわずかなひとしずくほどの小さな私ですが、その中の一部であったことに今は感謝しています。

 バイト先の社長より、引退して時間があるなら店長をやらないかと言われ・・・ 月給35万円で契約しました。

 それ以来、未だにそれ以上の給料はもらっていないのです。

 24才のとき、貴重な経験をしました。

 韓国ソウルにフランチャイズ店がオープンしました。

 私は技術指導で合計1ヶ月間滞在しました。

 前半2週間で、向こう側の通訳が社長と喧嘩して辞めて、後半2週間は通訳なしでした。

 お陰様でハングルが読めるようになっていました。

いよいよ、田舎に帰ろうと思い始めていました。

 自分に合わない仕事をしながら充実感のない毎日を、そろそろ終わらせないといけない、そう思い始めていました。

 唯一の楽しみは、毎日入金に行く銀行の窓口の愛想のいい女の子に会うことぐらいでした。

 本気で就職するため田舎に帰り、高校時代の先生の紹介で福祉の仕事をしました。

 なかなか教職への突破口が見つからず、父の知り合いの市議会議員に頼むと、取り合えず、議長室に来なさいといわれ、教育長を紹介され、ビックリしました。

 その教育長は、私を3連発平手で殴ったバレー部の顧問の先生でした。

 先生の最初の一言が、「よう覚えとる。」それから、2週間ほどで産休代替の講師の話がきました。

 勤め先が決まり、中学の時の担任の八つ橋をくださった先生に電話したら、前年までそこの中学にいたらしく、残念そうでした。

 中学校の仕事は楽しかったのですが期限が来ました。

 学校では何人かの生徒たちが小遣いを出し合って花束をくれました。(手を焼いた素行の悪い子たちが中心でした)

 あの日の感動は今でも大切な宝物です。

 両親を説得し、姉夫婦に全てをお願いし、上京することにしました。







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by ikenosai | 2010-10-13 10:31 | 駒澤大キャリア・デザイン | Comments(0)

平成22年 駒澤大学 経済学部 キャリア・デザイン  講義記録・・・2

 私は思いこんだら、一途なバカです。

 結婚したくてどうしてもあきらめきれずにいた人がいました。

 彼女は、入金に行っていた銀行の窓口の人でした。

 上京し、その後、福祉の仕事を見つけて就職します。

 目の不自由な人が対象の施設で、陶芸(焼き物)の指導員をしました。

 そして、あきらめなかった私は、その彼女と結婚しました。 

 長女が生まれて、いよいよ忙しくなっていきました。

 生活指導にセクションが変わり、不規則勤務などに悩み、退職することにしました。

 その次の仕事が不登校やひきこもりなどで悩んでいる生徒が通う学校の先生でした。

 そこでの経験が私自身の人生を根本的に変えました。

 それは子育ての根本を変え、私自身の生き方までも変えました。

 子育ては、実は学生のみなさんのころからすでに始まっているのです。

 まだ見ぬ結婚相手と子どものために今から準備しておいてはと思い、今日はその大切なお話をさせていただきます。

 2000年11月15日 最初の子が鉗子分娩で誕生しました。

 最新の医療機器とマタニティー講座などを準備していて、新しい出産はこうだ、と提唱しているような産婦人科でした。

 産後は高級ホテルのような個室で、赤ちゃんとは別の部屋。

 食事はフランス料理に、有名店のケーキです。

 最新の設備で驚くばかりでしたが、精神面でのドクターのケアが彼女には合っていなかったようです。

 それでも、そのような出産を望み、病院を選ぶ人にはそれが一番なのだろうと思います。

 しかし、彼女は、これは自分の望んだ出産のスタイルではないと話し、理想の出産について研究し、次の子の出産は近くの助産院にしました。

 私も赤ちゃん誕生のメカニズムについて学びました。

 大きな宇宙の中に人間という小宇宙が存在します。

 たとえば、満月の夜、はかりでは量ることのできないくらいの月の引力が地球に作用し、私たち小宇宙にも作用しています。

 心の不安や違和感は、そんな小さな引力にも反応します。

 月の見えない新月にも同じようなことが起こり、動物の産卵時期も影響を受けるようです。

 実は人間も月の満ち欠けに影響して生まれてくるのです。

 本来、それが自然なのです。

 次の子を妊娠した彼女は粗食にして食べ過ぎず、適度な運動は家事の中などに取り入れてやっていました。

 そして、私も、安心できるようにとなるべく早く帰宅し、家族団らんを心がけました。

 いよいよ、出産の日がきました。

 陣痛が始まって、彼女が陣痛の周期をはかり始めました。

 助産院に電話し、入院の準備を始めました。

 着いてからも、まだ余裕があったようで、私は家に足りないものをとりに帰りました。

 再び助産院に着くと「ご主人、代わっていただけますか?」 といわれ、背後で脇から手を入れて彼女を抱え上げました。

 次第に息んでいく様子がはっきりと私の意識の中に入ってきました。

 力尽きながらも、私も耐えて、彼女を抱えています。

 2時間ほどたったのかな?

