いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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ああ、偉大なる海からの贈りもの


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 先日、家族で千葉県の外房に行ってきました。

一夜明けて、日の出とともに、海辺を散歩していたら、砂浜にたくさんの“せぐろいわし”が打ちあげられていました。

地元のおばさんたちが袋にたくさん詰めていたのです。

私は興奮していました。

どうにかこの“せぐろいわし”を持って帰りたいと思っていました。

どうやら娘も同じことを考えていたようでした。

しかし、時すでに遅し、おばさんたちが根こそぎ拾い集めていたのです。

10センチから15センチくらいの煮干しになるくらいのサイズでした。

その日はあきらめて、明日はもっと早起きをして来ようと娘に声をかけました。

その日、街に出かけると、何箱にも積まれた“せぐろいわし”がキロ300円で売られていました。

大原駅からいすみ鐵道と小湊鐵道に乗って養老渓谷駅まで行ったのですが、養老渓谷はとても遠かったので、駅から歩ける範囲を散策しました。

それでも、ふたりの子どもたちは、古い汽車に満足し、吊り橋に満足していました。

目的地の最後には、田舎のど真ん中なのにフランス料理の店があったので、娘はもう大喜びでした。

再び、汽車に乗って、大原まで、明日の海をひかえ、その日は早く寝ることにしました。

私は大人げなく、何度も、何度も、海辺でたくさんの“せぐろいわし”を拾う夢を見ました。

みんな、早く寝たので、6時過ぎには起きて、海辺に行きました。

まだ日は昇ってきておらず、段々と朝焼けが強くなりつつありました。

波打ち際を見渡しても、魚の姿はひとつもありません。

娘と、まだかな、まだかなと待ちわびていました。

しだいに、朝日が昇りだしました。

きれいな小さな太陽が、だんだんと水平線の向こう側に見えてきました。

水面に湯気があがっていました。

そして、まるまる太陽が見え、いっきに太陽が大きく輝き始めたのです。

昨日、“せぐろいわし”を拾っていたおばさんが、「今日はいわしがあがらないねえ」と笑いながら話してくれました。

どうやら、昨日と一昨日の早朝は、たくんさんの“せぐろいわし”があがって、近所の人たちに電話して、みんなでたくさん持って帰ったということでした。

しかも、年間でもそういうことはめったにないらしく、私たちはそんな光景が見られて、ほんとうに運が良かったのだとつくづく思ったのです。

そして、おばさんは、今日のようなご来光はめったに見られないよと話してくれました。

毎日、この海に散歩に来られるらしいが、雲も霧もなく、何にもじゃまされないこんなきれいな朝日を拝める日は、そうめったにないそうでした。

2日間の海の散歩は、奇跡の連続だったということに私たちはやっと気づいたのでした。

東京へ帰る前、大原の街に行き、“せぐろいわし”を2キロ買いました。

今朝は、前日よりも大漁で、キロ250円で売っていました。

いつも準備している、クーラーボックスにたくさんの氷を入れてもらって、東京まで帰ってきたのです。

買った“せぐろいわし”を大中小に分け、大は刺身用、中は焼き魚用、小はしぐれ煮用にして、さばき始めました。

娘も手伝い、魚の頭をとり、内臓をとり、背骨と背びれをとり、刺身をつくったのです。

何度も繰り返すうちに、ずいぶんと上手に魚をさばくようになっていました。

自分でつくったものは美味しいようで、ご飯をおかわりして、たくさんの魚を食べていました。

残りの“せぐろいわし”はつみれにして食べることを話すと、明日も手伝いたいと嬉しそうな表情で刺身をほおばっていました。



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by ikenosai | 2008-12-31 06:45 | 子育て 一期一会 | Comments(0)

