いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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奔走した息子の保育園探し



 環境の変化は誰にとっても不安要因になりがち。

息子が2才の年度末、我が家は息子の通う保育園探しに奔走した。

12月の末、息子がお世話になっていた家庭保育の先生が病のため保育室が休業となり、市の迅速な対応で暫定ながら近くの公立保育園にお世話になった。

よっぽど家庭保育が良かったのか、新しい保育園に慣れるのが大変だった。

いつもと違う登園の道、保育園の前に来ると、自転車から降りようとしない。

無理矢理に自転車から降ろそうとすると「ないない。」と言って必死に抵抗した。

不安定なまま1週間が経った。

1ヶ月が過ぎたころ、私は家庭保育から移された子どもたちが次年度も継続して受け入れていただけるよう市長へ嘆願の手紙を書いた。

しかし、何の反応もなく、市での対応はまったくなかった。

このままだと、次年度の受け入れ先がなく、3月末で息子は保育園から出されてしまう。

3月中は、何度も夫婦で市役所に異議申し立てに行った。

何度も通ううちに、役所の本音といい加減さが分かった。

単純にいえば、私のような非営利活動の低所得者は公立保育園にはいらないということだった。

公立だってお金が欲しいのだろう。

税収が高く、安定した公務員の子どもが一番に決まっている。

市の職員、警察官や自衛官など、考えてみればそんな家庭の子どもばかりが保育園には来ていた。

それ以外は、市議などのコネで入っている古くからの兼業農家などの子どもだった。

保育園の園長あがりのドンのようなおばさんの裁量で保育料のバランスをとりながら決めていたことが明確に分かった。

私は、金にはならないが、保育園から小学校に入り、中学で不登校になった子どもたちを自立に向けて支援しているのに、こんな目に遭わされるとはショックだとそのドンに話した。

連日、市役所に押しかけるもんで、職員の人たちも、窓口に私たちが現れると、ツンとして挨拶もなく嫌な顔をしてのお出迎えだった。

あまりにもひどいので、市の窓口がこんなザマではいかんと一喝した。

同じ立場の何人かの人たちと協力し合い、必死で行政側に抵抗した。

移ったばかりの保育園では、保護者の方たちが署名を集めてくださっていた。

園長も協力的で、市に掛け合ってくださっていたが、同業の立場なのか、言いくるめられてしまったのか、私たちの行動に段々否定的になってしまい、協力が得られなくなった。

保育課担当の係長は、善人だとは思ったが、頼りなく、上司への押しもなく、いくら相談しても話が前に進まない。

無能な部下を抱え、上司と私たちの間で右往左往しているだけだった。

園長あがりのドンは、受け入れる様子はなく、やたらと難しく御託を並べて堂々巡りを繰り返すだけだった。

こんなのを相手にしていたら、息子は4月から保育園に行けなくなる。

私か妻のどちらかが仕事を辞めなければならなくなる。

そんな不安もあってか、しつこく保育課に通った。

面白いことに、高収入の公務員たちは3月の末にもなると、転勤して引っ越す者や都外に家を購入して引っ越す者も現れ、段々と空きが出始めた。

最後には、2~3箇所の保育園を選べるくらいになっていた。

結局、周りの方々からの協力を賜り、二転三転しながら次の保育園が決まった。

2才にしてすでに4つ目の保育園だった。

一喜一憂したあの出来事は子どもへの意識の再確認となった。

何もしないで不満を言っているだけでは駄目だった。

とにかく、懸命に今、目の前にあるものに取り組んでいくことが重要だと分かった。

行政側にとっては大勢の中の一部分、こちらから懸命にアプローチをかけなければ反応がないのも分からなくもない。

しかし、子どもにとっては最善の選択をしたいと思った。

 できるだけ心地よい環境を考え、慣らし保育にもじっくり時間をかけた。

その後、市の保育課のあの係長は、保育園の行事に列席するようになった。

しつこい私たちの影響なのか、自己啓発なのか、それともあのドンの指示なのか?

