「ほっ」と。キャンペーン

いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
by ikenosai
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終戦のエンペラー
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ドリルとパンの思い出

 小学校2年の3学期、明日の終業式が終わると春休みだった。

すでに午前中授業になっていたが、私は残っていた。

たまっているドリルが終わったら帰ってよいとのことだった。

担任は厳しい年配の女の先生だった。

私は、漢字ドリルも計算ドリルも全然手をつけておらず、たっぷり残っていた。

1日、5分から10分やっていれば、とっくに終わっていた。

しかし、遊びほうけてしまい、とても1日では終わりそうもなかった。

何人か残っていたが、30分、1時間と経つにつれ、みんな終わっていった。

周りを見渡すと、もう誰もいなくなっていた。

それでも、私はドリルをただただ黙々とやっていた。

先生が教室から出ていった。

それでも、やらなければとドリルをやっていた。

しばらくして、先生が戻ってきた。

シーンとした静かな教室でストーブの燃える音がわずかに聞こえていた。

袋から小さなパンをいくつか取り出して、ストーブの上にのせて焼き始めた。

ドリルを黙々としていた私の横で、静かに私の様子を見ている先生。

たまってしまっているドリルにあきれていたのではと思う。

パンが焼け始めたころ、ストーブのそばに来なさいと私に声をかけてきた。

いい匂いが漂っていた。

空腹も限界を超えていた私は必死でこらえながらドリルをやっていた。

先生には分かっていたのだろう。

焼けたパンを私の手にのせてくれた。

さあ、食べなさい。

数日前にとっておいた牛乳までも職員室から持ってきてくれていた。

1個食べ終えると、また手にのせてくれた。

さあ、食べなさい。

誰もいない教室で先生とふたりでパンを食べた。

食べ終わると先生が、「ちゃんとやらないとこうなるんだよ。」と苦笑しながら話した。

まだまだ、ドリルは終わらない、それでも先生は帰してくれた。

誰ひとりとして生徒は残っていなかった。

帰り道、色々なことを考えながら帰ったはずなのに今では何1つ覚えていない。

ただ、誰かに会うと恥ずかしいと思いながら隠れるようにして帰ったことだけは感覚として残っている。

先生のことは今でもよく思い出すことがある。

クラス写真を撮るときにみんなに笑顔をリクエストしていた先生。

先生の質問に無言でいると、「ここは唖(おし)の学校じゃないよ」と言われたことも。

恐い高校生が怒鳴り込んできたとき、誰よりも先にその高校生を説得し、諭していた先生。

本当に厳しくって恐いときがある先生だった。

先生は私をしっかりみてくれていた。

何の取り得もない私だったが、作文をほめられたことがあった。

みんな、感性が磨かれた年だったと思う。

生き生きとしていた小学2年生のあのころを今でもよく思い出す。

先生に導かれ、みんなが元気だったあのころを・・・。
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by ikenosai | 2008-11-28 22:00 | 思い出のポケット | Comments(0)