時間を守ることは生活習慣の基本

 時間をどう利用しているかでその人の生き方や性格がみえてくるものです。

時間の概念というものは、持って生まれたものではありません。

なので、どう育てられたかもよく分かります。

人間は生まれた以上間違いなく死を迎えます。

その時間の長さはひとりひとり違います。

不幸なことに親よりも先に死ぬ逆縁もあります。

そう考えると時間には限りがあるのです。

そして、ひとりひとりにとってそれぞれの時間は大切なものなのです。

約束を例にとっても、約束の時間が守れない人が多いようです。

学校が始まる時間に必ず登校できている生徒が何人いるでしょうか。

登校時間が守れている生徒は、概ね下校時間も守れています。

学校に夕方登校し、だらだらとパソコンでインターネットをみたり、ゲームをしたりしていると、帰る時間は意識の中にはありません。

時間を守ることの積み重ねが、実は信用の積み重ねになっていくのです。

学校ができることとは何か、まず、規則正しい生活習慣を社会性と照らし合わせて教えてあげることです。

みんなが規則正しい中で過ごすことの心地よさを共有できることが大切です。

そのためのルールを理解させることはとても重要です。

それが守られていることが前提で、楽しい時間を提供し、各自が楽しく有意義な時間にするという意識付けができるように関わっていくことが日々の目標でもあります。

やりたい放題できる学校は、学校ではありません。

先生たちの指導も全く生かされません。

しかし、その意識が持てないまま登校している生徒はたくさんいます。

なぜ意識が持てないのでしょうか。

それは小さい頃から含めて、最近までの習慣がどうであるかがカギとなっています。

以前から何度も話してきましたが、早寝、早起きがいちばん効果があるのです。

人間の体(本能的な部分)の時間というものは1日25時間と言われています。

本能的に過ごしている認知症の老人を見ていただければ分かります。

しだいに時間がずれていき、真夜中に起きてしまって徘徊してしまうのです。

夜中に動けないように体をベッドに縛りつけていた老人ホームが問題になったことがありましたが、体内時計というのは本来、24時間になっていないそうです。

それでは、いつ24時間に合わせていくのかということになります。

侮ってはいけないのが体の中のしくみです。

休ませる時間と起きている時間では、内蔵の状態やホルモンの分泌などがどう影響しているかなんてあまり意識することはないでしょう。

24時間営業の店があたり前の時代では、誰もそんなことには疑問を持ちません。

そうなってしまった現代では、心地よい朝を迎えることは意識をしなければできないことになってしまったようです。

それを習慣化させてあげられるのが、そばにいる大人のなのです。

親としての子育てを意識的にするのはせいぜい15年から20年です。

現代の長くなった人生からみるとあっという間です。

しかし、それができていないのが現代のようです。

昔は、子育ては日常でした。

食べるために働き、意識した子育ては大きなウエイトを占めていたようです。

家には何もなく、各部屋もなく、一緒に過ごす時間が多かったようです。

今は価値観が多様化され、お金があれば子どもの面倒もみてくれる環境がある時代です。

親だって、自分の人生だから自分の好きなように生きたいという気持が強いです。

しかも、子どもと接する時間が昔より少なくなってきてしまったら、親としての人生目標の中から子育てというものが薄い存在になっていきます。

子どもと過ごす時間が長いほど子育ての良い面での意識は強くなっていきます。

では、なぜ育児ノイローゼになる親がいるのでしょうか。

それは、他人に目を奪われているからなのです。

子育て以外の楽しいものを心のどこかで求めているのです。

育児書どおりにいかない我が子に苛立ち、子育てに負担を感じるようになってしまったら子どもを愛おしく思う気持ちも薄くなっていきます。

そんな環境にいるお母さんであれば、おそらくご主人のフォローはないか、もしくは満たすほどのものではないでしょう。

世間との接点が希薄な時間が続けば、今していることへの不安は拡大していき、何だか自分がみじめに感じるようにもなります。

子どもは鏡です。

親の全てを映す鏡なのです。

不安だったり、嫌だなあと思っていたら、そっくりそれを映すのです。

不幸な親の代は、親が亡くなれば、それで終わりです。

しかし、不幸に育った子どもはその後も生きて、その不幸に育ったように子育てを次の世代に伝達していくのです。

このままでは子孫に恨まれてしまいます。

だから、意識を変えていくことがとても重要になるのです。

子どものころの不幸な時間は学ばない限り連鎖します。

今こそ、その連鎖を改善しようとする意識が大切なのです。

子育ての基本となる大きな柱は、正しいことの習慣化と周囲と上手に依存できるようになることです。

これさえできれば、「類は友をよぶ」という言葉のとおり、友だち関係で大きく悩む心配もなく、社会にでて上手くやっていかれるようになるのです。

悪い親は、あの子は、友だちが悪いからああなんだと、友だちのせいにしています。

それでは、親子の距離の方が離れていきます。

それならどうしたらよいのかということです。

今からできることは、以前にも話しましたが「育て直し」をすることなのです。

全く子育てへの意識がなくなってしまった親には無理かもしれません。

しかし、可能にしていくには意識を持ち、そうなるよう願うことから始めるのです。

それをしないで、子どもが勝手に育つには親を超える素晴らし人材や環境にどっぷりと浸っていくしかありません。

そんなものは、当たるも八卦、はずれるも八卦とでもいうか、しかし、お金はたくさんかかるようです。

子どもを育てられる最高の人材は、やはり親なのです。

では、どう育て直していくかです。

子どもが育つよい環境とは何なのかをしっかり学んでいくことです。

戻せば、妊娠前からになりますが、無理なので、私がよく言う第3の誕生「ものごころ」が付き始めたときからの話にします。

生まれてから子どもは、100%手がかかります。

しかし、それは永久ではないのです。

そこでまず、しっかり欲求とか望んでいることを満たしてあげて欲しいのです。

とにかく、手をかけてあげなければならない時期なのです。

しだいに、僕が・・・、私が・・・と自我がでてきます。

自分でやりたいことがで始めるのです。

そこが第3の誕生です。

赤ちゃんだった子どもが人間になろうと成長を見せ始めるときなのです。

そこから正しいことの習慣づけをしていくのです。

まず、明るくなったら起きること。

おはようの挨拶をすること。

身支度をすること。

朝ご飯をちゃんと食べること。

トイレに行って排泄をすること。

昼ご飯を食べること。

夕ご飯を食べること。

お風呂にはいること。

早く寝ること。

睡眠時間を充分にとること、起きる時間から逆算して睡眠時間を充分確保して寝る時間を決めるのです。

睡眠時間を充分にとることは心を満たすうえでとても重要です。

暗くなったら寝るのはなぜか?明るくなったら起きるのはなぜか?これは人間が動物であるからなのです。

先ほど人間の体内時計は1日25時間と話しましたが、これを24時間にリセットできるのは実は夜寝ているときなのです。

特に、10時から夜中の2時を挟んで充分に睡眠をとることが望ましいのです。

大人はまずできていません。

大人の都合に合わせていたら、子どももできるはずがありません。

それでも、保育園や幼稚園に行かなければならないので、無理に起こされます。

そこで、満たされぬ欲求が積み重なっていくのです。

それを大人は、子どものせいにします。

睡眠不足は、寝ないあんたが悪いのだと。

しかし、子どもが自分から寝ますか?

