いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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微睡みの中で



 私たちは、微睡み(まどろみ)の中で生きているのかもしれません。

特に子どものころは、微睡む時間が多いものです。

以前、あるテレビ番組で宮崎駿さんが創作に行き詰まったら、寝ることだと言われ、昼寝をされていました。

昼寝から覚め、机に向かうと、ひらめいたのか、バケツに入ったポニョの絵をササッと描いたのです。

宮崎さんはよくこの方法で創作をされているそうです。

微睡む時間というのはとても大切だそうです。

作家や芸術家の中には、枕元にペンとメモ帳を置いていて、ひらめいたら書きとめて作品につなげていく人もいらっしゃるそうです。

それだけ、微睡みの時間にひらめきは多いようで、ファンタジーの世界ともつながっているのです。

昨年、天に召された石井桃子さんは当時、洋書だった「くまのプーさん」を五・一五事件にたおれた犬養元首相の三男、犬養健邸で子どもたちにせがまれ、即興で和訳にして読んでいるうちに、自分自身が突然その世界に入り込んでいく不思議な体験をされたそうです。

これこそが、微睡みの中の不思議な体験だったと思います。

石井さんはこの体験から絵本作家へのきっかけをいただいたのではないでしょうか。

微睡みの時間の善し悪しは、微睡む人それぞれによって、その後どうなっていくかに差がつくものです。

秋田で娘と近所の児童を殺害した女性はおそらく、微睡みの中だけで生きてきた典型的な人間だったのではないでしょうか。

供述も二転三転し、事件のときも、その後の記憶もはっきりしない微睡みの中をただただ好き勝手に生きてきたから、思考力を持たず、自分の都合だけに合わせて不確かな人生を送ってしまったのだと思うのです。

ここで改めて、子どもが育つ環境に何が大切なのか考えていく必要があるようです。

子どもは微睡みと正しい生活環境とを行ったり来たりしてその反復の中から成長していくのです。

正しい環境にいれば、正しいものに影響され、微睡みの中にも素晴らしいファンタジーが芽生えるのです。

暴力や虐待を受けて育っていけば、微睡みの中に恐怖が芽生えてくるのです。

そして、親から可愛がられることもなく、誰からも大切に育てられることもないまま生きてきたものには微睡んだままでいるほうが楽だからと、はっきりしない曖昧な生き方をしてしまうこともあるようです。

人間は、生きていく中で、最もニュートラルな状態というのは、やはり赤ん坊のときです。

そこで規則正しい習慣と親の愛情に満たされてきた子どもは毎朝、微睡みの中から目を覚まし、自分が何ものかを確認し、自分の記憶の中に強く愛される正しい自分を印象づけていくのです。

その強く印象づけられた自分が正しいものをからだ全体で受け止め、理解していくのです。

周囲の愛情をたっぷり受けていることが重要なのです。

そして、正しいものを常に感じる環境が需要なのです。

すべての記憶はその積み重ねによる影響を受けて確かなものか、不確かなものになっていくのです。

ほんとうに強く生きる力なんてものは、もともと備わっているものよりも、育っていく過程で影響されるもののほうが大きいのです。

親の血を引くという表現をよく耳にしますが、親の習慣に影響されていることのほうが大きいのです。

親が規則正しく生活し、子どもに愛情を注いでいけば子どもはしっかり育つのです。

たとえ、思春期に挫折をしても、日頃から正しく生きている親の姿を見ていれば、しっかり立ち直れる力は備わっていくのです。

微睡みの中だけで生きてきた人には、人への恩も、感謝の気持ちも薄いのです。

微睡みの中だけでは、願望や欲求を満たそうとする本能だけが優先され、利己主義的な生き方をしてしまうのです。

母親に殺害されたあの少女の最期の日は、朝、まだ起きてくれない母親に空腹をうったえたあと、買い置きのカップ焼そばを食べさせてもらい、その後、母親はスーパーマーケットで自分が食べたい手巻き寿司とたばこを買っていたそうです。

