いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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終戦のエンペラー
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夏の思い出・・・③


お盆の日に・・・

 18キップで帰った翌日は、やっぱり疲れていた。

なので、墓参りに行ったきりで家でごろごろしていた。

それでも墓参りで、高校時代以来会っていなかった1つ上の元高校球児に会えて20数年ぶりの会話に花が咲いた。

翌日14日には、高校時代の恩師宅を訪問すると、ちょうどキャンプから帰ってきたとのことで、会うことができた。

その中で、ふとお世話になったジムのトレーナーの話題になったとき、恩師から「知らなんだかなあ。」と言われてびっくりした。

トレーナーは昨年2月8日、天に召されていた。

享年57歳だった。

以前から糖尿病が酷く、自分でインスリンを投与するくらいだった。

土曜日の夜、眠りについて、月曜日、練習生の試合当日の朝、ジムのスタッフがいくら電話をかけても出ないので、部屋に行ってみると冷たくなっていたそうである。

布団の中で静かに眠るように亡くなっていたらしい。

翌日、8月15日は海や渓谷へのレジャーは止めて、亡くなったトレーナーの墓参りに行った。

姉と甥と息子の4人でトレーナーの実家を訪問した。

美作土居駅の近くの線路脇に実家があった。

高校時代、自転車でお中元を持って行ったことがあったので何となく覚えていた。

川土手に車を駐めて、踏切のない姫新線の線路を渡った。

実家には、たまたまお盆で帰省されていたお姉様がいらして、これまでの経緯を話して、墓参りにきたことをお伝えした。

お姉様から見るとどうやら独り身でフーテン者だった弟にもここまで手をかけていた人間がいたのかと驚かれ、「弟も喜んでいることじゃろう。」と嬉しそうにお墓を案内してくださった。

そのお墓には、亡くなったトレーナーとその両親が入っていた。

そういえば、私が高校3年生のとき、トレーナーのお母様が末期の癌で入院されていて、トレーナーは美作中央病院で付きっきりだった。

私はパンチングミットとグローブを持って病院を訪れ、屋上で練習を見てもらったことがあった。

お母様が亡くなられ、そのあと、私の高校最後の試合で、まだ1勝もしていない私に、本気で勝つ気があるのかと聞いてきたことがあった。

「本気なら頭を丸めて来い、そうじゃなきゃ出さん。」と言われ、覚悟して坊主にしたことがあった。

その試合でも勝てず、引退することにしていたら、わずかな可能性にかけた大学の関係者から推薦の話がきた。

試合後すぐのことだった。

人生は不思議なご縁に結ばれて、どうなるか分からない。

良きことを思い、良き行いを積み重ねて行くことが大切であることだけは私の体験上、事実であった。

それにしても、あのトレーナーに巡り逢っていなければ、手弁当ながらあきらめず育てていただいていなかったら、私は今、東京にいないだろう。

辰吉のトレーナーだった島田信行氏から赤井英和戦のチケットをいただき、車に乗せてもらって大阪まで観に行ったこともあった。

途中のサービスエリアで夕飯をご馳走になった。

赤井の世界前哨戦で相手はフィリピンの選手だった。

判官贔屓だったトレーナーは青コーナーのフィリピンの選手を必死で応援していた。

また、赤井戦のチケットをいただいたが急用でいけなくなったこともあった。

トレーナーと三谷君だけで観戦に行かれたが、あの試合で赤井は再起不能になって引退をした。

三谷君は小学4年生からボクシングを始め、天才的なセンスを持っていた。

トレーナーは私によく、あの子の練習を見て真似するようにと言っていた。

後に三谷君は、高校チャンピオン、大学時代はずっと全日本チャンピオンだった。

連盟の暴君だった川島五郎のテコ入れでオリンピック出場のチャンスに恵まれなかったが、その後プロに転向し、世界戦ではあのチェ・ヨンスと2回も戦ったがタイトルは奪えなかった。

