いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
by ikenosai
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ふるさとへ、ふるさとへ


 18才で上京した私は、先輩が経営する仕出し弁当屋で働いていた。

世田谷区弦巻の住宅街の中だった。

その弁当屋と道をはさんだ真向かいに80才くらいのお爺さんが住んでいた。

東京ガスに長年勤め、退職金としてもらった真向かいの土地に家を建てて住んでいた。

大きな屋敷で、2世帯になっていて、しかも2部屋は賃貸で別の人が住んでいた。

よく、弁当屋に顔を出しては、私たちにキャラメルをくれた。

 上京して早々なのに、私は5月の連休に帰省をした。

お土産のきびだんごを見てお爺さんがおもむろに、私の田舎も岡山だよと言う。

詳しく話を聞くと、建部町の福渡だった。

私は津山ですよと返すと、母は津山の城のそばの旅館の娘だったとのこと。

津山駅から今津屋橋を渡って遊びに行ったもんだと話してくれた。

何だか嬉しくなって、夏に帰省したときは、直接自宅にお土産を持って行った。

すると、義理の息子夫婦が同居していて、お返しにカニの缶詰をたくさんもらった。

あまり込み入った話は聞けなかったが、どうやら、このお爺さんは、元々はあかの他人だったが訳あって親戚になった夫婦と同居しているらしい。

嫁さんは、お爺さんは随分歳をとってしまっているから、ひとりでは田舎に行けないので、誰か一緒に行ってくれる人がいたらいいんだけれどと話していた。

そうだろうな、お爺さんは田舎に行ってみたいだろうなと私は思った。

翌年の夏休み、国体予選くらいしか帰省の目的がなかったので、お爺さんの家に行って嫁さんに、お爺さんと一緒に岡山に行きましょうかと話してみた。

すると、嫁さんは、今はそれどころではないんですよ、お爺さんはすっかりぼけちゃって、トイレも間に合わないことがあって大変なんですよ、と現状を私に話してくれた。

年寄りには時間がない。

今、できることをしてあげなければいけない。

明日には何が起こるか分からない。

もっと早く一緒に岡山に行けばよかったと悔やんだ。

ただただお爺さんの喜ぶ顔が見たかった。

あのお爺さんを岡山に連れて行きたかったと今でも悔やんでいる・・・。
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by ikenosai | 2010-01-31 19:59 | 思い出のポケット | Comments(0)

今日は息子の5才の誕生日


 子どものときから命の大切さについては、親からも先生たちからも伝えられてきた。

なので命は大切なのだとは思っていた。

しかし、これほどまでに、命の大切さを強烈なかたちで教えてくれたのは、我が子が生まれてきたときだった。

息子が生まれる日。

陣痛が始まって、妻は陣痛の周期をはかり、助産院への入院の準備を始めた。

着いてからも、まだ余裕があったようで、私は家に足りないものをとりに帰った。

再び助産院に着いたときは、外は暗くなり始めていた。

「ご主人、代わっていただけますか?」といわれ、背後の脇から手を入れて彼女を抱え上げた。

次第に息んでいく様子がはっきりと私の意識の中に入ってきた。

力尽きながらも、私も耐えて、彼女を抱えていた。

2時間ほどたったのかな?助産師さんが言った。

「頭が出てきたよ、ほら・・・」しかし、そこから、なかなか出てこられない様子。

赤ちゃんは、頬に手をくっつけたままそこで止まっていた。

しばらくして、そのままの姿勢で出てきた。

肘まで出てきたら、あとはつるんと出てきた。

「坊やよ・・・」助産師さんの言葉でおちんちんを確認して、赤ちゃんを抱きかかえて彼女に見せた。

仰向けになって休む彼女をみんなでよく頑張ったねと褒めた。

嬉しそうに、みんなの名前を呼びながら「ありがとう、ありがとう。」と彼女が答えた。

しばらくして、後産の胎盤が出てきて、私は臍の緒を切らせてもらった。

そして、彼女のお腹の上にのっている赤ちゃんの写真を撮った。

娘もはしゃいで赤ちゃんを抱っこして写真を撮った。

「お姉ちゃんになったね・・・」と私が言うと、笑顔で「嬉しい・・・」と答えた。

女性は凄いと思った。これが女性の力なんだ、宇宙の力なんだと感動していた。

そして、赤ちゃんは自分の力でこの日を選んで生まれてきたのだと思った。

このときの記憶は今も強烈に残っている。

 誕生日には“子どもが生まれたときのことを思い出し、そのときの感動を話してあげたい。

そして、心身ともに健康でさえいてくれればそれでいい”と思う。
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by ikenosai | 2010-01-29 05:34 | 子育て 一期一会 | Comments(0)