それでも、いつも笑顔で挨拶をしてくださった。

やはり、いい人だったのだろう。

そう思うことにした。

4月から息子は年長さんになる。

やさしい保育士の皆さんに支えられながら今は元気に通うことができている。 
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by ikenosai | 2010-02-27 07:18 | 子育て 一期一会 | Comments(0)

引き継がれた因縁の地で・・・

 昨年末にシュメール由来の先祖の話をこのブログで紹介した。

10代もさかのぼれば百万人を超す先祖の命のリレー。

しかも、この中のひとりでも欠けていたら、先祖の染色体の組み合わせによって誕生した私という個性を持った人間は存在しない。

年末年始の帰省でこれまで私が知り得なかったことをやっと父が話し始めた。

おそらく私の成長を理解し、やっと重い口を開いてくれたのだと思う。

岡山県の北部は独特で、今では理解しがたい不思議な世界が存在していたのだと思う。

八つ墓村のモデルになった事件もこの土地の近くのできごとだったので、重い因縁を引きずった民衆が今もまだ苦しんでいるのではないかとさえ感じてしまう。

そして、今では考えられない夜這いの習慣が普通にあったことも何かの因縁にまつわるものなのかもしれない。

不思議な関係、不思議なご縁で生まれてきた人々も現実として存在している。

私の父は昭和ひとけた生まれで12才のとき終戦を迎えている。

戦後間もないころ、多感な思春期だったはずの父は、次々に生まれた弟や妹を親と一緒に養っていかなければならなかった。

なので、稼ぎの良い肉体労働をしながら家計を支えていたのである。

何ぶんにも貧乏なため、ヤミ米の運び屋をやっていたこともあったらしい。

当時、配給制だった米はそこら中で需要があり、相場よりも高いヤミ米でさえ欲しい人たちが多く、はるばる姫路まで売りに行っていた。

近隣の農家をまわってヤミ米を仕入れ、上着の内側に隠したり、汽車のトイレの天井裏や車両の上にのせたり、いくつかに分散させたりして運んだ。

途中で警察に見つかるとすべてがパーになる。

その損失は、さらに3往復を成功させないと取り返せなかったらしい。

警察にしょっ引かれ、未成年といこともあって、すぐに出してもらえたが、いっぱしに家計を支えていることもあって大人並みの稼ぎが求められていたので必死だった。

ときには、車内で警察に追われ、トイレに駆け込み、トイレの小窓から飛び降りる者もいた。

それも走行中にである。

煙をもくもく出している蒸気機関車の屋根の上を走り、いくつかのトンネルを越え、姫路まで行った。

ポール・ニューマンやロバート・レッドフォードの西部劇さながらにである。

それくらいしか、高収入を得られるすべはなく、その時代に翻弄されながら生きていた人々の話を聞き、いくら法にふれる悪いこととはいえ、何とも言えぬ気持ちになった。

戦没者の遺族には社会保障があるが、生き残って帰ってきた兵士の家族のほうが生きるための試練は山積だったのだろう。

まして、そのころ生まれた子どもたちは、何も知らず生き、その時代に翻弄されていったのだろう。

大昔にこの土地に移り住んできた先祖はどんな思いでこの地を選び、この地に従い、そして、生きてきたのだろう。

その苦しみが、再びこの不況によって思いおこされているのではないだろうか。

それでもまだ父はあまり多くを語らない。

若き日の苦労を話そうとはしない。

しかし、こんなこと、こんな思いをした人々が各地方のいたるところに存在したのだろうと思う。

人々は、そんな思いを閉じこめたまま生きてきたのではないだろうか。

吐き出せない、辛く悲しい思いは、やがて因縁となって何代か先に現れるのかもしれない。

私がこうして生まれてきたのには、何か深い意味があるのではと思うことがある。

それは私の中に宿る魂にこめられたご先祖たちのささやかな願いなのかもしれない。

いつか、いつの日か、この命に感謝し、生まれてきたことにも感謝し、そして、心をこめた供養を先祖は切に願っているのではないだろうか。

私の血となり、骨となったすべての細胞の始まりはこの先祖なくしてはあり得なかった。

その細胞ひとつひとつに託されたDNAは先祖の魂に触れるために用意されている玉手箱のようにさえ感じる。

いつか玉手箱を開けるときがくる。

そのときは、あの世(彼岸)で待っている先祖たちに会いに行くときであろう。

そのときまでにたくさんのお土産を準備しておきたい。

最高のお土産はきっと、現世での善行と先祖の供養なのかもしれない。

そして、我が子に託すもの。