まさにあの高校時代、私はボクシングに夢中になっていた。

実家には今でもそのころのボクシング雑誌がどっさり本棚に残っている。

「不細工だ、箸にも棒にもかからん。」とトレーナーにはよく言われていた。

そんな私にも秘密兵器があった。

左ストレートがまともに当たると、相手は起きあがってこなかった。

その千載一遇の醍醐味をトレーナーは楽しみにして観ていてくださっていたのだと思う。

こんなつたない私に、よくここまでしてくださったのかと不思議でならない。

大学卒業後、しばらく東京に残っていたが、いよいよ田舎に帰ろうと思い始めたころ、田舎ではトレーナーがジムを開業した。

オープニングセレモニーには島田トレーナーのコネで(故)グレート金山がこけら落としのスパーリングをした。

田舎に帰ってからは、仕事帰りに、ジムによく立ち寄った。

そこから何人もの選手が生まれた。

西日本新人王も出た。

 トレーナーは若かりしころ、中京大学で日本拳法を始め、キックボクシングからボクシングに転向し、ボクシングでは名古屋の松田ジムに所属し、中日本新人王になっている。

ボクシングに魅せられ、ボクシング一途に生きたトレーナーは、私にとってかけがえのない恩人だった。

私の人生が変わっていく最初の入り口で情熱を持ってボクシングの魅力を教えてくださった本物のトレーナーだった。

 それでも、どこかカッパの清作(たこ八郎)に似た人生を送られた感じがする。

 「迷惑かけてありがとう。」そんな言葉がこの方にもピッタリだと思った。

 ありがとう、江見通彦トレーナー。

 心よりご冥福を祈りたい。


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by ikenosai | 2010-08-30 08:16 | 思い出のポケット | Comments(0)

夏の思い出・・・②


 8月17日の晩遅く津山から帰ってきた。

今回の帰省は、娘が18泊19日のキャンプに行っていたため、息子と2人きりだった。

2人だと、車で帰るのは、運転が厳しいかな?と思い、また、新幹線ではもの足りないし、車よりもお金がかかりすぎるとあれこれ考えていた。

そして、たどり着いたのが「青春18きっぷ」と言うことだった。

以前の青春18キップとは変わって、まず5枚つづりではなくなっていて、一枚に5回分のスタンプを押してもらうか同時に5人分までのスタンプを押してもらうかになっている。