母親の微睡みの中で、少女はうとましくなり、微睡みの中で母親の短絡的かつ無責任な欲求として、悲しい結末を迎えてしまったのです。

もし、正しいものの中で、愛されて育った母親なら、娘の死に対する悲しみがその不安や恐怖と一緒に、事件を起こす前にイメージできたはずなのです。

それすらできない感覚であるなら、誰からも大切に育てられていないということなのです。

思考することのない、微睡みの中だけで生きていたなら、未来に向けての大切なイメージは湧かないのです。

心の病気にかかる人は、現実と微睡みのバランスと、育つ環境に強い影響を受けているのです。

つまり、一緒に過ごす大人にかかっているのです。

大人がどう関わるか、親がどう関わるかで、次の代の子育てにまで影響を及ぼすのです。

しかし、起きてしまったことはもう戻せません。

できることは、そこから学び、そうならないために何をどうすればいいのか考えていくことなのです。

最近の子どもたちの学習について、不安を感じることがあります。

理解できればよい、学術的なことを教わるだけでよいと安易に考えがちです。

それは、ゴミのポイ捨ては良くない、挨拶ができないのはよくないと言葉だけで理解させようとしているのと同じです。

しかし、ほんとうに大切なのは、行為なのです。

ゴミのポイ捨てをしない習慣を親ぐるみで継続すること、挨拶をする習慣を親ぐるみで継続することが大切なのです。

行いの正しい習慣は、親ぐるみで反復されることで、体にしみついていくのです。

どんなに学校の勉強ができたって、偏差値の高い大学に入ったって、挨拶もできず、正しいことも解らないままでは、決して良い生き方にはつながらないのです。

周囲に協力的である親の姿を子どもは見ているのです。

それがごく自然な生き方であれば、必ず子どもにも良い影響を与えていくのです。

すべては親ぐるみの習慣なのです。

人々の中で生きていくことが習慣付いていれば、ひとりだけの孤独な世界より、誰かと過ごすことのほうが楽しく感じるものです。

しかし、ひとりで過ごす習慣が長いまま育ってきた子どもには、人々の中にいるほうが窮屈でつまらないものになるのです。

そして、ひとりになる時間があまりにも多いと、微睡みの中で過ごす可能性は高くなり、思考する時間を持たなくなるか、余計なことまで考えすぎる神経質な性格になっていくのです。

どちらにせよ、社会性に乏しい大人になっていくことには違いありません。

正しいもの、正しい人とのふれあいがあってこそ、微睡みの時間は有意義なものになっていくのです。
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by ikenosai | 2009-01-28 17:17 | 私的視点 | Comments(0)