大人が起きていれば、できるだけ起きていようとするものです。

素直に寝るときはよっぽど眠いときぐらいです。

しかし、これも習慣化によって、早寝早起きができるようになっていくのです。

でも最初のうちからは一朝一夕にはいきません。

だから、添い寝をして、本を読み聞かせたり、おとぎ話を聞かせたりして就寝を促していくのです。

睡眠で満たされた子どもは、朝から元気です。

前日の夕ご飯を早い時間に食べていれば、朝はペコペコのはずです。

そうでなければ、病気です。

朝から栄養補給ができていれば、午前中は快活に過ごせます。

昼もペコペコになり、しっかり栄養補給をします。

しっかり日課をこなせば、夕ご飯もよく食べます。

夕ご飯までにちょっと時間が空くからと、甘いおやつを与えすぎると、たちまち夕ご飯を食べなくなってしまい、今度は夜遅くお腹が空くのです。

もし、そこで何かを食べれば、臓器は休まらず、いくら寝ても体が疲れた感じになり、朝ご飯を受け付けぬほどの不快な朝を迎えるのです。

朝から体調不良なのはネガティブな心の最大の要因になります。

ネガティブな心は不安などから余計な心配をし、行動を抑制するようになっていきます。

ネガティブに動くことで不安を感じるようになり、それを予防するため、行動を起こさなくなっていくのです。

不登校やひきこもりはそういったネガティブな朝が影響しています。

また、ネガティブな朝がまだ夢の中の世界であったら、それは完全に昼夜逆転状態です。

24時間時計にいつリセットするのか、それが親子で取り組むべき課題でもあります。

快活な子どもはその時間はとっくに起きています。

規則正しい時間の過ごし方が重要なのです。

そして、その方法は、親と過ごし、親の関わりの中から体が覚え、体にしみこませていくしかないのです。

お金をかけるのではなく、手入れをすることなのです。

その手入れをする作業も20年もしないうちに終わっていくのです。

正しい時間の過ごし方、楽しい親子のふれあいの中から自立した大人に育っていくのです。

小さな約束をこなしていくこと、正しい習慣を身につけること、親子の信頼関係はその積み重ねによって確実なものになっていくのです。

親が向き合おうとしない限り、子どもからは向き合うことができず、親が変わろうとしない限り、子どもが変わることはとてもとても難しいことなのです。

 まず、親としてできること、正しい生活習慣の中で一緒に過ごすこと。

それを守りながら、子どもとの約束をひとつひとつ守り、そして、子どもの欲求をひとつひとつ満たしてあげることなのです。
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by ikenosai | 2008-12-26 20:58 | 親の通信簿 | Comments(0)

子どものゲーム依存は向き合わなかった親への課題

 学校に行くこともできず外にも出られないといった問題を抱える子どもたちの中で、なかなか改善にいたらないと悩んでいる親は多いようです。

そんな子どもたちに共通していることのひとつに、育ってきた環境の中にコンピューターゲームが深く影響していることがあげられます。

うちの子はゲームをやらない、パソコンもいじらない、携帯電話も持っていないとおっしゃる方もいらっしゃることと思います。

それでも不登校だったり、ひきこもりだったりするのはなぜなのか、一言で言えば、成長や発達段階に合わせた親の適切な関わりと心の充実につながる魅力的な何かが与えられなかったことが、大きく影響しています。