とりあえず、11,500円内で往復すれば良いかと軽い気持ちで考えていた。

しかも、1日乗り放題で改札を何度出ても良いので、駅構内に店が無ければ、外に出て食事なども可能。

1日分なんと2,300円。

実際に乗車券を買うと片道10,190円、しかも改札からは出られない。

夏休みと冬休みにだけ発売される特別な切符。

有効期限も大学生の夏休みに合わせているような設定。

ありがたくも、この切符を使ってのんびり帰省することにした。


往路

 朝、5時54分立川発の中央線快速東京行きに乗る予定で、うちの奥さんに車で駅まで送ってもらった。

しかし、改札を通る頃にはすでに電車は発車していたので、一瞬、第2の選択肢を考えていた。

同じ東海道線に乗るにはもう南武線しかない。

川崎までの時間を確認すると、6時6分発で間に合う。

始発から終点までの各駅停車で川崎駅に着いた。

少し時間があったので、早朝からやっていた駅構内のベーカリーでパンを買って東海道線に乗り込んだ。

小田原が終点の電車だったので、熱海行きに乗り換えた。

熱海からは興津行きに乗り換え、発車までに少し時間があったのでホームの売店で助六寿司を買った。

息子はやっとお腹が空き始めたようで、持参した水筒のお茶を飲む飲む、ベーグルをかじっていた。

買っておいた助六寿司も私と半分にして食べた。

電車が発車してしばらく行くと、柿田川の大きな看板が見えた。

きれいな湧き水の写真を見て、息子は春に行った静岡の旅行を思い出した。

熱海から13駅が過ぎ、興津に着いた。

台風の影響でもの凄い豪雨だった。

次は掛川まで、東海道線は長い、トンネルをいくつも越えていく。

トンネルの数を最初は意気込んで数えていた息子も、次第にどうでも良くなってきた様子。

14駅が過ぎ、掛川に到着。

途中の信号機のトラブルで10分近く遅れが出た。

それでも、待ち合わせなどで時間調整をしていたので、2つ先の待ち合わせではロスした時間が解消されていた。

雨あしが段々弱まり、どんよりとした曇になってきた。

一面の茶畑や太平洋を望む車窓を横目に、息子と絵を描いたり、本を読んだりして過ごした。

さらに14駅先の豊橋まで行くため、また乗り換えた。

座席を確保するため、早め早めに並んだ。

お盆前ということもあってか、結構乗客がいたが、運良く全てで座れていた。

1時間前後の乗車で乗り換えるところが多かった。

次の大垣までも1時間とちょっとの乗車だった。

あっという間に12駅が過ぎ、大垣で昼食の調達を試みたが、駅構内に大した店がないので改札を出て駅ビルの中を散策した。

足りないお土産を買い、ドラッグストアでアクエリアスと水を買って、弁当屋を探した。

息子に好きなものを選ばせると、焼き鯖が入ったやつを選んだ。

私は、残ったパンがあるので、ドトールで温かいカフェラテを買って、米原行きの電車に乗り込んだ。

列に並んではいたが、やや乗り遅れてしまって、すでに熟年カップルがいたボックス席に入れさせてもらった。

ペルー人の男性とその彼に同行して奈良を観光する保育士さんと向かい合わせに座った。

息子は嬉しそうに焼き鯖の弁当を食べていた。

不器用に箸を短く持ち、魚の身をほぐしていた。

その他のおかずは全部食べ、魚の骨と半分ほど残したご飯だけになった。

息子は「もう無理だよ父ちゃん。」と言い、私の方へ残りの弁当を渡してきた。

その様子に、向かい席の熟年カップルは互いの顔を見合わせて笑っていた。

次第に会話が始まり、息子も嬉しそうに答えていた。

私も息子の食べ残した弁当を食べながら会話に加わった。

どうやら、10数年日本にいるが、日本語が覚えられないとのこと。

息子の会話を聞いて、「日本語が上手ね。」と笑っていた。

周辺にペルー人がたくさんいて、コロニーをつくっているもんで、全然日本語を使わないらしく、覚えられないまま今に至っているとのこと。

そうこうしているうちに、6駅が過ぎ、あっという間に米原に着いた。

降りる間際に、1つだけペルーの言葉を覚えてねと「グラーシャス」と息子に教えていた。

そして、両手に南米産のビスケットを一袋のせてくれた。

息子は、ママにもあげると言いながら、大事にリュックにしまった。

米原からは26駅。

ありがたいことに3時間近くも乗り換えがないのでのんびりできる。

車内のトイレも確認し、本を読んだり、絵を描いたりして過ごした。

新幹線では通らない駅が多くて私は退屈せずにすんだ。

彦根、安土、近江八幡、大津、神戸、明石など途中では明石海峡大橋が見え息子と色んな話をしながらあっという間に姫路に着いた。

夕方5時47分に着いた。

20分ほど時間があったのでホームの立ち食いそば屋に行き、冷たいそばを1つ注文した。

最初に息子に食べたいだけ食べさせた。

子ども用に立ち食いテーブルで黙々と食べていた。

私が食べようと器の中をのぞくと、ほとんど食べ尽くしていて、残ったコマ切れの麺と汁をすっすったらなくなった。

息子は大人並みに食べた立ち食いそば屋に大喜びだった。

山陽本線に乗って、岡山まで18駅、田舎の18駅は結構長い。

途中の相生や上郡、和気は自転車で何度か行ったことがあったので懐かしかった。

岡山に着き、津山線に乗り換えた。

ここまでくると概ね帰ってきた感じがする。

みんなに会える、そう思うとまた気力が湧き、元気になった。

快速だったので8駅、1時間ちょっとだった。

外はもう真っ暗で、停車するたびに田んぼからカエルや虫の鳴き声が響いていた。

津山に着いた。

急いで向かいのホームに駆け込み、姫新線に乗り換えた。

あと2駅。わずか10分で美作大崎に着く。

1両のワンマンカーには半分ほどの空席があった。

高校生と運転免許のない高齢者くらいしか利用しない、そんな鉄道が地方にはたくさんあって採算が合わなければどんどん廃線になっている。

それでもここは何とかつながっている。乗り換えを何度かして第三セクターででも持ちこたえている。

ありがたい、故郷につながるこの線路にただただ感謝していた。

駅に着いたら、姉が迎えにきていた。

姪と甥も一緒だった。

10分ほど歩けば家に着く場所なのにわざわざ迎えにきてくれていた。

夜9時を過ぎていた。

実家に帰ると父も母も起きて待っていた。

加齢と暑さでバテバテでの父は本当にぐったりと疲れた様子だった。

それでも、愛想をふりまき出迎えてくれた。

11回の乗り換えと電車やホームでの3度の食事。

故郷は遠い、だから帰省もひとしおだと思った。

父も母もまだ入っていない一番風呂に息子と入り、虫の鳴き声が聞こえる静かな部屋で息子の手をつないで眠った。


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by ikenosai | 2010-08-22 20:13 | 子育て 一期一会 | Comments(0)