 助産師さんが言います。

 「頭が出てきたよ、ほら・・・」しかし、そこから、なかなか出てこられない様子でした。

 赤ちゃんは、頬に手をくっつけたままそこで止まっていました。

 しばらくして、そのままの姿勢で出てきたのです。

 肘まで出てきたら、あとはつるんと出てきました。

 「坊やよ・・・」助産師さんの言葉でおちんちんを確認して、赤ちゃんを抱き抱えて彼女に見せました。

 仰向けになって休む彼女をみんなでよく頑張ったねと褒めました。

 うれしそうに、みんなの名前を呼びながら「ありがとう、ありがとう。」と彼女が答えました。

 しばらくして、後産の胎盤も出てきました。

 私は臍の緒を切らせてもらいました。

 女性は凄いと思いました。

 これが女性の力なんだ、宇宙の力なんだと感動していました。

 そして、赤ちゃんは自分の力でこの日を選んで生まれてきたのだと思いました。

 皆さんはいずれ、親となり子育てをし、教育をしていくことになるでしょう。

 なので、今話していることはよく覚えておいていただきたいのです。

 まず、私たちの命の誕生は奇蹟的な出来事なのです。

 宇宙は今からおよそ137億年前に極微の1点が大爆発をして始まったそうです。

 このビッグバンの直後に生じた水素原子は今も生き物の中に残っています。

 最初の生物から38億年、両親が子どもをつくる営みを始めてから9億年、ヒトは目覚ましい進化を遂げ、環境の変化にも適応してきました。

 約3千万種の多種多様な生物が地球上には存在しています。

 生物誕生から伝承してきた命のリレーを考えると、私たちの年齢は38億歳と同じなのです。

 そして、ひとりひとりの遺伝子暗号は選ばれていて、これは偶然ではなく、私たちが選ばれて生まれてくる確率は、宝くじに100万回連続で当たり続けるより凄いことなのです。

 両親の染色体の組み合わせにより生まれてくる可能性は70兆通りにも達し、70兆分の1の存在が皆さんひとりひとりであり、これは地球上の人口65億人の1万倍以上、つまり、地球1万個分の人口よりも多いことになるのです。