公教育の陰で

 11月に入り、中学校や相談学級など合わせて40箇所を学校案内のため訪問した。

11月は、進路決定のための三者面談が行われ、そのときのアドバイスにタイムリーな時期として訪問した。

今回の4日間の訪問は、胃を患うほどのストレスでもあった。

それでも、誰かがやらなければならない大切な仕事でもあるので、強行した。

1日に約10箇所を訪問すると、稀にエッと思う態度で対応する先生がいる。

これは私の経験上、1~2割くらい存在する。

今、通っている生徒や卒業していった生徒の中には、訪問先の先生が以前に勤められていた中学の生徒である可能性もあり、訪ねてみることがある。

しかし、そんなことは言う必要がないと即座に却下されることもある。

そんな答え方をする先生は、会った時点から無愛想で、私と目すら合わせない。

行政でやっているサポートルームでは、ほかの先生と話が盛り上がっていると、急に怒鳴ってきた室長もいた。

早く、次に行けと怒り出したのである。

心の乱れは誰にでもある。

しかし、教育者としては失格なのではないか。

そんな先生がなぜ、先生になったのか。

私は、先生の資格にについて深く考えた。

最近では、学力重視というのが当たり前で、教員採用試験ですら学力重視である。

コネなんて言うのが、地方では問題となったが、やはり、教師には教師の品格とでも言うべきか、そんな大切なものがあると思う。

相撲では横綱の品格を改めて問うような出来事があったが、教育はそんな程度ではすまされない。

人間を教育するという責任ある仕事を、なあなあな感覚でやってはならない。

そして、この基本精神を培っているのは、やはり、教育する側が過去どのように教育されてきたか、その内容である。

たとえば、中学校の先生が中学時代に素晴らしい先生に出逢い、先生って仕事は素晴らしいと感じて教師になった場合と勉強だけして、安定した給料が入るから教師になった場合とでは、巡り逢った生徒の運命やその後の影響は大きく違ってくる。

高校においても、高校時代が楽しかったと思えた人が教師になるべきだと思う。

現代は、コミュニケーションがまともにできない教師を採用してしまうところが大問題である。

精神的な問題や指導力不足の教師が最近増えている。

本当に教師をしたいのなら、その年齢の時期の楽しさを含め、人生の素晴らしさや、この時期にしかできない面白いことなどを充分に経験した人生の先輩でなければ伝えられるものは少なくなる。

もちろん、苦しみや、悲しみを乗り越えた先に幸せがあることを確実に伝えるための根気や情熱を持った人生の先輩として。

それができなければ、まじめな扱いやすい生徒を集めた塾の先生でもやって、複雑な思春期の生徒たちに関わるのは最初から控えるべきだと思う。

情熱ある教育は連鎖する。

しかし、無気力な教育も連鎖する。

自分の子どもが通う学校にはどちらの教師を望むのか。

それが、学校への要望であり、親として学校とどう向き合うべきかが問われる。

ともに教育していくパートナーとして、学校とどう協調していくか、その意識が、子どもの今後の教育に大きく影響することだけは間違いない。
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by ikenosai | 2008-11-28 21:50 | 私的視点 | Comments(0)