お母さんだけの力ではできないこと、お父さんやその他の家族、近所や地域の人々によっても子どもの心は成長していくのです。

心と心を結ぶコミュニケーションと魅了されるものが何であるかがその後の成長に影響を与えていきます。

なので、そういったこともふまえて、子どもの成長を支えてあげられる存在になっていただきたいのです。

お母さんだけでなく、お父さんも、家族の人たちもです。

そういった中で、依存性の強いゲームの中で育った子どもたちの問題をとりあげさせていただきます。

特に、幼少期から思春期までどっぷりとゲームに浸かってしまい現実世界の楽しみ方が分からないまま経過している子どもたちの問題についてです。

私が育った時代は、コンピューターゲームは高嶺の花で裕福な家庭にしかありませんでした。

せいぜい、野球盤とかオセロゲームが主流の時代でした。

遊びといえば、魚釣りや泥団子をぶつけ合う戦争ごっこなどでした。

その他には工事現場や空き地などで隠れん坊をしたりすることも多かったです。

集団の場合は野球やサッカーもしていました。

手取り足取り教わったせいか、左利きの私ですが打つのは右打ちになっていました。

小学校2~3年生で近所のお兄さんたちから釣りの手ほどきを受け、しだいに自分で釣り具を集めるのが趣味になっていきました。

近くの小川や池で鮒や鯉を釣り、下手は下手なりにも何匹か釣っていくうちにその魅力に引き込まれていったのです。

寒い冬でも、防寒し、たなごや鯉を1日かけて釣ったりしました。

穴場を見つけ、そこで名人級のおじさんたちに極意を教わったりもしました。

朝から暗くなるまで釣りばっかりしていたのをよく思い出します。

中学生になって、通学用の自転車を買ってもらってからは、遠くまで釣りにいくことが増えました。

はるばる岡山と鳥取との県境までヤマメやアマゴを釣りにいきました。

夜が明ける前に家を出て静かな渓谷で釣ったこともありました。

全くつれない日もありました。

ブラックバスを釣りに遠くの池までいったこともありました。

とにかく釣りに魅了され、私は釣りばかりの日々でした。

当時、「釣りキチ三平」というマンガが流行ったのも影響してか、釣り仲間が結構たくさんいました。

ルービックキューブや任天堂のゲームウォッチが登場しても、釣りはやめませんでした。

高校になって、ファミコンが登場します。

ある日、仲の良かった後輩と彼の友だちの家に遊びにいきました。

そこで初めてファミコンをやりました。

最初にやったのはゴルフだったと思います。

その日以来、どうしてもファミコンが欲しくなって、冬休みにアルバイトをしてファミコンを買ったのです。

当時は、予約してもすぐには手に入らないほどの人気でした。

マイナーな玩具店が予約してすぐ手にはいるという噂を聞き、予約して買ったのです。

日に日にゲームのソフトを増やし、あっという間に10本ほどになりました。

休日は朝から晩までやっていました。

父も母もあきれていました。

友だちや後輩が遊びに来て一日中一緒にゲームをしました。

マリオブラザーズがまだ中心だったころです。

スーパマリオはまだ登場していませんでした。

ひとりでやるゲームよりふたり同時にやるゲームが主流でした。

私も考えて、友だちはひとりずつ家に呼んで遊びました。

高校2年生の春休みが私にとってはゲームの全盛期でした。

それから、半年ほど経ってみると、ゲームはあまりやらなくなっていました。

夏休みは、中国地方を自転車で一周する旅に出かけ、クラブ活動にも一生懸命取り組んでいました。

私には、体を動かす、スポーツの方がはるかに楽しかったのです。

無用になったので、ファミコン本体にゲームソフトをたくさん付けて汽車で通っていた通学仲間に2万円で売ったのです。

その仲間はとても喜んでゲームをやっていましたが、やはり飽きて、次の人に3万円で売ったそうです。

その後、ファミコンがなくなっても何も困ることはありませんでした。

父は笑いながら「ゲームはもう卒業か」と言っていました。

それでも依存していた人が大勢いました。

その人たちがその後のゲーム業界を支えたユーザーだと思います。

私にはコンピューターゲーム以上に私を魅了するものがたくさんあったのだと思います。

なので、その後のゲームの話題にはほとんどついていけません。

幼少期から少年期にかけてコンピューターゲームにどっぷりと浸かってしまい、それに魅了されるようになったら、依存性が強く、なかなか抜けられなくなるのは当然のことでしょう。

パチンコに依存する人とよく似たところもあります。

パソコンもケイタイもメールだけでなく色々なものに依存し影響されるのです。

大人ですらアルコールやたばこに依存してしまって抜けられないなんてこともよく聞きます。

大人が関わってコントロールできる年齢ならまだ改善の余地はあるのですが、それをこえてしまったら、命がけで関わる覚悟が必要になります。

しかも、それで治るという保証はありません。

依存しすぎてしまえば、それは家族よりも大切な存在といえるのです。

家族よりも魅了し、癒してくれるからなのです。

そばにあって、楽しくて安心できる存在なのです。

若いうち、特に小学生や中学生のころから依存症になってその後に悪い影響を与えるようなものは、できるだけ近づけないなどの工夫や与えないですむ環境を用意してあげなければならないのです。

結局のところは親が子どもをしっかり遊んであげて現実的なものに魅了される喜びを体験させてあげることなのです。

それを小さなころからしてあげることが今の社会の波に流されない幸せな生き方につながっていくのです。

 子どもにコンピューターゲームを与えれば、その場は大人しく、静かに過ごしてくれることでしょう。

電車の中でもゲームに夢中になっている子どもをたくさん見かけます。

その横で、母親はメールに夢中です。

それぞれが好きなことをやっていて、そのときは楽しいかもしれません。

しかし、そのままではいつまでも子どもの心を引き寄せることができないままでいるのです。

子どもとの信頼関係はなるべく小さいうちから関わってつくりあげていくものなのです。

思春期で子どもの成長が著しいとき、不安で揺れる心の中ではそれまで向き合おうとしなかった親の言うことなど信頼してくれるはずがありません。

真剣に向き合った時間の量だけ子どもは親を信頼するものです。

それなのに、中学生になって成績が下がったとか、悪い仲間と過ごしているだとか、言うことを聞かなくなったと不満を嘆いても遅いのです。

子どもの一番欲していたもの(信頼関係)をずっと先送りにしてきた親へのツケなのです。

子育てが大変な時期でもなおざりにしなかった親とどうにかなるだろうとものやお金だけに頼って向き合おうとしなかった親とでは子どもとの関係にも差は出ます。

結局のところ親たちの都合で今の子どもたちが育ってきていて、本当は何が楽しい遊びなのかが分からないままなのです。

それを先輩たちからも教わっていない、大人たちからも教わっていないとなると遊び方すら分からないのです。

そんな中で、ひとりでも何でもできるような遊びとなると、コンピューターゲームになってしまいます。

ゲームのやり方が分かってくると本当に面白く魅了されていきます。

かつて、魅了されるほどの遊びを経験していない子どもには最高の遊び相手になるのです。

そして、そんな子どもたちの夢を叶えてくれるのがバーチャルな世界なのです。

しかし、ゲームの世界は現実ではありません。

だから考え方も安易になり、自分の都合だけで何でもやるようになっていくのです。

ゲームの世界は明確に自分が主人公になれるのです。

野球をしても、エースピッチャーで、スラッガー。

サッカーをしても、エースストライカーで鉄壁のゴールキーパーになれるのです。

上手くなればなるほどゲームの中だけの達成感が増大していきます。

そういった環境で育って、同世代と遊べなくなった高校生が児童館に現れたりします。

年下の小学生とだと優越に浸れて、満足感が得られるからなのです。

ボランティアでくる子は別ですが。

精神年齢が低いまま大人になろうとしているのがよく分かります。

人間同士のコミュニケーションがないまま社会性が育っていないのです。

ゲームの恐ろしいところは、嫌ならリセットすることが簡単にできるのです。

不登校やひきこもりはまさにリセットボタンを押している子どもたちなのです。

そこから再スタートなんてことは最初から子育てをするより難しいのです。

それでも責任をもって自分の子どもを育てていかなければ本当の親にはなれないのです。

あまりにもドロップアウトしている親が私の知っている世界には多すぎる。

そんな親の育てる子どもの中には弁当すら持たせてもらえず学校に通ってきています。

専業主婦で、昼前に起床する母親もいます。

学校に行けば面倒をみてくれると勘違いしているのです。

学校でいくら正しい習慣を促し、実践しても結局、家でだらしない母親にリセットされてしまっていれば学校での関わりは生かされません。

小さな欲求が満たされないままの積み重ねと、好奇心をふくらますことをしなくなってしまった子どもたちにコミュニケーションの希薄さまでも加われば、自己表現なんて上手くできるはずもありません。