 そして、おおよそ半々ずつの男女が見事に生まれてきていて、男女の役割に違いはありますが価値は平等なのです。

 生命科学はもの凄い進歩を遂げました。

 しかし、世界中の科学者を総動員して、世界中のお金を使っても、木の葉1枚、細胞1つを元からつくることができないのです。

 それは生き物を動かしている本当の原動力とは何かということが未だに解っていないからなのです。

 1つの細胞がどうして生きているのかについての根本原理を専門家ですら全く解っていないのです。

 細胞や臓器は争うことなく助け合いながら個体を生かす働きをしています。

 それは、自律神経の働きとして説明できますが、自立神経を動かしているものが何であるのかが解っていないのです。

人の力だけでは子どもはつくれないのです。

 親は受精卵をつくるのに少しだけ協力し、あとは栄養とできる限りの愛情を注いでいるだけなのです。

 1個の受精卵からわずか38週間で数十兆個もの細胞からなる赤ちゃんが誕生します。

 しかし、そのプログラムを書いたのは人間ではないのです。

 ヒトの身体には宇宙の進化の歴史が凝縮されているのです。

 どんな人も全宇宙を背負って生きているということになるのです。命は自分だけのものではないのです。

 そういう意味で命は尊いのです。

 命を壊すのは簡単ですが、一度壊したら二度とつくれないのです。

 命を粗末にするということは、大自然がつくり上げてきた最高傑作を無駄にすることになるのです。

 この世に生まれてきたことは途方もない奇跡的な出来事なのです。

 生きていることだけでも有り難く素晴らしいことなのです。

 だから、自分の命を粗末にすることも、他人の命を粗末にすることも絶対にしてはいけないのです。

 私たちは自分の力で生きているように思いがちですが、自分の力だけで生きている人なんて地球上にひとりもいないのです。

 太陽・水・空気・動物・植物・地球・・・等々、他にも目に見えない大自然の偉大な力のお陰で生かされているのです。

 遺伝子レベルで見ると人はそれぞれ違うのです。

 それは誰もがかけがえのない人間として生まれてきたという意味なのです。

 他人と比較して生きるのではなく、自分の花を咲かせるためにいきていくのです。

 環境と食事が体と心に与える影響、先祖からの遺伝子の影響、そして、親のスキンシップや愛情が子どもの成長に与える影響。

 これをふまえて子育てや教育は行わなければならないのです。

 子ども達の問題への解決はここにヒントがあるようです。

 例えば赤ちゃんについて

 本来、女性は乳を分泌して赤ちゃんを育てます。

 母親の普段の食事は赤ちゃんの成長に影響します。

 以前、うちの奥さんがオロナミンCを飲みました。

 そのときまだ授乳をしていました。

 息子のオムツを替えてビックリしました。

 おしっこがオロナミンCの色と同じ真っ黄色なんです。

 タバコを吸ったり、お酒を飲んでいたらと思うと恐ろしいことだと思いました。

 だから、妊婦さんにストレスを与えてはいけないのです。

 お父さんのフォロー、家族のフォローが必要なのです。

 乳というのが非常に重要な意味を持ってきます。

 それぞれの動物はそれぞれの遺伝子を持っていますから、それぞれの遺伝子から出て来る乳というのは1種類1種類全部違うのです。

 牛の赤ちゃんには牛の赤ちゃんに合った牛乳が出て来るし、人の赤ちゃんには人の赤ちゃんに合った乳が出て来るのです。

 しかし、戦後は母乳から粉ミルク中心に変わっていくのです。

 牛の乳はカロリーが高く、タンパク質も人の3倍ぐらいあります。

 だからどんどん大きくなります。

 離乳期の食事にも工夫と配慮が必要です。

 特に、多量に摂る大豆・卵・牛乳は要注意です。

 許容量を超えるとアトピーなどのアレルギーを招くこともあります。

 日本は経済成長以降、父親が子育てに関わることが少なくなっていき、しかも核家族化していきます。

 社会全体がマニュアル化され、楽な子育ての風潮になっていきます。

 その影響は、出産にまでおよんでいきます。

 もし、出産が昔のように自宅だったら、お父さんの声も、お母さんの声も聞ける。お腹のときと同じ家庭の音が聞こえてくるのです。

 しかし、病院だったらどうでしょう。

 先ずお母さんの声しか聞けない。

 もし別室の病院だったらお母さんの声すら聞けない。

 それまで聞いた事もない看護婦さんや医者の声、病院では色々な音もします。

 その時の赤ちゃんの気持ちはどうでしょうか?

 赤ちゃんはしゃべりません、だから配慮が必要なのです。

 そもそも赤ちゃんは産むものじゃなくて、産まれるものなのです。

 子どもがこれから産まれますよーとサインを送ってお母さんがそれを感じて赤ちゃんが産まれて来るのです。(陣痛で知らせるのです)

 しかし、今は病院の都合や親の都合で生まれる日まで勝手に決められることもあるのです。

 お腹の中の赤ちゃんの意思が無視されて仕舞うのです。

 その真理面の葛藤をよく考えてあげないといけないのです。

 なので妊娠期間中は、お父さんもお母さんも赤ちゃんを喜んで迎えてあげられるよう夫婦仲良く、家族楽しく過ごすことが重要なのです。

 昭和40年代から、外で働く女性が増えていきます。

 保育園の需要が増え、赤ちゃんは哺乳びんで飲まされ、ベビーカーに乗せられました。

 抱っこすれば抱き癖がつくと言われ、早めに独り立ちさせようとした人が多数派の世代です。

 母親とのスキンシップがなくなって育った親の感覚が次世代に伝達されていったのです。

 これが今私が問題視する知らず知らずに間違っていった世代間連鎖なのです。

 便利優先の社会は食べ物にも影響していきます。

 “四里四方に病なし”といっていたとおり、昔からの地場のものが実はベストだったのですが、今は貿易摩擦の緩和で自給率が低下し、外国産の季節はずれのものやいくら国産といってもハウスものを知識もなく食べているのです。