42歳の誕生日に・・・


 あっという間の42年。

されど、色々あった42年。

私は生まれてからわずか4年くらいしか父方の祖父とは過ごしていない。

恐くて厳しい祖父だった。

私が悪戯をするたびに、大きなモグサを首根っこや肩にのせ、灸(やいと)を据えた。

よく叩かれたと思う。

そのせいか、今でも吃音がある。

子どものころはもっとひどかった。

それだけで、みんなにいじめられたこともある。

足りない子、落ち着きのない子と言われ、小学校入学当時は、一番前に座らされ、賢くて優しい女の子の席の隣だった。

おまけに左利き。

当時は珍しく、“ギッチョ”かと行く先々で言われた。

入学早々に先生と母の意見が合い、徹底して右で字を書く練習をさせられた。

今では右で字を書き、左で箸を持っている。

昨年末から実家に帰っていたら、引き出しから通信簿が出てきた。

小学校1年生から高校3年生まで全部あった。

母が大切にしまってくれていたのだろう。

小学校1年生から4年生までは“よくできる”が体育の球技のところくらいにしかついていない。

本当に勉強のできない子の通信簿だった。

娘に見せたら笑っていた。

祖父の折檻の影響なのか、私自身がダメ人間なのかと考え込んでしまった。

 年末に“男はつらいよ”をやっていた。

夜だったので寝る準備をして、息子と一緒に布団の中だった。

旅先のバスの後ろの席で手元不如意の寅さんに私の宿に泊まらんかと声をかける一人旅の老人。

妹さくらの夫ひろしの父役の志村喬だった。

私は志村喬の出演している映画が大好きである。

“七人の侍”、“生きる”などの黒沢映画を何度も観た。

志村喬が出ているだけで何だか心が落ち着く。

遠い昔に出逢った・・・。

そんな感じがする。

志村喬の映像が遠い遠い、あの恐かったはずの祖父と重なるのである。

どこかで憧れを抱いてのことか・・・?

それとも、本当に祖父を思い、慕っているのか・・・?

ハッキリとした答えはない。

でも、1つだけハッキリしていることがある。

それは、今の私は、祖父を恨んではいない。

むしろ、愛おしく思える。

還暦を迎えることなく、他界した祖父。

なくなる間際に、スイカが食べたいと言ったそうである。

昭和40年代の真冬のことだった。

父や叔父たちは、果物屋を手当たり次第さがして見つけてきた。

翌朝、私は目を閉じて何も言わぬ祖父の亡骸を目の当たりにした。

死んだ人を初めて見る瞬間だった。

そのときは、死んでいるとは思わなかった。

村の焼き場に運ばれ、積んだわらの上にのせられて、焼かれたあとの祖父のお骨を拾うときにやっと死んだんだと思った。

村の焼き場は、祖父の火葬が最後だった。

今では土が盛られ、築山になっている。

代々続く貧困な家系。

それでも、先祖は懸命に“誠実”に生きてきた。

それだけに、一族の長男として生まれてきた私への期待は大きかったのかもしれない。

それに反発するかのように私は子ども時代を過ごしてきた。

志村喬の姿は亡き祖父のほんとうの心のうちを考えさせてくれているのだと思う。

強くて優しい紳士の姿で・・・。
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by ikenosai | 2010-01-18 04:13 | 思い出のポケット | Comments(2)

私が生まれてくるまでのこと(人類は皆結ばれた親戚)