作文が苦手で、自己表現が苦手な子どもが増えています。

そんな状況では、友だちづくりや社会へ順応していくことがとても困難になっていくことは誰にでも予想がつくのではないでしょうか。

外見だけでは見えにくい心の中の基礎工事は、乳幼児期から少年期にかけて親がすべき大切なことなのです。

それを大人しくしているからとゲームやビデオに子育てをさせていたら、人間の心の内など解るはずがないのです。

人間は、人々の中でそれぞれの心の内を解ろうとし合い、いかに上手に依存しあえるようになるかが、大人になるための課題であり、それぞれができること、それぞれの能力を発揮できる環境で生かされていくことが幸福へとつながっていくのです。

子どもをそういうふうに育てていくことが、親にとっては徳を積む人間らしい生き方になるのです。

それが親の幸福にもつながっていくのです。

子育てが楽になるからとゲームをさせるのは、親の怠慢にしか過ぎないのです。
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by ikenosai | 2008-12-19 17:24 | 親の通信簿 | Comments(0)

臨終のそばで


 私が17才、まだ高校2年生のときだった。

長かった夏休みが終わるころ、寝たきりだった祖母が母に言いたい放題わがままを言っている。

最初は我慢していた母だったが、我慢できずとうとう祖母に怒り始めたのである。

この嫁と姑の関係はドラマで見るのとなんら変わりない。

私と姉は母を気の毒に思い、密かに母側につき、なだめていた。

ふすまごしに母が祖母に優しい言葉遣いで反論していた。

しゃべるだけで体がどうにもならない祖母は少し苛立っていた感じが言葉言葉に感じられた。

祖母は、3年前の夏風邪以来寝込んでしまい、治ったものの肥満の影響で歩けなくなっていた。

老人ホームなどの施設には絶対に入りたくないという配慮から、母が献身的に介護をしていたのである。

祖母には、7人の子がいて、私の父を一番目に、次男、長女、三男、四男、次女、五男と続いた。

近所に、長女が住んでいたが、あてにはできぬ。

母もそう思って、あてにはしなかった。

隣に四男の嫁がいて、毎晩、清拭介助のときは手伝いにきてくれていた。

どうみても、母が長男の嫁としてただひたすらに我が家を盛り立てていた。

そんな母も、限界にきていたのだろう。

しかし、母は偉い。

祖母と必死で仲直りするきっかけを探している。

何て、素晴らしい母なのだろうと思った。

普通なら、ぶち切れてストライキでも慣行するだろう。

それでも、母は祖母に歩みよっているのである。

やがて時間が経つにつれ、祖母の気持ちに変化がみられた。

私は、そんな光景を初めて見た。

祖母が母に謝っているのである。

そして、仲直りしている。

祖母と心をかよわせ介護をしている母が私にはずいぶんと立派な大人に見えた。

それから数日後、祖母は意識が遠のき始め、昏睡状態になっていった。

大阪から叔母が帰ってきた。

学校の帰り、ばったり駅で叔母にあった。

相変わらずの大きなかばんを私に差し出し、一緒に家まで歩いて帰った。

叔母は祖母のそばで1日を過ごした。

いよいよ大阪に帰るころ、祖母に話しかけている。

いくら言葉をかけても祖母は荒い呼吸しかできず、しかも昏睡状態である。

叔母が、泣き声になっていた。

「お母さん、何とか言って、答えてよ」

叔母は必死で祖母に返事を求めていた。

そして、これが今生のお別れになることなどまだ分からなかった。

そばで私は泣きそうになっていた。

翌日も祖母の昏睡状態は続いていた。

父はもうあきらめていた。

祖母の死はもうそこまできていると。

家の中のふすまを全部外し、納屋に運び始めた。

そして、親戚中が集まり始めた。

ひとりひとりが祖母の手を順番に握り、話しかけていた。

父の弟妹や私のいとこが集まって、それぞれに祖母に語りかけている。

祖母は昏睡状態のまま荒い呼吸を続けていた。

父も母も叔父も叔母も私のいとこたちももう祖母の死を覚悟していた。

それでも必死で祖母に言葉をかけていた。

父のいとこの奥さんが、祖母の手を握りながら、「おばさん、おばさん」と言葉をかけている。

祖母の荒い呼吸が止まった。

まぶたを強く閉じ、手を握る奥さんの手を強く握りかえした。

「おばさん、どうしたの」と一瞬驚いた様子だった。

みんなが集まってきた。

祖母の目尻から一粒の涙が落ちた。

まだ、まぶたがふるえていた。

しばらくして、動きが止まって、手の力もなくなった。

奥さんが、みんなを呼んでいる。

とうとうお別れのときがきた。

母は、そのときの時間を確認し、ホームドクターに電話をかけた。

しばらくして、ドクターがやってきた。

祖母の、手の脈や目を開けて瞳孔を確認して、「ご臨終です」といった。