 昔、“秋茄子は嫁に食わすな”と言われました。

 夏の野菜である茄子を冷え始めた秋に嫁が食べると身体を冷やし、子どもの授かりにくい体質になり、子宝に恵まれにくくなる心配からそう言われるようになったそうです。

 冷え症は不妊症や生理不順の原因のひとつにもなっています。

 特に冷えは免疫力が低下し、体に色々な悪影響をあたえます。

 最近、低体温の子どもが増えているといわれていますが、どうして増えているのかといいますと。

 まず、寝るのが遅いので朝は眠い、眠いのに無理しているとアクビがよく出て、体温も低くなります。

 その状態だと、朝ご飯はあまり受け付けません。

 それでも食べようとすると、口当たりの良い冷たい飲み物やヨーグルト、ドレッシングたっぷりのサラダなどを食べ、身体を冷やしていくのです。

 脳に大切なエネルギーは炭水化物から安定供給されるブドウ糖です。

 ご飯などでブドウ糖の安定供給ができなくて、思考力が低下したり、アドレナリンの影響でイライラしたりと不安定な精神状態になっていきます。

 そんな子ども達に勉強させようとしても無理です。

 また、暴飲暴食も低体温を引き起こします。

 低体温による免疫力の低下は、身体を病弱にし、よく熱を出したり、寝込んでしまうことが多くなります。

 快活なひきこもりなんていません。

 まず、生活習慣に問題があるのです。

 冷え症は侮れません。

 私もかつて、椎間板ヘルニアとリュウマチに悩まされました。

 食事や冷えの影響で病気になってしまいました。

 今は、元気です。

 冷やさないこと、食事に気を配ることだけで改善しました。

 そういったことを考えてみると、季節感のないものが1年中出まわっている訳です。

 そして、病気になれば、心の面もネガティブになります。

 加えて、動物性のものを多量に摂ることも注意が必要になります。

 幕末の開国以来、食肉の文化が入って来ます。

 終戦後、更にそれが増えて来ます。

 肉を沢山食べてたら瞬発力が付き、体も大きくなります。

 しかし、持久力とか集中力は付かないのです。

 だからトラやライオンを見たらよく分かります。

 よく寝そべっています。

 牛や馬のように長い時間、立っていられないのです。

 授業をしっかりと受けられない姿勢の悪い子どもが増えています。

 そういった子ども達がやがてコンビニの前や電車の床に座るようになるのです。

 立っていられない人々、それくらい食への意識は大事なのです。

 国会中継を見てください。

 まるで大人の学級崩壊です。

 歩きまわったり、ヤジとばしたり、携帯いじったり、おとなしいと思えば、居眠りしてたり。

 日本を動かす連中が教育がなっとらんなんて言っても無理です。

 あんなんじゃあ役に立ちません。

 日本の将来が不安になります。

 国会があの状態では、食文化も教育も崩壊している訳です。

 そうすると何を食べたらよいかというと、長い歴史に基づく、ご飯が食べ物の基本になる訳です。

 2000年前、弥生時代以降は原則として稲作が定着している訳ですから、生粋の日本人なら基本はあくまでもご飯なのです。

 米を増やして、動物性食品を減らすだけでも健康はかなり回復してくるのです。

 巷で売られている食べ物も考えなければならないようです。

 必要以上に味を変え、日持ちするように有害なものを混ぜています。

 便利さだけが優先されていき、面倒なことはしなくなるのです。

 チンして食べる、コンビニで買う、ファミレスで食べるといった食習慣になるのです。

 そんな環境だと、食品添加物はひとりあたり年間1500種類、重さにして24㎏。(1度に食べたら死んじゃいます)

 生鮮野菜や穀物にさえ、農薬や化学肥料、畜産や養殖には抗生物質や抗菌剤が使われています。

 こんなものばかり食べていたら体はおかしくなっていくのです。

 ストレスの多い今の社会にも大きな問題があります。

 忙しすぎて精神的ストレスが続くと、交感神経緊張型になります。

 気の使いすぎは要注意です。

 そういう人が副交感神経優位に変え精神バランスを保つには飲食以外になく、食べ過ぎたり、飲み過ぎたりして食事のコントロールができなくなるのです。

 特に甘いものは要注意です。

 食べ過ぎると臓器も身体も休まりません。

 四六時中疲れてしまい、ストレスが増大していくのです。

 精白された穀物や砂糖で作られるスナック菓子や糖分の多いジュースを毎日のように摂取する習慣で、ストレス社会の中で生きていけばインスリンとアドレナリンの分泌がトラブルを起こしやすくなります。 

 脳に大切なブドウ糖、しかし、バランス良く摂らなければトラブルが起こるのです。

 食べ過ぎる人は、肝臓が休まりません。

 肝臓が疲れたままだと、その機能は低下します。

 ブドウ糖をインスリンで液状化させ、グリコーゲンとして蓄えさせるはずが、その機能が低下すると、腎臓にも影響します。

 腎臓は血液を濾過しなければきれいな血を身体に送れまえん。

 汚い血のまま身体じゅうの細胞に流れていけば、身体はさらに疲れやすくなります。

 結果として、肝機能や腎機能低下の影響で、糖尿病などの病気にもなってしまうのです。

 糖尿病の改善はまず、肝機能を高めるために、肝臓を休ませてあげるところから始めなければなりません。

 つまり、食べ過ぎがよくない、即、ブドウ糖に変わるようなものばかりの食事はもっとよくないのです。

 昔は人工透析をやっている人は、本当に稀でした。

 今ではちょっと大きい駅の周辺では殆ど透析の病院があって、しかも患者が増えています。

 そのくらい偏った食事で腎臓が痛めつけられているのです。

 食文化の影響で急激に変化した事が非常に問題なのです。

 欧米化した食生活は酸性体質になり、あらゆる病気を誘発します。

 生活習慣病の予防は、この体質を中和させたりして、基本は食べ過ぎないことが秘訣のようです。

 しかし、いくら良い物を摂っても、それが血となり、骨となり、肉とならなければ何にもならないのです。

 だから、良く噛んで、楽しく、感謝して食べることが大切なのです。

 普段から口にする物は特に意識が必要です。

 食育とは本来そういったことを教えなければならないのです。

 昔から、“笑う門には福来たる”と言いますが、笑うということは、腹式呼吸。

 腹式呼吸は酸素を血液に送り、体中にきれいな血液の循環を促していき、身体を快活にすることでストレスの解消にもなるのです。

 悩んでも解決できないことはたくさんあるのです。

 相談しても治まらないことばかりなのです。

 だから、笑える環境に身をおくこともお薦めしたいのです。

 笑顔になれば自然と和むものです。

 病院も必要ですが、お笑いライブなどに行ってしっかり笑ってきて欲しいものです。

 今は、共同体を失っていてしかも、父親の関わりが非常に薄いです。

 精神的に成熟したスウェーデンなどでは、父親の帰宅が夜8時以降なんて2%未満です。

 日本は60%以上もあるそうです。

 母親だけが子どもにうるさくなり、過干渉や過保護で大切な愛情の伝達ができなくなっているのです。

 ひどい家では、その逆のほったらかしの場合もあります。

 子どもは大人を模倣しながら成長していくのに、その良い見本となる大人がそばにいないのです。

 確かに会社で働くことは大切ですが、大切な子育ての時期はそのときしかないのです。

 子育てがちゃんとできる職場環境をつくっていくことができれば本当はいいのですが・・・。

 赤ちゃんのときから笑顔で抱っこされ、愛情を感じながら安心して育っていかなければならないのです。

 一家団欒の時間を子どもの時から経験していないと、家族の存在や意味が体に染みついていかないのです。

 これは理屈で解るものではないのです。

 乳幼児期からの生活習慣で両親が多忙で、かつ核家族でなんていってたら、身近な大人との接点が少なく、大人への信頼感や大人になることへのあこがれがなくなってしまうのです。(自立できないのです)