夏の思い出・・・①


 娘が合宿に出て2週間が経つ。

息子が何度も、「僕もねーねみたいにキャンプに行きたい。」と言うもんで、奥多摩にある川井キャンプ場を当日の朝予約した。

残念ながら、曇。

我が家には大きなテントがあるが、まだ1度も使ったことがない。

今回は使おうと思ったが、曇っていたので止めて、バンガローにした。

わずか4畳ほどの掘っ立て小屋のようなバンガローに寝袋を持ち込んで泊まった。

調理は一切せず、近所のコンビニまで買い出しに出かけて済ませた。

それでも、冷たい川で泳ぎ、夜はハックルベリーの家のようなバンガローで過ごし、息子は大喜びだった。

ことあるごとに「楽しい、楽しい。」と言葉にしていた。

夕方は、近所の旅館の温泉に入り、少し散歩をした。

テレビも何もない部屋だったので、9時前には消灯にして、3人とも寝てしまった。

夜中はずっと雨が降っていた。

朝も少し降っていたが、止んだので、息子と川井駅まで散歩した。

無人駅のホームに入ってくる電車を見て大喜びだった。

何もかも楽しかったと、何度も何度も言っていた息子だった。

家に帰ってから、すぐに画用紙に絵を描き始めた。

キャンプ場の絵だった。

詳しく丁寧に描いていた。

こんな記憶の積み重ねがこの子の心の成長を支えていくのだと思うと、もっともっと楽しいことを経験させてあげたいと思った。

今日から津山に帰省する。

青春18切符で息子と2人で帰る。

もうすぐ出発。

着くのは夜9時過ぎ。

長い長い道のり。

楽しい1日になりますようにと願っている。
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by ikenosai | 2010-08-12 05:21 | 子育て 一期一会 | Comments(0)

今日は広島の原爆の日



 今朝のラジオでも、電車内のニュースでも報道が無かったので、通勤のバスを降りてから、「そうだ、今日は原爆の日だ。」と思い出していた。

私が生まれる20年以上も前のことだからピンとこない。

それでも、中学校時代の夏休みの登校日や平和教育で、詳しく学んだ記憶がある。

あんな酷い目にあっても、日本はアメリカにやさしい。

大したもんだと思う。

一向に謝罪のないアメリカをここまで受け入れている日本は本当に偉いと思う。

8月は、終戦の月、何年経っても、癒されることのない戦争被害者の霊魂が誰かの供養を求めて漂っているのではないかと思うことがある。

本当に戦争はいけないものだとつくづく思う。

どんな形で終わっても、必ず誰かが悲しい思いをする。

 昔、NHKの連ドラでやっていた“おしん”の中で、戦時中におしんの夫、竜三がどんどん若者を戦地に送って、敗戦になったとき悔やんでいたシーンがある。

竜三とおしんの最後の夜に、竜三が「私の人生の中で一番素晴らしかったことは、おしんと巡り会えたことだよ。」とおしんに告白する。

私は、それを再放送で妻と観ていて、涙をグッと堪えていたのを今でもハッキリ覚えている。

翌朝、竜三は誰もいない草むらで自刃してこの世を去る。

いくら、フィクションとはいっても、こんな思いをして自決した人も少なくないと思う。

少なくとも、原子爆弾を落として、平気でいられるヤンキーよりは正常だと私は思う。

それでも、社会が、世の中がひとつの方向に突き進みだしたとき、後戻りすることが難しくなって、どうにもならなくなってしまうことは多々あると思う。

だから色々な意見が言える環境は必要である。

とにかく、原理主義に陥らない環境が大切であり、全体で協調し合うことである。

それは家族でも同じであり、国家間でも同じである。
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by ikenosai | 2010-08-06 20:19 | 温故知新 | Comments(0)