ドクターは、ポケットからハンカチを出し、しばらく泣いていた。

初老のジェントルマンだった。

やさしくて、素敵なドクターだった。

祖母が寝たきりになって3年間。

週に2回ほど往診にいらしてくださった。

私がおたふく風邪と髄膜炎で苦しんでいるときも連日往診にいらしてくださった。

ドクターは祖母に向かい手を合わせお別れの言葉をつぶやいていた。

みんなが祖母のところへきて泣き始めた。

叔父や叔母、いとこがきてすすり泣いていた。

遠い親戚もきた。

長女である叔母は近所に嫁いでいたが、忙しくて祖母の介護はほとんどできていなかった。

そんな叔母が、祖母の布団に顔を寄せて大声で泣いていた。

「お母さんごめんなさい、何もしてあげられなくて。」

「許して、お母さん。」

と声をからし泣いていた。

母は、別の部屋で静かにうつむいていた。

おそらく、これまでの祖母との思い出や、介護のことを回想していたのかもしれない。

大阪の叔母が今度は家族で戻ってきた。

数日前に危篤状態の祖母に必死で言葉をかけていた叔母だった。

通夜が過ぎ、告別式も終わった。

火葬場で、とうとうみんなでお別れをした。

祖母は、薄黒い煙になって天国に旅立った。

私は、高校2年生だった。

祖母がいなくなって寂しかったがそんなに深く祖母の死を考えはしなかった。

しかし、大人になってまじめに命の勉強に取り組んでいて、両親、4人の祖父母、そして、たくさんの先祖のことを考えていたら、涙がこみあげてきた。

私に命を与えてくれた先祖たち。

その中のひとりでも欠けていたら、私は今この世にはいないのだと思い、両親をはじめ祖父母、それから全ての先祖に感謝の気持ちがこみあげてきた。

私はこの人たちの営みの末裔であること、この人たちの思っていたこと、願っていることを大切に考えて生きていかなければと思うようになった。

そう考えると、あと少し、せめて大学生になった私を祖母には見て欲しかった。

翌日は母の誕生日だった。

姉とお金を出し合って、ささやかながら母にショートケーキを買って帰った。

誰にも言わないで静かに母の41才の誕生日を祝った。

もうすぐ私もそのときの母と同じ年を迎える。

母は偉い、母は素晴らしい、母は誰にでも優しい、そんな母の子に生まれて幸せだと思う。

祖母が、亡くなって、1年半後、私は東京の大学に進学した。

賑やかだった家がだんだん静かな家になっていった。

姉から届いた手紙には、何だか寂しい、静かな食卓に私がいない現実があり、まだ信じられない感じがすると書いてあった。

1年経ち、2年経てばそれも現実として普通に変わっていった。

そして、私は東京の人間になった。

祖母が亡くなってからも、あの紳士のドクターにお世話になった。

大学で上京するときにはお祝いをいただいた。

どうやら、東京の医大で学んでいたらしく、お茶の水から市ヶ谷あたりで過ごしていたころのことを話してくれたことがあった。

教員採用試験で胃を患ったときも、親身になって世話をしてくださった。

仕事がないなら、近所の高校の嘱託でも話をすすめようかなんて心配してくださった。

再び上京し、結婚したときも、お祝いをいただいた。

毎年、年賀状であいさつだけは欠かさなかった。

祖母が天国にいってから20年ほど経っていた。

ドクターの奥様から喪中葉書が届いた。

私は、驚いた。

そして、悲しんだ。

すぐに、奥様へ手紙を送った。

ドクターとの思い出話と、本当にお世話になったことをしたためた。

こんな素晴らしいドクターが、私の故郷にいて、我が家のホームドクターだったことに深く感謝した。

すぐに奥様から返事が届いた。

達筆な昔の人の書き方で書かれていた。

主人も天国で喜んでいることでしょう。

手紙を読んでいて、何度も何度も涙が溢れてきたそうで、医者冥利に尽きると奥様は書かれていた。

私は嬉しかった。

奥様に私の思いが伝わって。

ドクターも今ごろ、お世話した祖母たちに会っているのだろう。

そう思いながらご冥福を祈った。



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by ikenosai | 2008-12-16 23:42 | お父さんお母さん | Comments(0)

心の根っこは育っていますか?

 今、子育てをしている親の世代は心の根っこの育ちにくい子育てを受けてしまっている可能性が非常に高いと思われます。

その背景には、便利が優先された大人の都合で子育てがおこなわれたことがあげられます。

以前、「育て直し」をテーマにしましたが、この親子二代にわたっておこなわれてきた世代間連鎖が実は今の社会に大きなひずみをあたえているようです。

根っこの育たぬ子育ての原因のひとつには、抱き癖がつくから抱っこしないとか、少々泣いても夜は寝かせて昼間だけ授乳をしたりして、大人の都合で子育てをし、育児書どおりに見ていればそれで良い。