 子育ての最大の目標は、自立させてあげること。

 自立とは、相互依存がしっかりでき、社会人として、上手に生きられるようになることです。

 この自立を促すためには、子どものときから、じっくり話を聞いてあげること、そして、人の話も聞ききれるようになることです。

 つまり、相互理解をして、共存していくことなのです。

 その、基礎が家族との関わりなのです。

 その家族が壊れていたら、外に出ても、上手くいくはずがありません。

 お父さんも、お母さんも、話し上手で、聞き上手にならなくてはいけないのです。

 子どもはそれを模倣し、学んでいくのです。

 夫婦間の問題、おじいちゃんやおばあちゃんの問題、関わる大人の問題は子どもにもの凄く影響するわけです。

 だから、そこを変えていく取り組みが子育てと教育の基礎になるのですが、その部分をあなどっているように私は思うのです。

 すでに、生まれたときから哺乳びんでひとりでミルクを飲んで、幼児向けのテレビやビデオに子守りをしてもらっているのです。

 だから、感情が育たないのです。

 私たち人間が持っている愛情というのは、この時期にしっかりと親から注がれていないと不安定になって歪んでしまうのです。

 夫婦で支え合う、家族で支え合うという相互の理解でいたわり合って乗り越えていくことが、現代においても大きな課題であるようです。

 実は、熟年離婚にならないための鍵はここにあるようです。





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by ikenosai | 2010-10-13 10:28 | 駒澤大キャリア・デザイン | Comments(0)

平成22年 駒澤大学 経済学部 キャリア・デザイン  講義記録・・・3

 ある大学の先生の授業でイギリス人の若夫婦が子どもを作ろうと思い、妊娠し、出産するまでを記録したドキュメンタリーを学生たちに見せて、感想を書いてもらったというお話がありました。

 薬学部だったので女子の方が多かったそうですが、レポートの中身はよく似ていて、ほとんどの女子学生が、あれも知らなかった、これもはじめて気がついたと、妊娠と出産についてさまざまな新知識を得たと書いていたそうです。

 驚いたのは男子学生のレポートでした。

 1割足らずの学生が、母親がどんな思いで自分を産んでくれたか、はじめてしみじみ考えたと書いていましたが、その他大勢の男子学生は、「似たようなビデオを高校の保健の時間に見た。

 特に新しいこともなく、あんなことならもうすでに知っている。」等々の内容だったそうです。

 男性は子どもを産みません、夫婦の思わぬ離間は結婚以前にすでに始まっているのです。

 厚労省の研究所の調査で、日本の普通の家庭では、結婚後15年まで、夫から妻への愛情は横ばいですが、妻から夫への愛情はひたすら右肩下がり、つまり、薄れていくということのようです。