それは、あの世に行くまでに、死への恐怖が取り除かれ、死をごく自然に受け入れられるようになること。

ああ、楽しかった。

たくさんの人々と喜び合えて良かった。

そんな思いで人生の晩年を過ごし、そんな思いが最期に感じられていたら、私はそれで十分だと思う。

もうひとつ望みがかなうなら、子どもたちがさらにその子どもたちにそんな思いを伝えてくれればもう何も望むことはない。

そして、人生への無念も、何の因縁も残さずあの世に行かれればそれでいいと思っている。

先日のサッカー日本代表の韓国戦、1対3で負けてしまった。

試合前、韓国の選手たちが一斉に祈りを捧げていた。

自分たちの先祖にである。

私は素晴らしいことだと思った。

思うこと、そして、それを表現することはとても大切だと思った。

月が明ければ、お彼岸がくる。

ありがとう、ご先祖様。

私をこの世に生かしてくださって・・・。
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by ikenosai | 2010-02-24 05:10 | 現世に乾杯! | Comments(0)

先生との再会


 20代の頃、田舎の中学校で働いていたときのことだった。

卒業式当日、私は保護者の受付をしていた。

一段落したのか、列もなく、のんびりと気楽な気持ちで、いらっしゃる方々を迎え入れていた。

そうしていると、どこか見覚えのある顔、そして、表情に何か胸が熱くなるのを感じた。

名簿にチェックされた場所を確認すると、違う・・・?、あ、旧姓・・・?

でも、やっぱり先生だ・・・?。

急いで声を掛けると、やっぱりそうだった。

幼稚園のときのあの先生だった。

相変わらず、美しい方だった。

当時、先生の前だと、ドキドキ緊張していたのを思い出した。

今でもドキドキするほどだったので、その感覚をすぐに思い出した。

「先生、覚えていますか・・・?」と声を掛けると、先生はすぐに、一緒にいた他の保護者の方に、「わあ、懐かしい、私が初めて受けもったクラスの園児よ。」「随分と立派になって、嬉しいなあ。」と話していた。

当時、私はダンプにはねられ、3ヶ月も入院していた。

多動症で、落ち着きがなく、それでいてシャイだったりもして、先生から見ると、足りない困った園児だったと思う。

そんな思いもあってか、こんな私が娘の通う中学で先生をやっているとは夢にも思わなかっただろう。

先生はすぐに「お父さん、お母さんは元気・・・?」とたずねてきた。

母や父の苦労ぶりが思いおこされてのことか、先生はよくまあ育ったなあと言わんばかりに、そう思ってか、話しかけてきたのだと思う。

大変な異端児だったことを私は振り返った。

それにしても、20年以上も経っているのに、こんなつたない私を今でも覚えてくださっているのだと思い、何だか嬉しかった。

先生は結婚し、苗字が変わっていたのに、また旧姓に戻っていた。

聞けはしなかったが、色々とあったのだろうと思った。

そんな中でも、しっかり子育てをされていることが、卒業する娘さんの状況からもうかがえた。

20数年来の再会、先生は相変わらず美しかった。

まるで、時間が止まっているかのように感じて、胸がドキドキした。

何よりも、先生に大人になった私を見ていただけたことが嬉しかった。





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by ikenosai | 2010-02-21 19:33 | 思い出のポケット | Comments(0)

今は勇気より根気・・・かな?


 昨年の今頃は、関わっていた生徒たちの単位認定試験が終わり、本腰を入れて就職活動を始めていた時期だった。

不安ながらも家族の支えが心細い私を紛らわしてくれていた。

就職活動にしても、今はやたらとパソコンに頼りがちになる。

それだけ、パソコンを介しての情報は大きく影響している。

ハローワークも福祉人材センターもインターネットを使えば、家のパソコンで調べられる。

たまに、ヤフー動画(今はGyaO!)を見ながら、折れそうな心を紛らわしていた。

中西保志さんの歌うカバー曲を何度も何度も聴いたりしているうちに、いつの間にか4才の息子が歌詞を口ずさんでいたのには驚いた。

「恋するカレン」を感情をこめて歌っているのには思わず吹き出してしまい、不安な心も紛らわされた。

洋楽も、聴いていた。

一押しの、ビューティフルソングで紹介されていたジェイムス・ブラント(JamesBlunt)の「ユアビューティフル」の動画を何度も何度も観ていたら、息子が全く同じ動きをしながらデタラメながらもそれらしい感じに歌っている様子に思わず笑ってしまった。