那岐山と故郷の恩師

中学2年になる春休み、無償の恩師に誘われて、那岐山に登った。

無償の恩師は、私の思春期に最も強い影響を与えた人であり、当時から尊敬していた大人のひとりだった。

そんな無償の恩師に連れられ私たち中学生5人は那岐山に向かった。

那岐山は、中国山脈の中でも結構高い山で、東京の大岳山より少し低いくらいの山だった。

そして、我々中学生の初登山にはちょうど良い高さの山でもあった。

鳥取県との県境に位置し、やや兵庫県にも近かった。

空気の澄んだ快晴の日には、北に日本海が、南には瀬戸内海が望めるとのことだった。

麓に10時頃までに着けば、昼過ぎには山頂に到着すると聞いて、大したことはないと思っていた。

しかし、8時に地元を出発して、20キロもの道のりを自転車で行き、そこから登山することになっていた。

飲み物の量も、弁当の量も少し侮っていた感じがした。

それでも、その日は天気も良く何とかなった。

山頂では霞んだ下界が所々に見え、山の高さに圧倒された。

しかも、大昔、この山が海の底であったことを知り、驚いた。

私の知らない世界があまりにも多すぎることを思い知らされた。

初めての登山は、何だか私に大きな自信と冒険心を付けてくれた。

それにしても、無償の恩師の自転車は格好良く、サイクリングには最適の自転車だった。

新学期が始まって、あることから逃れたくて日帰りの家出をして、家族や親戚や学校の先生を困らせたことがあった。

自転車で70キロ先の海まで走った。

しかも、午後からだった。

夏休みには、自転車で津山から兵庫県の相生までサイクリングをした。

再び、無償の恩師に誘われて那岐山に登った。

私は、成長していたのか、前回より元気に山を登っていた。

澄みきった快晴の日だった。

山頂で、尾根を望むと、遙か彼方に大きな目立つ山が見えた。

無償の恩師が言う。

あれは大山だと。

米子から望む大山がこんな岡山の東の方からも見えたことに大いに感激した。

高いところから見ると、世界は小さなもののように見えていた。

無償の恩師は青年海外協力隊でアフリカのマラウイに行った。

農業や養鶏などの技術を現地の人たちに伝えていた。

彼のオリジナルの孵卵器が新聞で紹介され、現地での活躍に感動した。

現地で彼はミスターオカモトと呼ばれていた。

無償の恩師がアフリカに行ってから、私の冒険はひとりで行くことが多くなった。

それでも、友だちやいとこを誘って那岐山にも登ってみた。

大学のときは、夏の帰省のたびに登った。

元気だったので、走って登って、走って降りた。

小学校のとき、誰かが「青い山脈」を歌いながら登校していたとき、私は青く見えていた那岐山とその周辺の山並みが、その歌のモデルになっていると思いこんでいた。

ただひたすら暑い夏と底冷えのする寒い冬。

中国山脈の麓に住む私の思い出には、この那岐山が欠かせない。

いつもどこかで私を見守っている。

しかし、その山の存在をあまり意識することはなかった。

その山に登るまでは。

そして、何度か登っているうちに、那岐山は私のふるさとの山になっていった。





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by ikenosai | 2008-11-28 00:31 | 思い出のポケット | Comments(0)

「やきもの」

 私は、田舎の中学校で教鞭をとっていたが、期限が来て退職し、27歳で再び上京した。

生活保護の施設で、たまたま、陶芸の職員が辞め、欠員があったので、その後釜として就職した。

どうやら、陶芸担当はよく辞めるという噂があった。

陶芸なんてものは、合わない人間には難しいようだった。

専門性のある職員が誰もいないのに私はそこに配置された。

次の週に施設が新築され、引っ越しとなった。

新しい、窯場があり、道具も過去の先輩たちが揃えてくれていた。

何の不自由もなく、陶芸の担当になった。

困ったのは、目の不自由な人たちに指導することくらいだった。

目の不自由な人へどう支援してよいか分からなかった。

電動のロクロなんて誰も使えない。

だから、てびねりやわづみで作製する。

私はその中のてびねりが一番好きになった。

なんと味のある作風だと感嘆した。

私自身がはまっていった。

釉薬の調合も独学で勉強した。

黄瀬戸、織部、志野など。

土灰やわら灰に酸化鉄や銅の粉を入れ、かくはん機で混ぜた。

新築された大きな窯は、火葬場を思わせるほどの大きさで、レールを使って出し入れする最新式のものだった。

酸化焼成や還元焼成を本を見ながらやった。

そのうち、北大路魯山人にはまって、作風を真似だした。

加藤唐九郎の志野茶碗に憧れた。

陶芸は奥が深い。

瀬戸に行って見学をさせてもらったこともある。

次第に、利用者の人たちと私の作風が上手くかみ合い始めた。

竹筒の花入れ、銅鐸型の花入れ、抹茶茶碗、傘立て、大きな壺、千個以上売れた魚型の箸置き。

私は水を得た魚のように仕事をした。

今でも思う。

あれは私の楽園だったのだと。

楽しんでいた仕事の成果は、作品の売り上げにも現れた。

年間で、40万円以上の売り上げになった。

同じセクションの上司にほめられた。

「君は、水を得た魚だ」と。

本当に私は、水を得た魚になっていた。

陶芸の担当でいた3年間は・・・。



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by ikenosai | 2008-11-22 10:33 | 思い出のポケット | Comments(0)