あたかもそれが絶対であるかのような子育てをしてしまったところに子どもの根っこが育たぬ原因があるようです。

専門家の方たちの話によりますと、子育てで大切なのは、乳児のときに欲求を満たしてあげることだそうです。

それが大人への信頼につながるのだそうです。

それはなぜか?赤ちゃんは100パーセント援助が必要だからです。

自分の力では何もできません。

だから、援助の必要なときは泣いてうったえるのです。

泣くということは、あきらめないで忍耐強く要求をしているということなのです。

抱き癖がつくからという理由で抱かないでいると、しだいに赤ちゃんはあきらめてしまい、やがて泣かなくなります。

何日かかるかは個人差があります。

そこであきらめないで泣いている子は本質的には根気があり、あきらめない子であるといえるのです。

空腹を満たそうと必死だから泣くのであり、それは生きようとする力につながっているのです。

しかし、一方で泣くのをやめ、あきらめてしまった子はその後、無気力になり、大人への信頼感や自分を信じる力を大きく弱めていくようです。

ものわかりが良い、育てやすいなんて思っていたら根っこのないまま思春期を迎え、やがて大人になっていくのです。

最近、子育てをしている親御さんにも気になるところが多くあります。

子育てに対する根気や情熱がアンバランスなことです。

一貫性のない感情的な関わり、子どもの前でキレてしまったり、強く怒鳴ったり、叩いたりする関わりは、子どもを不安にしていきます。

その根っこをつくる時期を不安定に過ごしてしまったら、心身を支える根っこが育たないのです。

子どもは3回生まれてきます。

最初は母親の胎内に、次は出産のとき、そして、その次は人格が備わるときです。

僕が・・・、私が・・・と自分を主張するようになったときです。

そのときが、天使から人間に変わるときです。

見ているだけで可愛かった子どもが急に生意気に感じるようになるときです。

それまでに、子どもへの愛情を育んでいないと子どもを受け入れられる(親としての)意識は小さいままなのです。

天使のときはまだ自分の力で自分のことができないときです。

そのときにどう親が関わったかがその後の信頼関係の基礎となるのです。

自我がではじめたときから、正しいことを習慣化できるよう育てていくことが根っこをさらに太くし、成長を支えることになるのです。

途中から学校に行けない、外へ出て行けない、人と関わりたくないなんて言いはじめたら、まずそのことを念頭において色々なことを思い出していくことも改善へのカギとなるでしょう。

そして、気づいた時点から「育て直し」の発想で関わっていくことです。

もし、原因がそれだけではないようなら、学校や友だちとの関係で何があったかをじっくり聴いてあげることも必要です。

もしかしたら、ひどいいじめに遭っている場合もあります。

しかし、この問題も親子の信頼関係と生きるための強い根っこが育っていないと改善には時間がかかるようです。

学校や友だちとの問題は、しっかり学校側とも話し合い、それでもだめなら「孟母三遷」です。

厳しいいい方ですが、最近は中学校の一部でも改善への意識や意欲が薄い先生がいたり、大勢の生徒をまとめる力不足の先生も存在しています。

また、地域によってはそれぞれの生徒の家庭環境が著しくひどいことも重なったりして全体が不安定になっている状況もあり、一筋縄ではいかないこともあるようです。

結果を悔いて誰かの責任にしても解決にはつながりません。

いくら、責任をとってくれてもこれまでの不幸は消せません。

大切なのはこれからなのです。

その中で環境を変えたり、意識を変えていくことは改善へのきっかけになっていくことでしょう。
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by ikenosai | 2008-12-13 00:57 | 親の通信簿 | Comments(0)

世のため、人のための基本は家族から

 利己主義の子育てが蔓延る昨今、楽で便利な生活を追求し、あたかもそれが幸せであると思いこんでしまっている。

小さいうちから、お手伝いをすすめても、そこにお駄賃や小遣いの条件を付けてしまい、利益にならないことは、世の中の仕事でないという価値を早期教育している。

人間は、誰かの役に立っているとか、人が喜ぶことができたという達成感などから、幸福感が生まれてくる。

楽して、まして誰かが損しても構わないで自分の利益だけを追求する生き方をいつの間にか教えている親たちが多い。

PTAの役員なんて誰もしたがらない時代、もし、高額の手当が支給されるとなると、希望者は殺到するはずである。

自治会の草取りやドブ掃除だって、有志を募れば、ほとんど集まらない。

地域によっては、欠席者にペナルティーとして何千円かを課すなどして、どうにか集めようとしているところもある。

しかし、そんなんで集まった集団は、たいして役には立たない。

その姿を子どもは見て育つ。

先日、私が知っている学校の父兄会の運営で問題があった。

細々と通信費などのために年会費を徴収することになっていたが、忘年会を役員だけで開催する話を聞いて、そこの費用を年会費の中から出そうとしていたのには驚いた。

有志でやっていたはずが、段々おかしな方向になっている。

親の心を子どもたちは映し出している。

親たちのそんな行動は、やがて思春期まっただ中の子どもたちの心に大きく影響していく。

世のため人のために生きて行くにも、生活するのに必要なお金をどうにか稼ぐ必要がある。

しかし、それをこえたお金の使い方を子どもたちはしっかり見ている。

友だちの引っ越しを手伝った子どもたちの中から請求書が出たことがあった。

その請求の内容に手伝った人件費の請求があった。

しかも、金額的には通常のアルバイト並みの金額だった。

それ以来、友だち関係、友だちの親同士の関係が崩壊してしまった。

友だちは、お金でつくるものではない。

友だちは、無償の心と心とで価値を育む関係から友情ができ、本当の意味での友だちになっていく。

親の余計な入れ知恵は、子どもたちのできつつあった友情にもこんな大きな亀裂を残してしまった。

残念なできごとだった。
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by ikenosai | 2008-12-10 04:52 | 私的視点 | Comments(0)