息子はこの曲が大好きだと言っていた。

さびの部分の「You're beautiful. You're beautiful.You're beautiful, it's true.」のところが一番好きと意味も知らない英語を発音していた。

ジェイムス・ブラントが寒そうに雪のちらつく海上の特設ステージでパーカーのジャケットを着ているところから始まる。

息子はそこから真似をし始める。

曲に合わせて歌い、上着を一枚ずつ脱いでいく。

上半身が裸になったら、あぐらをかいて座り、脱いだ靴を前に揃え、ポケットの中のものを出して、靴の両サイドに揃えていく、指輪をはずし、そして、立ち上がる。

静かな空に、鳥が寂しそうに飛んでいる。

そして、最後は覚悟を決めて、その高い、高いステージから深そうな海に飛び込んでいく。

不安で行き場のない私の心の内を表現するかのように・・・。

息子は、椅子の上にのり、そこからジャンプして飛び降りる。

ジェイムス・ブラントは格好良く降りていく。

たぶん私は不細工だろう。

うちの奥さんと初めて“としまえんえん”のプールに行ったとき、私は格好つけて一番高い飛び込み台にのぼった。

長い列に並んで、大勢のギャラリーに囲まれた深いプールに飛び込んだ。

イメージと現実は大きくかけ離れていた。

私は、頭から飛び込んだのだが、真っ逆さまにならず、顔から腹部、足の先までを水面にぶつけて全身打撲でしばらく沈んだ。

周囲の声が大きく「痛ったあー。」と響いたそうである。

しばらくして私が浮き上がり、全身打撲で、ちぎれそうになった下腹部の痛みをこらえ、何でもない振りをしてプールから上がってくる私をあかの他人であって欲しいと思わず願ったと彼女は言っていた。

そんなドジな私も、ちゃんと学習して、その後は上手に飛び込めるようになった。

数年前には、高知の四万十川に行って、沈下橋から飛び込んだ。

近くの鰻重のお店のおばあさんは、昨日は飛び込んだ学生さんがいて、まだ見つかっていないなんて恐ろしいことを淡々と話していた。

勇気も必要だが命には代えられない。

あんな高い飛び込み台から飛び込むことを思えば、日常のことは大した勇気もいらない。

ただ必要なのは根気だけだ。

お陰で、再就職して半年が経った。

今、私に必要なのは根気だろう。

息子よ、ありがとう。

折れそうな私の心を和ませてくれて。

娘よありがとう。

元気な姿を見せていてくれて。

妻よ、ありがとう。

私に寄り添ってくれて。

だから、私は生きていかれる。

いつまでも、いつまでも・・・。



          http://hitspv.com/article/30389029.html
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by ikenosai | 2010-02-21 07:21 | 子育て 一期一会 | Comments(0)

『“卒業論文”に代えて』


 私が大学4年生だったとき、世間はまさにバブル経済のピークでした。私は教職希望だったので、売り手市場にもかかわらず、一般企業への就職活動を全くしませんでした。学部での卒業論文はなく、自由研究すらもなかったのです。体育会系の部活が終わり、大きなできごとといえば、教育実習ぐらいでした。しかし、大学を卒業するにあたって、これまでの自分を振り返り、これからどうしようかと考えた中で、やはり、けじめをつけて心に誓うことを書き出そうという結論となり、この文章を書き上げました。
 27才のときに講師をしていた中学校の生徒たちへのお別れのメッセージの中の一部にこの文章を贈りました。生徒たちから反響があり、この言葉を大切にしたいと話してくれたことに感激しました。数名ながら、先輩の先生から感銘のお言葉をいただいたのが、今でも私の大きな支えになっています。そのためにも、しっかり生きていこうという希望が湧き、今でも見果てぬ目標があるのはそのお陰だと思います。
 大学を卒業してから20年が経つ今も、この文章は、私の指針になっています。




『卒業論文』(“卒業論文”に代えて)