試合ができた日のこと

 以前、定時制・通信制高校の野球部の監督をしていた。

今は、東京都に拠点をおく高校ではなくなったので、東京都の大会には出られなくなった。

全校生徒が40人前後で、色々な問題を抱え、中学時代に不登校だった生徒も少なくない。

まして、半分は女子で入部を希望しても試合には出られない。

野球をしたいという生徒は、いつも9人ギリギリで何とか出場していた。

リーダーシップのとれる者がいれば、少しは上手くなれる生徒もいるが、まともに試合ができるだろうかと心配になる生徒のほうが多かった。

ちょっとした憧れや、気まぐれで野球がしたいと言ってきて、いざ練習になると参加しないで帰ってしまう。

厳しくすれば、学校にすら来なくなる。

あああ、今年も試合ができるだろうかと、年度初めから私の悩みだけがふくらんだ。

今年は、チームが組めるだろうか、それでも試合に出たい生徒がいれば、出してあげたい。

なかなか、上手くいかない中でも、5~6人はいつも練習に出てきた。

試合が近くなって、いよいよ練習に気合いが入り始めた。

しかし、登録したのに来ない生徒がいる。

いつも気まぐれで、無責任なA君。

明日試合だと連絡すると、気乗りしない返事。

それでも、迎えに行くからと伝えておいた。

6人の生徒を乗せる予定で、最初にA君の家に。

案の定、待っていても出てこない。

母に説得を促すが、息子との折り合いが悪いのか、強い口調では言えず、堂々巡りを続けている。

私は、とうとうしびれをきらし、車を路駐して玄関へ。

私の顔を見たA君は、今度は逆ギレ状態で、「絶対いかない」と一言。

野球がやりたいと入部してきたときのことを話し、今日の試合をみんな楽しみにしているのに棄権したら、がっかりするだろうと話す。

「みんなに謝るか?」と言うと、「土下座ぐらいしてやるさ」と凄んでみせる。

そんな見栄を張っても、弱虫なA君にはできるわけない。

すんなり、試合に出たほうが本当は楽なのにと思いながらも、やる気を必死で引き出そうとしていた。

学校で待っている生徒たちから出発時間が限界をこえていると連絡があった。

私の車をあきらめた彼らは、電車に乗って行くことになった。

私はA君に説得をくり返していた。

なかなか受けいれず、意固地になっていて、動こうとしない。

それでも、私はあきらめない。

とうとうA君が根負けして、「行くよ、行けばいいんだろう」と一言。

私は、無言のまま、車にA君ひとりだけを乗せて、試合会場に向かった。

私の第1回戦は無事終了した。

ホッとした。

これで試合に出られる。

もういい、試合に出られればそれでいい。

グランドには、待ちくたびれた8人がいた。

朝ご飯も食べずに急いできた生徒がヘロヘロになって待ってくれていた。

初戦は、都立六本木高校。

人数からいっても、はるかに規模が違う。

それでも、9人揃った。

何とかなる。

運動靴すら持ってこず、私の靴を履いて出たA君。

立ち上がりは良かった。

しかし、ピッチャーが燃料切れになった。

攻撃中の休める時間に、準備しておいたおにぎりを食べさせた。

野球の簡単なルールすら知らなかった生徒も、毎日練習に参加しているうちに、投げたり打ったりできるようになっていた。

速い球に反応し、ヒットも打った。

私もあきらめなかった。

必死で声援を送った。

燃料切れになったピッチャーも次第に息を吹き返した。

勝てる。

あきらめなければ勝てる。

そう思い始めた。

それでも、相手はあきらめない。

点差が縮まってきた。

しかし、下位打線の生徒がタイムリーツーベースを打って、さらに点差が開いた。

みんなが、勝てると思い始めた。

最終回、ピッチャーはへたばっていた。

それでもみんなで声をかけて、何とか投げきった。

そして、試合は終わった。

創設4年目にして、初めて都大会で勝てた。

みんなは抱き合い、握手を交わし喜んだ。

長い1日だった。

みんなはその日1試合だったが、私は2試合分のエネルギーを使った気がした。

嬉しかった。

試合に出られて嬉しかった。

しかも、試合に勝てて本当に嬉しかった。

次の試合は、全国大会の出場校。

A君はもう試合には来なかった。

それでも誰かが加わって、良い試合ができた。

コールド負けではあったが・・・。

どんなことがあっても私はあきらめない。

そこに僅かな可能性があるのなら。

ありがとう、感動をくれた生徒たち。

そして、試合に来てくれたA君。





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by ikenosai | 2008-11-17 15:28 | のぼーる(野球) | Comments(0)