君子ガ豹変セネバ

 学校に行きたくない、外へ出られない。

といった問題を抱えている生徒たちと向き合う中で、この問題を解決するカギが何であるかがはっきりしてきました。

完全にひきこもってしまっている子どもの心の内側にはどうやら不安定になってしまっている母親の存在があるようです。

そして、その母親を支えなければならないのが実は父親なのです。

変わらぬ父親の存在は母子家庭よりも厄介です。

母子家庭でもお母さんの心が元気であれば、子どもは大丈夫です。

昔は働いているだけでいいといわれていた父親でしたが、社会においてあるいは家庭においても孤立しがちな母親には父親の理解が重要になるのです。

父親がいる家庭であるならば、父親が母親を大切に思い、互いに理解し合っている様子に子どもは安心するのです。

それは大家族でもいえることです。

舅(しゅうと)と姑(しゅうとめ)に厳しくされたり、きつくあたられたり、冷たくされたりして不安な気持ちになってしまっている母親に誰が心をよせ、話を聴き、理解してあげられるのでしょうか。

こんな気持ちが10年も続いたらどうなることでしょう。

孤立したままでは誰だっておかしくなっていくものです。

今こそ「君子ハ豹変ス」なのです。

父親が変わるのです。

父親が母親を理解し、愛しむのです。

そして、家族でつながり合うことなのです。

その姿をみて子どもは安心し変われるのです。

そして、その上で環境も考える必要があるようです。

状況によっては「孟母三遷」なのです。

その意識改革がなければいつまでも子どもの不安は取り除けないままなのです。

大切なのは子どもを変えるのではなく親が変わることなのです。

その中でも一家の主(あるじ)が元気で優しい、安心できる存在に変わることを子どもは切に望んでいるのです。
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by ikenosai | 2008-12-05 21:20 | 親の通信簿 | Comments(0)

思春期におたふく風邪

 中学3年の時、おたふく風邪にかかった。

いとこの通う保育園で流行し、やがて私にもうつった。

頬の下の辺りが膨れてきて、段々見てくれが悪くなってきた。

そして、体を動かすのも辛くなってきて、数日間は学校を休むことになった。

当時、寝たきりの祖母を訪問に来るドクターが、私を気遣い連日の往診をしてくれた。

やさしいドクターの往診にとても感謝した。

1週間が経って、症状も落ち着き、来週から学校に行っても良いでしょうと言われ、私は食べたいものをリクエストし、母は夕食に出してくれた。

鯛の刺身に、すき焼きだった。

めっきり免疫力の低下していた私だったが、そんなことはすっかり忘れていた。

その日の夕食後、久しぶりの風呂からあがって、すっきりしていたら、体がかゆくなってきて、あっという間にじんま疹におそわれた。

体中がかゆくてかゆくて、かいてかいてその日のうちにエレファントマンのようになってしまった。

結局、次の週も連日休んだ。

難解な症状にドクターは往診を重ね、数日後に髄膜炎であることが解った。

おたふく風邪に続いて、髄膜炎を引き起こし、めっきりやせて、気持ちも萎えていた。

その間には中学校で運動会もあったが、見学することすらできず、家で寝ていた。

友だちも心配し、見舞いにきてくれたが、じんま疹だらけの不細工な顔にもかかわらず必死で愛想をふりまいた。

運動会にはでたかった。

勉強は苦手だったが、成長期のまっただ中で運動だけは誰にも負けない自信があった。

空白の2週間。

卒業アルバムを見ても、運動会の写真には全く見覚えがない。

あれだけ毎日休まずいっていた自分にとって、空白ができたことがショックだった。

2週間ほとんど動くこともできず、ぐったりと布団の中に横たわっていた。

母がテレビでも観られればと居間に布団を敷いてくれた。

隣の部屋では寝たきりの祖母がいた。

ふすまごしに私を気遣ってか、よく言葉を掛けてくれた。

めっきり参ってしまっていた私は、寝込んだ初日から昼間はずっとテレビばかり観ていた。

昼間のテレビは、あまり興味がわかなかったが、何となく観ていたら、2時から「木枯らし紋次郎」の再放送が始まった。

それは、私が寝込んでからずっと、月曜から金曜日までやっていた。

退屈なはずだった私は、翌日も、その翌日も2時になるのが待ち遠しかった。

市川崑監督の味のある作品だった。

紋次郎の人間性に不思議な魅力を感じた。

ただの渡世人に見えたが、生い立ちにすごく暗い影を持っている。

当時の赤ん坊は穀潰しのように扱われ、家族の定員をオーバーするとまびかれていた。

貧農の住む里山にはまびき地蔵があり、紋次郎もそうなるはずだった。

しかし、どういう訳か生きながらえた。

小さい頃から、おまえはまびかれるはずだったと兄姉から言われ続けて、思春期を迎えた紋次郎は家を出ていく。

誰とも関わろうとはしない彼が、最後に何とも言えない人間らしい後味を残して番組が終わる。

原作の笹沢佐保、市川崑監督の絶妙さに加え、どろどろとした鈍い殺陣のシーン。

1つ1つにこだわりがあり、関わったスタッフの熱意が伝わってくる。

地味に紋次郎を演じる中村敦夫が非常に魅力的である。

ドラマ自体が卓越した作品になっていて、回を重ねるごとにその魅力にどっぷりと浸かってしまった。

2週間もの間、病の床で何もできなかった私にとって、この紋次郎の時間は唯一の楽しみの時間だった。

思春期のおたふく風邪は、その後にも心配を残した。

それは、私が子どもを授かるまで続いた。

妻の妊娠の知らせに、私の両親は本当に喜んでくれた。

今でも、中村敦夫をテレビで見かけると、私は木枯らし紋次郎を思い出し、当時の闘病の日々と、今は亡き我が家のホームドクターを思い出す。

今年は、市川崑監督が天に召された。

素晴らしい作品の数々に感謝し、心よりご冥福を祈る。

そしてまた、昭和の巨匠が去り、1つの時代が過ぎ去っていった。
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by ikenosai | 2008-12-04 05:22 | 思い出のポケット | Comments(1)