 統計的な分析で、その理由まで解っています。

 「夫が子育てに協力しなかった。」それが理由だそうです。

 右肩下がりで、最後は定年離婚、今ではそれがもっと早まり、子育て中に離婚してしまうのです。

 子育てへの協力とは、料理や洗濯をすることでもなく、おむつ替えをすることでもありません。

 本当に大切なのは女性の“産む性”への理解。

 子どもを産むという大役、そのことに感謝し続け、その気持ちを行為で表すことなのです。

 それに対して、結婚前の若者たちが「そんなことはすでに知っている。」と思いこんで結婚し、その後の子育てに影響を与えてしまうのです。

 しかし、もともと気質の違う人間が同じ屋根の下で生活するのはとても困難です。

 これまで育ってきた環境や生活習慣、生育歴や価値観・・・。

 どれをとっても同じなんてことは、まずないでしょう。

 昔は妻が我慢するだけでした。

 解り合えない夫と一緒にいるくらいならシングルの方がまだましだと正直になったに過ぎません。

 結論としては、妻が夫に何を望んでいるのか、それに答えられるようになることが強く求められる時代になったのだということでしょう。

 しっかり、協力しあって人生を支え合うこと、意識して子育てをしていくことなのです。

 しかし、健全であっても、思春期を経過するときのエネルギーは、ものすごさを持っているものです。

 これを、大人たちがもっと畏れるべきなのです。

 無理矢理に枠にはめ込むのではなく、安心できるような関わり「干渉」ではなく、「関心」といった意識の方が的確だと思います。
    
 幼児期の発達課題については

 「生きている実感」「物や場所による安心感」「人への信頼」「言葉による理解と表現」「対等な友人関係」「生命への畏敬」

 などがあげられ、さらに思春期ではこの6つを客観的に見ながら成長するのです。

 何かが欠けている、自信がない、などで自分の殻に閉じこもってしまう場合もあるのです。

 これが不登校を招き、ひきこもりへとなっていくのです。

 こもった空間では、生きた人間が持つ多面性を理解するのは難しいものです。

 そして、次第に人間とのつながりをなくしてしまう心配も出てきます。

 いつか、自立するといいながらほったらかしていたら、年金の年になってしまうのです。

 今を生ききれる力があれば、10年後も20年後も生きていけます。

 この一瞬、一瞬が積み重なって人生となるのです。

 前向きに生きていれば、未来が拓かれ、希望がみえてくるのです。

 人間はロボットではないのです。

 だから、3分の1は寝て、3分の1は家族や好きな人たちと遊んだり、時にはひとりになる時間もあったりして有意義に過ごすのです。

 そして、3分の1は懸命に働くのです。

 私の今までの人生もそうでした。

 そのとき、そのときに与えられた仕事をしっかりこなす努力をしてきたからこそ、今も仕事ができているのだと思います。

 自分に合う会社を探したいと考える人は多いです。

 しかし、そんな会社はめったにないのです。

 自分がどれだけ会社に合う人材になれるか、なれそうか、それを見極める力をどうか養ってください。

 そして、自分が幸せになれる生き方をじっくり探って下さい。

 私も駒澤への受験を希望したとき、もし、夜学の道がなかったら、その後の道も開かれなかったと思います。

 どうにか希望に近づけて、どうにか生きて行かれる。

 そう思って今まで生きてきました。

 しかし、生活できるだけの収入がなければ、一旦はあきらめるしかないことも覚悟しました。

 しかし、どんなに回り道をしても私はあきらめないで生きていきます。

 人生の中で仕事はとても大きなウエイトを占めています。

 仕事をとおして、他人に喜びを与えたり、信頼されることがやがて自分の人生の喜びとなっていきます。

 それが社会が求める本当の仕事であり、また人としての価値観の持てる仕事につながっていくのです。

 人々の喜びをつくる工夫に智恵を使い、行いの正しい習慣が良い人格者への道を開いていくのだと思います。

 善きことを思い、善き行いをしていくことで運命は良い方向に行くはずです。

 中国の古典に「陰隲録」(いんしつろく)という明の時代にまとめられた書物があります。

 その中で袁了凡(えんりょうぼん)という人のお話があります。

 袁了凡は代々医者の家系に生まれるのですが、早くに父を亡くし、母によって育てられます。

 家業を継ぐため医学の勉強に励んでいた少年のころ、突然、一人の老人が訪ねてきます。

 「私は易学を究めた者だが、天命に従って、易学の神髄を伝えに来た。」と言うのです。

 そして、「お母さんはこの子を医者にしようとお考えかもしれないが、彼はその道をたどりません。時期が来て、科挙(昔、行われていた中国の官僚試験)の試験を受けて、役人となるでしょう。」と言い、何歳で何の試験を受け、何人中何番で合格し、その後、若くして地方の長官になり、たいへんな出世をすること、結婚はするが子どもを授からないこと、53歳でこの世を去ることなど、次々に少年の運命を予告します。

 その後の彼の人生はその予言どおりになっていきます。

 彼が地方の長官になってから、年老いた偉いお坊さんのいる禅寺を訪ね、ともに座禅を組みます。

 それが無念無想のすばらしいものであったため、お坊さんが感心して「一点の曇りもない、すばらしい禅を組まれるが、いったいどこで修行をなされたか」とたずねます。

 彼は修行の経験などないことを伝え、さらに少年のころ出会ったあの易学の老人の話をします。

 「私はその老人の言葉どおりの人生を歩んできました。やがて53歳で死ぬのも、私の運命でしょう。だから、今さら思い悩むこともないのです。」

 しかしそれを聞いたお坊さんは彼に一喝します。

 「若くして悟りの境地を得た人物かと思えば、実は大バカ者であったか。ただ、運命に従順であるのがあなたの人生か?運命は天から授かるものではあるが、決して人の力によって変えられない不動のものではない。善きことを思い、良き行いをしていけば、あなたのこれからの人生は運命を超えて、さらにすばらしい方向へ変わっていくはずだ。」と因果応報の法則を説いたのです。