クリスマスの思い出


  大学1年のときからやっていた仕出し弁当屋のバイトを辞めて、三軒茶屋の牛丼屋でバイトを始めたころ、私の1週間後に新たに入ってきたおばさんがいました。

訳あってかそのおばさんはとても苦労人でした。

朝からのバイトで、長い日は8時間以上も働いていました。

夜は夜で渋谷の酒場で銀行や証券会社の管理職を相手に接客業。

最初は、変わったおばさんだなあと思っていましたが、外国人の客がくるとスラスラと英語でメニューを説明し、とてもフレンドリーな接客をしていました。

ご主人の仕事の関係で、オランダに7年いたそうです。

そのとき、人は見かけによらないものだと教えられました。

 19歳、大学2年目のクリスマスイヴは寂しく1人で過ごしました。

毎日、早朝からのバイトで忙しい日々をおくっていた私は、クリスマスどころではない状況の毎日でした。

しかし、いざクリスマスイヴの夜になると賑わう街の雰囲気を横目に段々寂しくなり、アパートに着いたころにはすっかり孤独感におそわれていました。

当時、田舎の後輩がルームメイトでしたが、彼は夜のバイトに出いていたので私は早々に眠りについたのです。

朝、目が覚めて、バイトにいきました。

その日の早番は、おばさんでした。

店に入ると客はちょうど途絶えていたときでした。

笑いながら、「昨日はクリスマス祝ったの?」 なんて言われても、ひとりで過ごしたことが少し恥ずかしくて返事に躊躇していたら、冷蔵庫からラップに包んだショートケーキを皿にのせて、「あんたに食べてほしいから持ってきたよ!」と差し出すのです。

恥ずかしくて、モジモジしている私に、おばさんは笑いながら、潰れかけたケーキのラップをはがしながら、私の前に差し出したのです。

あのときのことは今でもハッキリ覚えています。

こんな私にも誰かが気にかけてくれている。

そう思いながら、潰れかけていたケーキを噛みしめていました。

隙間だらけの私の心にそっと寄り添ってくれた優しい母のような人でした。
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by ikenosai | 2008-11-13 10:41 | 思い出のポケット | Comments(0)

“子煩悩”だった森鴎外


  父は人の気持について、実に微妙な、同情深い心を持っていた。

その人の欠点、ひけめ、そうしたものに少しでも触れる事を非常に憎み、かつ怖れた。

 母が子どもたちを叱責するような場合、その子どもの容貌だとか、その他の欠点に触れるような事が少しでもあると、父はたとい自分の子どもに対してであってもそう言う事を言うものではないと言ってよく怒った。



 上の文章は、森鴎外の次女、小堀杏奴さんの著書『晩年の父』の中に出てきます。

父としての鴎外は、その当時としては珍しいほど子どもたちに対してあたかい接し方をしていました。

幼い子どもたちが寝るときに、鴎外の手を子どもが握って安心して眠りにつく。

寝入るとまた書斎に戻っていって仕事をしました。

子どもが話す長々としたおとぎ話を喜んで微笑みを浮かべながら聞くのです。

こうした子どもの世界に同じように浸って話をしたのは、教育的な配慮もあってのことでした。

妻に対して、「お前はもっと子どもの話を一生懸命に聞いてやらなくてはいけない。

大きくなるほど子どもは親に何でも話せるようにして置かないと、思いがけない間違いが起こるものだ」と言っていたそうです。

鴎外は、陸軍の軍医総監を務めた軍人であり、家でもよく軍服をきたまま過ごしたそうですが、心は物静かで柔らかな人物だったようです。
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by ikenosai | 2008-11-09 09:51 | 温故知新 | Comments(0)

 「テレビ」“楽しくもあり、恐ろしくもあり”