 忙しい日常の中で、命について深く考えることはそんなにないかもしれない。

命の伝承も、親や祖父母くらいしか意識しないだろう。

そして、子へ、孫へ、運が良ければ、ひ孫に玄孫(やしゃご)を見ることも。

両親、そして4人の祖父母、8人の曾祖父母。

命の伝承も、11代までさかのぼれば、千人を超え、21代さかのぼれば百万人を超え、28代前にもなれば、1億3千万人を超える。

近親結婚があればそこまではいかないにしても、染色体の組み合わせを考えれば莫大な数になる。

1億三千万人ともなれば、今の日本の人口と同じくらいになる。

28代の伝承は長くても千年程度におさまる。

その千年の間に1億3千万人の営みがあったことになる。

不思議なことに、この中の1人でも欠けていたら、私という特別な個性を持った人間は存在していない。

およそ137億年前のビッグバンによって生じた水素原子が生命誕生に大きく影響している。

今からおよそ9億年前から人間は子育てを始めたそうである。

人類の進化は環境などの変化にも適応してきた。

生命誕生からいえば、およそ38億歳。

人間の営みからだと、およそ9億歳。

しかも、約3千万種の多種多様な生物が地球上に誕生した中で、人間として生まれてきたこと。

これこそが運命である。

両親の染色体の組み合わせにより生まれてくる可能性は70兆通りにも達し、それが何代にもわたって伝承されてきた。

70兆ともなれば地球の人口の1万倍にもなる。

毎回、その確立で特別な個性を持って生まれてきているのである。

アフリカを起源とし、はるか大昔にシュメールからやって来た人々が今では、無縁のように思える。

しかし、先祖をたどれば、“袖振り合うも多生の縁”どこかで結ばれていた親戚なのかもしれない。

大切なことがどんどん見えにくくなってきている。

その大切なものの中で、命は一番上にくるはず。

その命の大切さを忘れさせるもの、それは限度を超えた欲望と不安なのかもしれない。

メタ欲望・・・、それを現実にしているのがお金である。

現物なら“足る”を知る。

食べ物なら満腹になればそれでよい。

それは、胃袋には限度があるからである。

性欲が旺盛であっても、一晩で百人の相手はできない。

しかし、お金への欲望は無限である。

そして、もう1つ無限にふくらむものがある。

それが、恐怖である。

メタ恐怖・・・、不信感が積もれば、相手の思うままにはさせたくないという気持ちがはたらく。

それが争いへと発展する可能性もある。

そして、その争いのためにお金を無限大に増やそうとする。

どうやら、人間の持つ欲望と恐怖には限界がないのかもしれない。

だから、“五欲を去れ”と言ったのだろう。

それでも睡眠欲ぐらいは満たしたい。

それが私の本音である。

メタ恐怖を押さえるために、メタ欲望を満たしていくのである。

人類が誕生し、その末裔として私たちが今を生きている。

その血をたどれば、どこかで結ばれる。

それは、何代先、何十代先、何百代先か分からない。

しかし、必ずどこかで結ばれる。

数えきれぬ人々の血を受け継ぎ、何を差別し、何に迷い、何を恨んでいるのだろうか。

何に優越感を感じ、何に劣等感を感じて、狭い了見を満たそうとしているのだろうか。

それをプラスに変えるもの、それが感謝だと思う。

これまでの命の伝承に感動し、感謝したい。

命あっての喜怒哀楽。

そこから“怒・哀”を取り除く工夫をすればいいのに・・・。

それが人間に与えられた智恵なのに・・・。





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by ikenosai | 2010-01-17 08:08 | 現世に乾杯! | Comments(0)

今年も観ていた箱根駅伝


 年が明けた2日、3日は相変わらずテレビで箱根駅伝の中継を観ていた。

20数年来、母校となった駒澤を応援している。

大学受験を控えた高校3年の正月、受験勉強をしながら駅伝を観ていた。

ハッキリとは覚えてはいないが、4位か5位で駒澤がゴールして、それを観ていた父が嬉しそうに私の顔を見ていたのを今でもよく覚えている。

その年、私は体育推薦ながらも一般入試に混じっての受験で何とか合格して上京することになった。

体育推薦で入学した新入生が各学部ごとに集まるオリエンテーションがあった。

当時のエリートは野球部だった。

絶好調で有名な中畑清さんをはじめ、駒澤の野球部は大田監督のもとを巣立った名選手が何人かいた。

その他には、サッカー、バレー、卓球、陸上競技、空手などの選手もいた。

担当してくださった職員の方も駒澤の卒業生ということで、右も左も分からぬまま上京してきた私にとってはとても心強い存在となった。

そのオリエンテーションで、その年、卒業した陸上部の先輩の作文が読みあげられた。

社会人をしながら大学に通い、さらに陸上部に在籍し、最後の最後に箱根駅伝で良い結果を出せたことへの喜びが書かれ、“親父ありがとう”と締めくくられていた。

この人は苦労しながらも充実した学生生活を送ったんだなあと感激した。

それからも、その担当の職員の方には色々とお世話になった。

留年し、もう1回2年生をやることになったとき、どうにか教職科目が履修できないものかと相談にいったときも、尽力を注いでくださり、作文提出で履修が可能になった。

5年間でやっと卒業。

念願の教職もとることができて、晴れの卒業式の日にはジョニーウォーカーを持ってお礼を言いに行ったときも“良かったなあ”と笑顔で応対してくださった。

 一昨年前、子どもたちを連れて後楽園ホールにリーグ戦の応援に行ったとき、バッタリあのときの職員の方に会った。

久しぶりのご挨拶の後、子どもたちに、“昔、お父さんはすごく強かったんだよ”と話してくださった。

そういえば、よくリーグ戦の応援にいらしてくださっていた。

こうして今も、私の後輩たちの応援をしてくださるんだと嬉しくなった。

その年、後輩たちは1部リーグに昇格し、昨年は準優勝だった。

陸上部は、昨年の箱根駅伝で惨敗し、シード権すら取れなかった。

今回は立川の予選からの出場だった。

1月2日、往路では8位だった。

今年はシード権が取れればそれでいいかと、そんな気持ちで応援していた。

翌日の復路での快進撃に、感動させられた。

総合では優勝を逃したものの、復路は地味ながらダントツの優勝だった。

選手の後ろを走る車から声援を送る大八木監督の姿が何度かあった。

私が入学したときのあのオリエンテーションで読まれた作文を書いた大八木さんの姿だった。
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by ikenosai | 2010-01-10 21:35 | 思い出のポケット | Comments(2)