生まれてきた日のこと


 昨日は、1月18日、私の41歳の誕生日でした。

私は、冬の寒い朝に、中国山脈をのぞむ、街の病院で生まれました。

母の陣痛が始まり、当時はマイカーがなかったこともあって、タクシーを呼んで病院に行ったそうです。

そして、その日の朝、9時過ぎに私は生まれてきたと、母から聞かされました。

偶然にも同じ日に同じ病院で生まれた同級生がいました。

彼とは、幼稚園から中学校卒業まで一緒でした。

同じ病院で生まれたこともあって、誕生日には、必ず彼を思い出します。

秀才だった彼は、私とは違っていた部分が多く、共通の遊びもなかったので、一緒に遊ぶことはそんなにありませんでした。

しかし、小学校4年生からはソフトボールで一緒でした。

6年生のとき、同じ学年では彼と私だけがレギュラーになり、残りは5年生の後輩たちでした。

私たちの学年は、あまり元気のある学年ではありませんでした。

こんな私が、ガキ大将のような存在になれたのも、その影響でしょう。

しかし、市の大会で優勝し、県大会へ行ったのです。

チームとしては初めての快挙でした。

今でも、表彰式で彼と一緒に賞状や記念盾を受け取ったときのことを覚えています。

 昨年の夏休み、ソフトボールをしている甥の練習を見に行きました。

指導者は当時チームメイトだった彼でした。

久しぶりの再会に、話しがはずみ、誕生日が同じだったことも話題に出ました。

同じ日に、同じ場所で生まれるなんてすごいことだと思います。

彼との再会でそう思いました。

今年、誕生日を迎えて、また、彼のことを思い出しています。

田舎に執着していたはずの私は、すっかり東京の人間になってしまっていて、田舎に帰るのも年に1回か2回。

しかし、国立大へ進学した秀才の彼は、再び田舎に戻って子どもたちを指導していたのです。

昔、一休和尚が、「門松は、冥土の旅の一里塚」なんて言っていましたが、誕生日も冥土の旅の一里塚とでも言いましょう。

昨夜、誕生日のことを書こうと思っていましたが、娘が「パパ、一緒に寝て」なんて言うので、添い寝をしていたら、朝になっていました。

私たちが子どもにできる最高のプレゼントは早寝、早起き、そして、朝夕の食事を一緒に摂ることくらいだと、妻とよく話しています。

早寝、早起きは、最高の省エネにつながっています。

子どもたちも、やがて思春期を迎え、中学や高校での部活動を始めたら、きっと一緒にのんびり食事する時間も減ることでしょう。

そう思うと、今しかない、今しかないと、そう思うのです。

一緒にいた時間の大切さが、大人になったとき、少しでも記憶の片隅に残っていることを願いつつ、子どもと見つめ合う時間を意識していきたいものです。

誕生日は、心の成長の一里塚でありたいものです。

そして、少しでも徳を積みながら、冥土に向かう人間でいたいものです。

昭和43年1月18日のあの日、あの場所で産声をあげた同士に、「誕生日おめでとう!」。

これからも、お互い、がんばっていきましょう。
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by ikenosai | 2009-01-19 05:50 | 思い出のポケット | Comments(0)

「祈り」~3千羽の折り鶴

 私は3回目の千羽鶴を折りました。

ただただ祈りをこめて折りました。

子どものころは、折り鶴はもとより、折り紙にすら興味がなかったのですが、ある生徒のバイク事故をきっかけに鶴を折ることになりました。

今から、4年くらい前でした。

夏休みが終わり、2学期が始まったころ、ある女子生徒の母親からの電話でした。

娘がバイクで車に衝突して、救急車で運ばれて、3日目になりますが、まだ意識不明の重体で眠っているとのことでした。

電話を受けた私は、すぐに理事長にその内容を話しました。

そして、何もできない私たちは、祈ることくらいしかできないので、鶴を折りましょうかと提案したら、それは良い考えですねと言われ、その日からみんなで千羽の鶴を折り始めました。

みんなには、彼女が早く元気になって、学校に通えるように祈ろうと話しました。

何人かの有志が集まり、休憩時間や放課後を利用して、鶴を折り始めました。

私は、鶴を折った記憶がほとんどなかったので、生徒たちに誰か折り方を教えてくれないかとたずねると、一番やんちゃな男子生徒が、俺が教えてあげるよと保育園時代に先生から折り紙を教わった話をしながら嬉しそうに教えてくれたのです。

私は、びっくりしながら聞いていると、俺が折り紙をするなんて感じじゃないからなあと笑っていましたが、子どものころの思い出を嬉しそうに話していたので、とても良い先生に教わったのだろうと思いました。