以前に私は胃潰瘍ということで、胃の切除手術を受けました。

術後、読書はだめ、手紙は書くなということで安静にしていました。

少しよくなったとき、テレビならよろしいということで、初めてテレビを買ったのです。

14インチのカラーテレビです。

ちょうど、キャンディーズの解散の日でした。

それから2か月というものは、毎日毎晩、ずっとテレビに釘付けになりました。

朝がくるのが待ち遠しかったのです。

すべてのチャンネルの、すべての番組は1通り見ました。

初期のころは、いわゆる文化教養番組をよく見ましたが、だんだんと娯楽番組に移っていきました。

タレントの顔も名前もみな覚えました。

退院してからも、3か月間、自宅で療養していましたが、毎日毎晩、テレビばかり見ていました。

まとまった本を読まなければとか、頼まれていた原稿を早く書き上げなくっちゃと思いながらも、すべて手つかずでした。

テレビ一辺倒のくらしになってしまったのです。

テレビって、こわいものだと思いました。

多少とも面倒なことは、一切やらなくなってしまうのです。

だから、テレビ中毒の子に、いくら勉強させようとしても、決して本気になってくれません。

日に2時間以上見ている子は、中度の中毒患者であり、4時間も見ている子は、重症のテレビ中毒患者です。

家族全員がテレビ病にかかっておれば、気づく者はいません。みんな平気でタノシンデいるわけです。



※百マス計算誕生から40年、発案者の(故)岸本裕史さんの著書「見える学力、見えない学力」の中に出てくる文章です。

この本は四半世紀も前に出版され、10年前、改訂版が出るほどの大ベストセラーとなった素晴らしい本です。

この本を参考に学校教育を進めたのが陰山英男さんです。
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by ikenosai | 2008-11-09 09:48 | 温故知新 | Comments(0)