 彼はその言葉を素直に聞いて、以後、悪いことをなさぬよう心がけ、善行(善き行い)を積んでいきました。

 その結果、できないといわれた子どもにも恵まれ、寿命のほうも予言された年齢をはるかに超えて、天寿をまっとうしたのです。

 因果応報とは、天が決めた運命もおのれの力で変えられる。

 善き思い、善き行いを重ねていけば、そこに因果応報の法則が働いて、私たちは運命に定められた以上の善き人生を生きることが可能になるのです。

 だから誠実に生きること、善きことを思い、善き行いをしていくことだと思います。

 ある塾の先生が、東大など有名一流大と言われる大学に進学した彼らのその後にアンケートをした話があります。

 一流と言われる大学に進学し、一流と言われる企業に就職して、今が幸せですかという質問でした。

 残念なことに、幸せと答えた人の方がはるかに少なかったようです。

 分析の結果、幸せな人と、そうでない人との決定的な違いが明らかになったそうです。

 幸せだと感じている人は、人を喜ばせる職業に就いた人、つまり、世の中のために役立っているという実感がある人でした。

 そして、不幸だと感じている人は、自分だけが喜びたいと思っている人、つまり、自己中心的なわがままな人だったそうです。

 誰かが喜ぶことでそれが自分の喜びへとなっていくのです。

 仕事の基本はそこに凝縮しているのです。

 しかし、世の中の役に立つ仕事とはいえ、やって行かれないこともあります。

 学校の仕事は、経営が厳しく、子育て真っ最中の私は、とても生活していくのが厳しいため、理事長と相談し、退職しました。

 退職後は、ホームヘルパーの養成講座に通い、調理師免許も取りました。

 今年はパンの検定を受け、入り口となる3級に合格しました。

 現在の仕事の中で特にマネジメントの重要性を感じます。

 それぞれの個性を生かすこと。

 言い換えれば、癖を理解することです。

 知的障がいを持つ方々と一緒にパンをつくる中で、私の仕事は、ひとりひとりがどんな適正を持っているかをしっかり捉え、生産活動に繋げていくことです。

 適材適所にあてはめて、協力し合い、生産していきます。

 その中で、それぞれに小さいながらも成功があります。

 例えば、パンが上手く作れて、お客さんが喜んで買ってくれたという結果を理解したとき、もの凄い感動を体験します。

 その積み重ねが、さらに次の成長につながっていきます。

 そして、その人たちの感動は、私にも大きな感動をあたえてくれるのです。

 それぞれに感動があるからこそ、マネジメントは意味をなすのです。

 それは、どの職場環境においても同じだと思います。

 何でも派遣の時代で完成された人材を求める風潮にありますが、本来、人材は育てるもの。

 親がかりで育て、次は学校がかりで育て、最後は会社がかりで育てていくものなのです。

 そこにマネジメントの醍醐味があるのに、その感動を味わわないまま使い捨てにしています。

 みなさんは就職されてやがて先輩や上司になります。

 どうか次の代を育ててください。

 後輩が育つことで、お互いに感動が生まれ、自分も成長します。

 奇跡の生命、38億年の末裔である皆さん・・・!自分自身の細胞に、先祖から授かった遺伝子に言葉をかけて念じてください。

 遺伝子は意識しないかぎり、ほとんど眠っているそうです。

 なので、心をポジティブにして、遺伝子のスイッチをオンにしてください。

 そうすることで、ポテンシャル、つまり、潜在能力が引き出され、開花していくのです。

 そして、どうか正しい意味での価値を確立してください。

 それがみなさんそれぞれの精神的な意味でのアイデンティティの確立になるのです。

 そのアイデンティティをより良くしていくために、ときには心の手入れもしてください。

 自分にしかない、特別な自分の人生のために・・・。

 卒業後の皆さんのご活躍を心より祈っております。

 ご静聴ありがとうございました。








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by ikenosai | 2010-10-13 10:23 | 駒澤大キャリア・デザイン | Comments(0)

「感動があってこそ、マネジメントは意味をなす」・・・Ⅱ

結婚と男女の役割  

 ある大学の先生の授業でイギリス人の若夫婦が子どもを作ろうと思い、妊娠し、出産するまでを記録したドキュメンタリーを学生たちに見せて、感想を書いてもらったというお話がありました。

薬学部だったので女子の方が多かったそうですが、レポートの中身はよく似ていて、ほとんどの女子学生が、あれも知らなかった、これもはじめて気がついたと、妊娠と出産についてさまざまな新知識を得たと書いていたそうです。

驚いたのは男子学生のレポートでした。

1割足らずの学生が、母親がどんな思いで自分を産んでくれたか、はじめてしみじみ考えたと書いていましたが、その他大勢の男子学生は、「似たようなビデオを高校の保健の時間に見た。特に新しいこともなく、あんなことならもうすでに知っている。」等々の内容だったそうです。

男性は子どもを産みません、夫婦の思わぬ離間は結婚以前にすでに始まっているのです。

厚労省の研究所の調査で、日本の普通の家庭では、結婚後15年まで、夫から妻への愛情は横ばいですが、妻から夫への愛情はひたすら右肩下がり、つまり、薄れていくということのようです。