放課後学校で、夜には家で鶴を折っているうちに、上手に、しかも早く折れるようになっていきました。

最初は折ろうとしなかった生徒も、次第にその輪に加わってきて、いつの間にかみんなで鶴を折っていました。

事故から1週間が経っていました。

鶴も千羽になり、母親に電話して、みんなで届けに行きました。

その日の夕方から彼女の枕元にみんなで作った千羽鶴がかけられました。

みんなが早い回復を祈っていたと思います。

みんなの気持ちがひとつになれたことが私は嬉しかったのです。

こんな事故はあってはならないのですが、そこから学べ、経験できた素晴らしいできごとだったと思いました。

そして、10日目に奇跡は起きました。

彼女が目を覚ましたのです。

意識が戻って、退院してまた登校できるようになったのです。

母親にさんざん心配をかけた生徒でしたが、卒業式の日にそれぞれの先生に手紙をしたためていました。

母親も一緒でした。

娘の卒業に感激し、目から涙が出ていました。

私も彼女が入学したころのことを思い出していました。

親には学校に行くといいながら、サボっていて、毎日のように母から確認の電話があったこと。

次第に、母もあきらめていたのか、レポートの期日だけでも守れていたからそれで良いと思っていたのか、少しずつ娘への対応が緩やかになったように感じていた。

他の定時制や通信制の高校へ通っている友だちが退学していく中で、私は高校だけは卒業したいとがんばってくれていたことが、嬉しかった。

何度も、何度も約束を破られては、また気持ちをリセットする日々の連続でしたが、こうして卒業できて喜んでいる親子を見ることができて私は嬉しかった。

母親へは、30才、40才になってやっと解ってくれることがありますから、その日を信じて、今は種を蒔きましょうと話していました。

卒業式の日も、この話をして別れました。

卒業後も何度か学校に遊びに来ていましたが、最近はとんとご無沙汰です。

きっと元気でいることでしょう。

 次に千羽を折ったのは息子がお世話になっていた家庭保育の先生にでした。

急に家族で呼び出され、先生の家まで行くと、ご主人と義理の娘さんが病気のことを話し始めました。

先生はすでに入院していました。

最近様子がおかしかったので受診してみたら、後頭部に脳腫瘍ができていました。

腫瘍は手術困難な場所にあって、脳の神経を圧迫して、病院でもどうしようかと検討しているとのことで不安そうでした。

早急に市から臨時的に受け入れてくださる保育園がきまり、園児も、園児の家族も急にばたばたして大変でした。

しかし、先生のご主人や家族の様子を見ていると、とても切なくなってきて、私たち家族はその日から、鶴を折り始めました。

先生はどうなるのだろう、メスの入れられない場所の腫瘍をどう処理するのかとても心配でした。

抗ガン剤の影響で先生は髪の毛がなくなり、毛糸の帽子をかぶっていました。

私たちのできることは、ただ祈ることだけでした。

鶴を折り、毎日祈ったのです。

千羽になって、先生の家に届けました。

それから、1年半がたち、先生の家庭保育は復活しました。

先生は脳腫瘍の病を克服し完治していました。

そして、復帰したのです。

 3回目の千羽鶴は、義理の母でした。

半年前に、大腸ガンの手術を終え、今度は肝臓にガンが見つかったのです。

妻と娘と3人で毎日、毎日祈りながら鶴を折りました。

正月は朝から晩まで折った日もありました。

先日、鶴が千羽になったので、母に届けました。

今日は、母の手術の日です。

私を義理の息子として受け入れてくださったやさしい母が1日でも早く元気になることをただただ祈っています。

小さな私にできることはそれくらいしかないのです。
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by ikenosai | 2009-01-16 05:27 | 現世に乾杯! | Comments(0)

カルピスのような日

 正月、2日のことでした。

朝から妻の実家に車に乗って向かっていて、午後からは高校サッカーの応援に行く予定でした。

西荻窪の妻の実家に車を置いて、私は義理の父と一緒に駒沢競技場に行く予定でした。

正月ということもあってか、道がすいていて、五日市街道をスイスイと走っていました。

小金井公園を過ぎたあたりで後ろを走る軽自動車に着物を来た若い女の子がピッタリとついてきているのが気になっていました。

片手にはたばこの気配、ボンネットには若葉マークがありました。

前を走る車は路線バスで、乗り降りの客がいたので停車しました。

私は追い越そうとしましたが、対向車が来たので追い越すのをやめて、車を止めました。

途端に、後ろからガッシャーンという衝撃がおそい、その勢いで前のバスにぶつかって車が止まりました。

固まっているのか、後ろの車の反応がありません。

よく見ると、吸いかけのたばこを灰皿に入れている様子がありました。

その後も反応がないので、妻が車を降りて、着物の運転手に事故処理を促しました。

降りて、意識を取り戻し我に返ったのか、警察に電話をし、謝りに来ました。

バスの運転手も冷静で、紳士的な対応をし、すぐにバス会社の事故対応係が来たり、警察が来たりして、30分ほどで事故の処理が終わって解散となりました。

車の後ろはへこみ、バンパーは壊れ、マフラーまでも曲がってしまっていて、ブレーキランプが点かなくなっていました。

幸いにも、怪我人がなく、無事だったのが何よりでした。

そんなこんなで西荻窪に着き、再度、車の破損の確認をしました。

義理の母が用意してくださった食事を軽くいただき、高校サッカーの応援の準備の手伝いがあるからと、義理の父にはあとからきてもらうことにして、ひとりで吉祥寺まで歩いて向かいました。

井の頭線のホームに行くと、ちょうど急行が出発する時間で、タイミング良く電車に乗って、渋谷に行きました。

渋谷駅の連絡通路で、心待ちにしていた岡本太郎氏の絵が見られることを思い出しました。

待ちわびていた絵でした。

なかなか渋谷へは来ることがなくて、いつ来られるかと思っていましたが、高校の後輩たちがこうして全国大会に来てくれて、きっかけをつくってくれたのです。

岡本太郎氏の絵は、「明日の神話」というタイトルの巨大壁画(縦5.5メートル、横30メートル)で、この絵には伴侶である岡本敏子さんの太郎氏への思いがこめられた最後の絵でもありました。