 母の海

 母の故郷は二つある。

一つは愛媛県の南宇和に、もう一つは島根県の浜田にあった。

私はどちらの故郷も大好きだ。

なぜならば、どちらも海が近かったからだ。

母の両親は愛媛県の出身,祖父は南宇和の外泊、祖母は御荘だった。

そこは、すごくきれいな海の漁村で祖父は漁師をしていた。

母はその村で八人兄弟の上から三番目の次女だった。

終戦の年に生まれた母は、戦後の貧しさを多くは語らなかったが話してくれたことがあった。

その頃は、魚とさつまいもばかり食卓に出ていたらしい。

メジカというカツオの小さめの魚を網の中で天日干ししたのをおやつ代わりに食べたらしい。

私もこの魚を食べたことがあるがカツオ節のような固いものだったので美味しいとは感じなかった。

しかし、母に言わせれば何よりも思い出深いおやつで、今でも懐かしさと美味しさを忘れることができないらしい。

初めて白い米のご飯を食べたのは中学生のときだったらしく、初めて食べる白いご飯に感動し、噛めば噛むほど甘くて美味しかったと話してくれた。

そんな母は珊瑚のきれいな海で鍛えられた。

海に投げられ、船に近寄ってくるものなら再び引き離され、何度も何度も繰り返し泳ぐことで海に負けないように育てられた。

私は子どもの頃、この海でホゴを釣ったことがある。

100メートルもの深い海に糸をたらし、手探りで釣る深海魚、地上に上がってくると水圧がなくなり目玉がとびだして出目金みたいになるので最初はびっくりした。

海に潜ったこともある。

透明度が高く、水の中は珊瑚でいっぱい。

鮮やかな模様の魚も泳いでいる。

この辺りの海では真珠の生産が盛んで、アコヤ貝を養殖しているところがあった。

母の姉は貝に真珠の玉を入れる職人をやっている。

一族は、母が中学へ入る頃、浜田へ移ったらしい。

祖父がイカ釣り漁師になって船を持った。

市街地から2キロ程離れた所に、瀬戸ヶ島という小さな橋が架かっている島がある。

当時は渡し舟で行き来したらしい。

日本海の荒い海のすぐ前に母の実家はある。

すぐ側には海の幸が食べられる宿がある。

危険な岩場では長い竿を手に石鯛をねらう人達でにぎわう日もある。

少し離れたところに小さな砂浜があり、人も少なく、島の人たちのプライベートビーチになっている。

細い路地を抜け、ビーチへ向かう途中に厳島神社があり、ここは宮島の厳島神社と同じらしく、この島の守護神として祭られていた。

遠い遠い昔、この島の人たちは捕鯨を中心に生活をしていたらしく、神社の敷地内に絵図があった。

また、近くの水産試験場にもこのことについての資料が展示されていた。

地場産業は水産加工品を中心にした蒲鉾やワカメ、干物などがほとんどで市場に行くとたくさん売られている。

沖合漁業やイカ釣り漁が多い。

大きな電球がたくさんぶらさがって海の夜景がとてもきれいだった。

夜出て朝帰ってくるため、朝の食卓がとても豪華に感じた。

イカの刺身やアジの刺身が食べられた。

母の弟たちも地元で漁師をやって生活をしている。

沖合漁業も同じように夜から朝にかけての仕事だったので遊びに行くと昼間は家にいて夕方出かけていた。

私の子どもの頃は、何日いても飽きないところだったので雨の日以外は、釣りに行ったり、泳ぎに行ったりしていた。

海がとてもきれいだったので、水中眼鏡を付けて潜るとウニや貝、魚が採れた。

今でこそアワビやサザエは捕ってはいけないことになっているが、当時はおじさんたちが調理して出してくれた。

今では市場に持って行くと高く売れるらしく、食卓にはサザエぐらいしかのぼらなくなった。

私の子どもの頃はどちらに行くにも時間がものすごくかかった。

南宇和は12時間位かかった。

しかし、今では瀬戸大橋ができ、高速道路網も広がってきたので4、5時間で着くようになった。

浜田にいたっては、7時間かかっていたのが、中国自動車道と浜田自動車道を通れば3時間足らずで着くようになった。

早いときには2時間半で着いたこともあった。

しかし、その分自然がどんどん破壊されている。

浜田の瀬戸ヶ島には大きな吊橋が架けられ、産業開発が計画されつつある。

母がとても残念がっていた。

子どもの頃遊んだ浜辺がなくなって埋め立てられるところも出てきた。

しかし、一方では地域活性化のためにと必死で取り組んでいる人達もいる。

客観的立場の私たちがどうこう言えるものではない。

でも、浜田の海も南宇和の海も感動せずにはいられないくらい美しい海である。









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by ikenosai | 2008-11-06 17:51 | お父さんお母さん | Comments(0)

食べることは“命”をつなぐ大切なこと!

身体の病・心の病は関わった環境と食べたものによる収支報告!

大人の歯は全部で32本あり、うち尖った犬歯が4本ありますから、32分の4つまり、8分の1の範囲内であれば動物性の食品を摂っても大丈夫だと考えられています。

そして、穀物は8分の5、野菜においては8分の2となります。

動物性の肉や牛乳などの乳製品その他、魚貝類なども含めて8分の1が歯の由来による理想的な食事バランスだと言われています。

人間が安定した心を維持するためには、食事の安定供給が重要だと考えられます。

農業だって、収穫時期に約1年分の食料が確保できることで精神的なゆとりが出てきます。

その安定の1コマが毎回の食事なのです。


 今の若者の食事は全く逆転しているようで、肉などの動物性のものが大半で主食のご飯が少しだと、次の食事までもたず、イライラしたり、興奮したり、心が乱れるものです。

しかも、次の食事もままならなければ、不安定にもなっていきます。

それに加えもっと恐いのが、ちょっとした空腹時に、砂糖の多い食品を摂ってしまうことなのです。

カロリー計算だけの食事は何の意味もありません。

白砂糖の多い食品が今、子ども達を蝕んでいます。


健康と“予防”