 人は何のために生きているのだろうと深く考えた時期があった。

モラルにとらわれず、金持ちをうらやみ、どんと稼いで将来を遊んで暮らす方法を必死で考えていた。

そんなとき、ふたりの金持ちの人生を知るきっかけがあった。

ひとりは、アメリカの偉人カーネギーである。彼はアメリカのフロンティアに名を残した鉄道王である。

アメリカ大陸に線路を敷きつめた彼は、莫大な利益を得ることができた。

あまりにも莫大な財産に彼は考えた。

あまりにも多すぎるこのお金は、人々から仕事を通して集めた大切なお金だ。

生きていく上で必要なお金は十分にある。

それ以外のお金は全て還元しなければと、各地域に図書館などの施設をつくった。

あのカーネギーホールはそのシンボル的存在である。

もうひとりは、赤坂の土地を売却したばかりの土地成金の妻だった。

彼女は私がアルバイトをしていたレストランに遅めの朝食を食べに来ていた客だった。

彼女は毎日をパチンコに費やし、「今日は朝だけで5万円も負けているの。」などと言い、有り余るお金の使い道に困って暇つぶしにパチンコに来ていると言う。

「1ヶ月に5百万円も預金の利息が入って大変なの 。」と言っていた。

「主人は病気で入院していて、いっそ死んだ方がいいんだけど死んだら相続税が大変だから生きていた方がいいみたいね。」などと言っていた。

見るからに成金という感じで気品が無く、引かれる魅力も皆無だった。

そんな金持ちを見たとき私は、かつてそうなりうる可能性というか価値観を持っていた自分を恥ずかしく思った。

それから幸福について考え始めた。

私が思うに幸福とは将来の安定でもなく、苦労しない人生でもなく、偉くなることでもなく、金持ちになることでもない。

それは価値観の問題で、その基準をどこに置くかで大きく左右する。

そこには生きている環境とこれまでにつくりあげてきた個々の性格でその受け止め方は変わってくる。

私の生きてきた人生はまだ若干の20数年にしか過ぎない。

人生観はここ数年で大きく変化した。

私にとっての人生は1度しかない大きな舞台である。

この世に生を受けてから臨終に際したとき過去の出来事が走馬燈のようにまぶたの裏に映し出されるだろう。

そのときの内容が人生の大きさと価値を表すことだろう。

しかし、映し出される1つ1つに充実していたものが込められていなければきっと無意味なものにしか感じられないと思う。

その中にはきっと、人間社会における倫理観や人生への向上心、未知への好奇心、喜怒哀楽を感じられる豊かな感情、そして、それをコントロールできる情緒や理性。

失敗を恐れず、信じるべく素直な自分をつくりあげること。

内なる自分に強くたくましい人間を持つことができたらきっとそこからが幸福の入り口だと思う。

人間ひとりの能力はそんなに大きな力を持っていない。しかし、手持ちのもので楽しみをつくることはそんなに難しいことではない。

そして、幸福とはその手持ちのものをいかに上手に利用し、幸福というものの基準を現在、過去において、さらに未来への目標や夢との兼ね合いの中で個人の持つ価値観で感じることで生まれてくるものだと思う。