この絵は、メキシコ五輪のとき、依頼されていた絵が頓挫してしまい、メキシコで創作後、行方不明になっていた絵でした。

この絵の捜索・補修に尽力したのが伴侶である敏子さんでした。

晩年の敏子さんは、この絵を最後の仕事として、残りの人生を捧げたそうです。

絵の全ての破片が見つかり、修復の見込みがたって、日本に運ばれる手続きが完了したことを確認した彼女は、静かに息を引き取ったそうです。

太郎氏をここまで偉大な芸術家に育て上げたのは、まぎれもなく、敏子さんの太郎氏への情熱だったと思います。

そんな、ふたりの集大成のような絵が、ハチ公やモアイ像のように渋谷駅で見られるのです。

あまりにも大きな絵に感激し、その余韻も冷めぬ間に電車を乗り継ぎ、駒沢競技場に向かいました。

応援の準備がまだ残っていたので、のぼり旗を何本も何本も手すりにくくりつけました。

遅れて、義理の父も応援に駆けつけ、一緒に応援することができました。

メジャーリーガーであるヤンキースの松井選手のいた星陵高校に競り勝ち、次へ駒を進めることができました。

次は、広島皆実、昨年のPK戦敗退に続く因縁の対決です。

ふたたび西荻窪に電車で戻って、事故でへこんでいる車を運転して帰りました。

マフラーも変形していて、時々、変な音もするので、不安を抱えながら家まで帰ってきました。

凝縮した濃厚な一日に、私はカルピスのことを思い出していました。

子どものころ飲んでいたカルピスは、原液に水をまぜてつくっていたので、いい加減につくると、薄かったり、濃かったりしてピッタリの味がなかなかつくれなかったのです。

氷を入れる場合は、濃いめにしたり、夏はかき氷にかけたりしました。

カルピスの創業者は、馬乳酒や乳酸菌の入った飲み物を飲むことで健康を保っているモンゴルの人々からヒントを得て考案したそうです。

カルピスという名前の由来は、醍醐(牛乳を煮詰めてつくったもの)をサンスクリット語でサルピスといい、それとカルシウムをかけて、カルピスと命名したそうです。

醍醐味なんて言葉があるくらいですから、きっと時間も手間もかかるのでしょう。

そんなことを思い出した年明け2日目のできごとでした。

これで、厄払いは終わったと気持ちを新たにし、濃厚な、カルピスのような1日は過ぎていきました。





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by ikenosai | 2009-01-15 06:06 | 私的視点 | Comments(0)