統計的な分析で、その理由まで解っています。

「夫が子育てに協力しなかった。」それが理由だそうです。

右肩下がりで、最後は定年離婚、今ではそれがもっと早まり、子育て中に離婚してしまうのです。

子育てへの協力とは、料理や洗濯をすることでもなく、おむつ替えをすることでもありません。

本当に大切なのは女性の“産む性”への理解。

子どもを産むという大役、そのことに感謝し続け、その気持ちを行為で表すことなのです。

それに対して、結婚前の若者たちが「そんなことはすでに知っている。」と思いこんで結婚し、その後の子育てに影響を与えてしまうのです。

しかし、もともと気質の違う人間が同じ屋根の下で生活するのはとても困難です。

これまで育ってきた環境や生活習慣、生育歴や価値観・・・。

どれをとっても同じなんてことは、まずないでしょう。

そして、これまでの日本の歴史をふまえても、男尊女卑の影響は強く、地方によっては女性は我慢するもの、大和撫子(やまとなでしこ)のようでなければと言われてきました。

まさに弟橘媛(おとたちばなひめ)な訳です。

世の中の平和のために命を犠牲にした日本武尊(やまとたけるのみこと)の妻の話です。

妻の死を悲しんで妻が身を投げた海に向かって“わがつまよ”とつぶやいたそうです。

それが東の方向だったから東を吾妻にちなんで“あずま”と読むようになったそうです。

夫にとってどんなに良い妻でも命を犠牲にしてしまってはお仕舞いなのです。

もう帰らぬ人なのです。

そこまで絶えるべき時代はもう終わっているようです。

だから、離婚が多いのもよく分かります。

昔は妻が我慢するだけでした。

解り合えない夫と一緒にいるくらいならシングルの方がまだましだと正直になったに過ぎません。

結論としては、妻が夫に何を望んでいるのか、それに答えられるようになることが強く求められる時代になったのだということでしょう。


 子育てで大切なのは、家族の“和”です。

決して学力を上げたり、有名大学へ進学させることではないのです。

もちろん、和の中にあって、学力向上や希望するところへの進学ができると本当はもっといいのですが・・・。

子どもは親の思い通りには育ちません。

まずそこに気付くことです。

もっと、もっと寛容なまなざしで見てあげなければ良い方向には進みません。

子育てから、自分(親)の力だけではどうにもならないということを学ぶのです。

親の関わり方や言葉遣い、生き方などに対し、子どもは、映し鏡のように、親の関わりに対する答えを見せてくれるのです。

家族の“和”、特に仲の良い両親の姿は良い大人の見本となるでしょう。
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by ikenosai | 2010-10-09 06:07 | 親の通信簿 | Comments(0)

「感動があってこそ、マネジメントは意味をなす」

人を育てることは自分が育つこと

 スポーツを通しての人間づくりの有効性についてはほとんどの方がご存じだと思います。

特に団体競技には、それぞれの役割に合わせたポジションなどがあり、それぞれの性格や特性を生かすことは非常に重要になります。

また、向き不向きもあり、そこを見極めて適材適所に配置することが本来のマネジメントなのです。

しかし、マネジメントによって感動が得られなければより良く成長することも、充実感を得ることもなく終わってしまい、さらにその先のビジョンは見えてこないのです。

 子どもが生まれてから、授乳もおむつ替えも子どものペースに合わせざるを得なかったことを覚えていることでしょう。

しかし、成長につれ、いつしか自分の思い通りに育てようと子どもの意に反して習い事を勧めたり、無理矢理に何かをさせてしまったということはないでしょうか。

いや、それ以前に、お腹の中にいたときから親の都合ばかりになっていなかったでしょうか?

たとえば、出産においては、自宅や配慮ある助産院などの施設だったら、お父さんの声も、お母さんの声も聞けます。

ずっとお腹の中にいたときと同じ家庭の音が聞こえてきます。

しかし、病院だったら、先ずお母さんの声しか聞こえない。

もし別室の病院だったらお母さんの声すら聞こえない。

そのうえ、聞いた事もない人の声(看護師や医師等)、病院には色々な音もあります。

その時の赤ちゃんの気持ちはどうでしょう?

赤ちゃんはしゃべりません、しゃべらないから、大人が配慮しなければならないのです。

そもそも赤ちゃんは産むじゃなく、“産まれる”なのです。

赤ちゃんがこれから産まれますよーとサインを送ってお母さんがそれをキャッチする(陣痛で知らせるのです)。

しかし、今は病院の都合や親の都合で生まれる日まで勝手に決められることもあるのです。

お腹の中の赤ちゃんの意思や気持ちはどうでしょう。

結局は無視された状態なのです。

その真理面の葛藤をよく考えてみてください。

ものごとがよく分かるようになってきたころ、まあ思春期のころなどに、違和感を感じたり、無意識に反発したりすることもあるのです。

早い子はもっともっと小さい時期に反発します。

不登校というかたちになったり、発達障害や鬱(うつ)などの症状になったりして・・・。

それでもなお、嫌々やらされている環境では、やがて心の負担となり、状況によってはもっと、もっと深刻な鬱の状態を招くのです。

鬱の状態が続くと、将来への希望は見えてきません。

そのような状態の中で進路を決定させるのはとても乱暴なことなのです。

不安から過保護になってしまい、“転ばぬ先の杖”をいつも準備していては失敗から学ぶことも、経験から学ぶこともできないまま成長の時期に成長がないまま時間だけが過ぎていくのです。

そんな状況では、子どもはさておき、親が焦り、その焦りを見て子どもは不安を抱くようになるのです。

しかし、今さら無理だとあきらめないでいただきたいのです。

だからこそ、以前に紹介した“育て直し”を提案しているのです。

それは、仲の良い家族の中にあってこそ実現していくのです。

子どもは小さなときから、兄や姉を模倣し、親を模倣し、大人たちを模倣することで社会性や生活力を身につけていくのです。

やさしい言葉かけや、やさしいまなざしの中で育っていくから、やさしい心が芽生えてくるし、色々なものへの憧れや意欲も芽生えてくるのです。

そして、そのやさしい言葉かけやまなざしをおくることによって実は、親自身が成長し、本当の意味での親となっていくのです。

そこに感動があれば、親の仕事は充実感で満たされるものです。
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by ikenosai | 2010-10-04 05:06 | 親の通信簿 | Comments(0)