私は将来を決して恐れはしない。

たとえ、不安定で経済的に貧困な人生を送っても。

なぜならば、幸福というものを感じることができるから。

そして、希望とは、その人生の中から生まれ、心の中を鮮やかな色で染めていく。

恋愛をすることも大きな意味で希望を持つことである。

そこには人間らしさをつくるために必要な3つの欲求が含まれている。

3つの欲求とは、人を愛したり愛されたりすること。

空腹を満たすこと。

社会において、自分の存在を感じること。

つまり、性・食・社会においての欲求を満たすことである。

これらの欲求を満たし、人生を価値あるものにしていくために私はこう考えた。

人生は永いものでも短いものでもない。

中身の濃さで意味をなす。

その中身の濃さは決して素晴らしい業績をあげたり、偉人になることではない。

他人からの評価は平凡でも、その人生が自分の持つべきパターンにあてはまっていれば、その時点で価値を感じることができる。

決して悲観的になってはいけない。

過ぎ去ってしまったことをいつまでも引きずっていてはいけない。

自分の力ではどうにもならない現実は受け止めなければならない。

命のあるかぎり理想を持つべきである。

人々の幸福な顔を見て、心からそのできごとに遭遇した自分を幸福だと感じる心を持ちたい。

1日1日を無駄にしてはいけない。

夢を持ち、生きていることの素晴らしさ、命の尊さを理解し、どんなに辛い人生を送ろうとも、そこに生きていくだけの価値があることを心の中に強く記憶させておきたい。

愛する人が現れたとき、私はきっとそのできごとに運命を感じるだろう。

そして、過去の恋愛を今日という日のために与えられた道のりだったのだと感じるだろう。

なぜ別れてきたかという疑問に、この人と巡り逢うために別れてきたのだという答えが返ってくる。

人生はままならない。

約束された道をゆっくり進んでいくようなものだと思う。

未来は見えず、今をひたすら踏みしめて。

それは未来に背を向けて歩いているように。

通り過ぎていく過去を眺めながら。

馬車のうしろに腰を降ろし、過ぎ去る景色を眺めているように。

しかし、それだけでは幸福はつかめない。

ひとつの馬車に積める荷物には限界がある。

まさに、それが心の器である。

そうなると何かを捨てなければならなくなる。

それぞれの器には個人差があり、その個人差は能力によって異なる。

だとしたら、気づいた時点で悪いものを捨てていかなければならない。

そして、空いた空間には何かいいものを積み込みたい。

そして、交差点にさしかかったときは、信じるべく理想の道へと切り替えていかなければならない。

完成されつつある己の内なる声に問いかけて。

そして、次の世代に何かを伝えていかなければならない。

それは、人生を精一杯生きようとする熱狂的な精神ではないかと思う。

生きることの喜びを自分で理解していなければ適切に伝えることは難しい。

しかし、それができたなら無限の価値ある財産を残すことになるのではないかと思う。

人はなぜ生きるのか。

そこには人生があり、生きていく価値が十分にある。

この言葉が分かるとき、きっとそのときは幸福の本当の意味を理解できたときだと思う。

 私は今、幸福です。
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by ikenosai | 2010-02-13 10:44 | 思い出のポケット | Comments(0)

強く願わなければ結婚は成就しない

 
 コンカツ、コンカツと巷では、結婚しなければ、いい人を探さなければ・・・、と30才を過ぎた人たちが何だか急がされているように感じることがある。

しかし、人生最大のイベントのような捉え方をさせ、それに群がる無責任なビジネスも多いと私は思う。

コンカツ詐欺女なんて言われる事件も起きていて、いったい結婚とは何なのだろうと考えさせられる。

私にとっての結婚は、自分自身を成長させるための最大の出来事だった。

それまでの恋愛で結婚までを深く願望したことはなかった。

なので、恋愛は人生の通過点のように過ぎ去っていった。

しかし、ある時期に来て、この人と一緒にいると、絶対に自分は成長し、幸せになれると感じてからは命がけでその人の心を掴もうと必死で追いかけていた。

つまり、100パーセント、この人と結婚したいと強く願わなければ、結婚を現実に近づけることは難しいということである。

結婚できたらいいな・・・と待っているようではダメなのである。

まず、結婚したいと強く思うこと。

そして、ひたすらそれを実現するために行動をおこすことである。

そして、パートナーを死ぬまで愛し続ける覚悟がないと幸せは続かない。

途中には、子育てもあり、もっと、もっと成長をさせてくれる。

パートナーによって、子どもによって人は成長していくのである。

ジョージ秋山さんの『浮浪雲』の中で、主人公の浮浪雲が何も行動をおこせぬ年ごろの息子に“富士山に登ろうと心に決めた人だけが富士山に登ったんです。散歩のついでに登った人はひとりもいませんよ。”と話しかける場面がある。

何事も本気で覚悟しておかないと、やがて大きなツケがやってくる。

今では、平気で離婚する夫婦がいる。

あのときの誓いは何だったのか、チャペルで誓った人なら、どんなときも愛し続けると誓ったはずである。

男も女も覚悟して結婚し、互いを愛し続けるべきである。

それが子育てにどれだけ大切か、私はたくさんの生徒たちから教わった。

だから私は自分にできる精一杯のことをこれからもずっと家族にしていきたいと思う。

何がおこるか分からないことを覚悟しながら・・・。
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by ikenosai | 2010-02-07 20:51 | 私的視点 | Comments(0)