30年前にもらった年賀状

 明けましておめでとうございます。

不況であえぐ現代を生きながら、ふと子どものころを思い出すことがあります。

お金はなくとも家族で幸せだったこと。

学校の先生や友だちと過ごした楽しい日々の思い出。

どんな状況になってもあきらめないで生きていかれること。

これこそが親や先生たちから学んだ最高の財産だと思います。

30年前の先生との出会いは私に大きな影響を与えてくださったことと思います。

そして、その関わりが私の生き方の大きな礎になっているのだと深く感謝しています。

 私は、30年前にもらった1枚の年賀状を今でも大切に持っています。

その年賀状は、私が大人の人からいただいた最初の年賀状でした。

小学校5年生の時から2年間担任をしてくださった安東宗三郎先生からいただいた年賀状です。

その先生は私にとって、心から尊敬できた初めての男の先生でした。

もう50歳を過ぎて孫もいらしたのに、若々しくて何でもできるスーパーマンのような人でした。

それまで、体育や図工ぐらいしか好きな教科はなかったのですが、その先生が担任になってからは、国語や算数も好きになりました。

今でも授業の内容を覚えているくらいです。

国語では、「うまぬすびと」、「ザメンホフ伝」、「北里柴三郎」、「生きぬいた12日間」、「かぬひもとの思い出」などなど教材で使われた作品の内容まで覚えています。

家で本読みの練習をし、授業中、先生にあてられて上手く読めたとき、先生がビックリしてほめてくださったことがありました。

本当に嬉しかった。

国語の授業で北里宗三郎と板書した先生にみんなが、字がちがうと指摘したら、笑いながら「この人にあやかりたいんじゃあ」と言っていました。

北里柴三郎はすごい人なのだと子どもなりに思ったものでした。

算数も面白かったので、いつも満点に近い点がとれていました。

先生は職員室よりも教室にいて、みんなと過ごすことが多かったと思います。

よく悪戯をして怒られました。

それでも先生のことが大好きでした。

通信簿には私の問題行動や心の問題へのコメントまでも詳しく書かれていました。

今になって、そんなこともあったなあと懐かしく思い出したりします。

両親がとにかく尊敬し、信頼をしているのが子どもだった私にも分かりました。

5年生のときに行った海の学習が、私たちにとって初めての宿泊でした。

玉野市にある渋川海岸でした。

夜は興奮してなかなか眠れませんでした。

そんな中、深夜でも先生は巡回してくださり、しだいにみんな安心し、眠りにつきました。

修学旅行で行った金比羅さんも楽しかった。

随分大人になって、福祉の仕事をしていたとき、利用者の人たちと一緒に金比羅さんに行ったことがありました。

小学校時代にタイムスリップした感じでした。

何だかそのときよりも、町並みが小さく見えました。

スキー教室にも行きました。

先生はスキーも上手でした。

行事の思い出だけでなく、日常の思い出もたくさんあります。

雪が降れば、みんなで雪合戦をして、先生にもたくさんぶつけました。

あまり学業には取り得のなかった私でしたが、作文をほめられてからは書くことが好きになりました。

先生に指導していただき、県の小・中学生の応募する文集に入選したことがありました。

4年生からソフトボールをやっていたのですが、6年生になってそれまでの監督やコーチが退き、どうなることかと不安でした。

当時から、学校の先生とスポーツ少年団はあまり交流がなかったのですが、先生は心配してくださって、「君のお父ちゃんに頼もう」というのです。

父はテレビで野球を見てはいましたが、打つのも投げるのも私は想像すらつかなかったので、無理だろうとあきらめていました。

先生がお願いしてくださって、その年から父が監督になりました。

私がキャプテンで父が監督という、世間ではあまりよろしく思われない組み合わせでしたが、その年、市の大会で初優勝し、初めての県大会出場を果たしたのです。

スタンドにはいつも先生がいらして、手書きの大きなのぼり旗を懸命に振って応援してくださっていました。

夏休みは午後からソフトボールの練習があったので、午前中は家でテレビを見ていたら、先生から電話がかかってきて、泳ぎに来なさいといわれ、嫌々水泳の練習にいっていました。

水泳はほんとうに自信がありませんでした。

「男子が全然こんけん、君にゃあきて欲しんじゃあ」なんて言われたら、断れなかったので毎朝10時から水泳の練習に行きました。

余剰エネルギーがそうとうあったのでちょうど良かったと思います。

先生のおかげで当時はスポーツ万能と言われるほどでした。

秋のバスケットボールの大会にも、冬のサッカーの大会にもでました。

1学年わずか23人の教室でほんとうに楽しく過ごしました。

卒業式の数日前のことでした。

中学校へはみんな自転車で通わなければなりません。

先生は、みんなを心配し、一緒に登校練習をしてくださったのです。

全員、自転車に乗って4キロほど離れた中学校まで一生懸命に自転車をこいで行ったのです。

そして、その帰り、寄り道をして、先生の家に遊びに行きました。

生徒全員が先生の家の中で遊びました。

なので、先生の家がどこなのか、今でもみんな覚えていると思います。

私にとって先生は憧れであり、人生の見本そのものでした。

卒業式はほんとうに寂しかった。

先生とのお別れがみんな寂しかったと思います。

勉強が良くできた子も、私のように勉強をあまりしなかった子も、先生との思い出は公平にあったと思います。

先生はほんとうにみんなから慕われていたと思います。

父は私が卒業してからも数年間、後輩たちの監督をし、市の大会で優勝しました。

あのとき先生がお願いしてくださらなかったら、父は私との思い出も少なく、地域の子どもたちとの交流もあまりなかったことでしょう。

私は、父がノックをしたり、試合でサインを出している姿を想像することすらできなかったのです。

まさか、父がソフトボールの監督をするとは思ってもいなかったのです。

私が上京してからも、父は先生と呑んだりするほどの付き合いがあったそうです。

先生は農業高校を卒業して、師範学校に行き、先生になったと話してくださったことがありました。

自然と一体化したたくましい人でした。

そして、やさしい本ものの大人でした。

あんな、すてきな先生に巡りあえてほんとうに良かった。

先生は何年か前に天に召され、この世にはいらっしゃいませんが、私の心の中では今も生き続けています。

あの先生への強い憧れが今も私の心の中に存在しているのです。

先生からいただいた年賀状は今でも私の少年時代からのたからものです。





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    安東先生から30年前にいただいた年賀状
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by ikenosai | 2009-01-01 06:29 | のぼーる(野球) | Comments(0)