 いつまでも健康でいたいものです。

健康に何が必要かと考えていきますと、やはり日頃の予防が大切になるようです。

食べ物には大きく分けて、酸性のもの、アルカリ性のものがあり、更に詳しく調べていくと陰と陽に分かれるそうです。

今では、そのバランスに基づいた食事の学問があるくらいです。

アメリカの歌手“マドンナ”の食事作りをしている方はこの学問を極めた日本人だそうです。

陰・陽のバランスや酸性・アルカリ性を中和させた食事が健康に大きく影響しているようです。

 今の日本経済は、身体に影響を及ぼす心配のある食品やそれに使われる添加物を生産したり、使ったりすることで成り立っている企業が少なくありません。

全ての人たちが今の社会で生きていくためには簡単に否定することはできません。

しかし、それぞれが学んで選択する力を養っていくことは、今後のそれぞれの子々孫々に健康な生き方を残していくための課題になっていくでしょう。

自然の力を上手に生かす方法にヒントがあり、旬の物にはその季節を生きぬく秘密があります。

また、季節外れの食べもので身体を冷やす習慣がつくとガンやその他の生活習慣病等へも影響していきます。


 酸性過多が引き起こすもの

酸性の強い食べ物には、白砂糖・精白小麦・卵黄を使ったケーキなどのお菓子、刺身や焼き鳥に日本酒。

焼肉にビール。

その後のラーメンやそばなど中和を考えない偏った食事は酸性体質になり、血液を汚します。

通風やリウマチの悪化はこういった偏食と過食が大きく影響しているようです。

また、酸性体質はガン細胞が増殖していく上でとても好条件なようです。

血を汚す環境には、すでに肝臓や腎臓への負担が大きくなっていて、その他の病気にも発展していきます。

まず、腹八分目が大切なこと、これは低体温にならないための秘訣です。

食べ方も、焼き魚にショウガ・すき焼きにコンニャク・干しぶどうの入ったパン・ご飯に梅干し・豚はショウガ焼きなどにし、動物性のものに野菜を付け合わせるなどして工夫したバリエーションを楽しみながら美味しくいただくことが大切なようです。

粗食が中心になっていきますと、たまに外食していただく焼き肉や洋食などがとても有り難く嬉しいものです。

家でも外でも、ご馳走ばかり食べていたら、内臓は休まる暇がありません。


 低体温の子ども達 冷え性の大人達

幼稚園や保育園などでは、体温が37度代中盤位から登園できないなんてことが多いようです。

もともと子どもは体温が高いことが抵抗力につながっています。

しかし、最近では、季節外れの果物や清涼飲料水、アイスクリームなど口当たりの良いものばかり食べていて、主食のご飯の量が減っています。

基礎体力がつかない食生活で、しかも、低体温は病原菌に対して抵抗力がありません。

そのため、病弱な体になって、少し食べ過ぎたときや、睡眠不足などで身体が休まらないときに熱を出して寝込むことが多いようです。

大人も同様の生活をしていけば、冷え性などの影響で、生理痛や腰痛を引き起こしてしまいます。

冬の過ごし方、夏の過ごし方と工夫が必要になりますが、足下を冷やさないこと、冷たいものを摂りすぎないことは1年を通してとても大切なことのようです。

また、喘息やアレルギー性の疾患には白砂糖を極力減らすだけでも改善することが整体などでも紹介されています。

適度な運動や笑うこと、歌うことは血行を促進し、体を温めます。

呼吸の浅い人には特にお薦めです。そして、深呼吸もしましょう。


長寿の木“屋久杉”に学ぶ

 杉の樹齢は長くて500年程度ですが、栄養の少ない花崗岩の屋久島では寿命が長くなり樹齢2,000年以上にもなる木があります。

現代人の食事は栄養過多で、半分以上は医者のために食べているという専門家もいます。

食事内容を3世代ほど前に戻すことや腹八分目は今後の課題になるでしょう。
テニスで復活を遂げたクルム伊達公子さんは食事の改善で玄米食に切り替えたそうです。

80才、90才の元気な長老は粗食が長生きの秘訣になっているようです。


 四里四方に病なし~旬のものにこそ生きぬく力がある~

地場の植物はその土地の季節を生きぬく力を持っています。

例えば寒い冬の野菜は、少しでも暖かな土の中や土の側でしっかり生命をつないでいますし、暑い夏の野菜は日に向かって葉をひろげ、暑さに耐えられる強さがあります。

季節に合っていない植物は自然の中では育ちにくいということです。

夏のキュウリやトマトは暑さに耐えられる秘密があり、人間はそれを食べることで、身体を冷やし暑さをしのぐのです。

冬は寒さに耐えられる植物が寒さをしのいでくれているのです。

もし、季節を逆にして食べたら、体調に影響することは想像できるでしょう。

今、日本は畑を中国やアメリカなどの諸外国に依存しています。

地場のものはどんどん作られなくなっていますし、もし、見えないところでたくさんの農薬が使われていたら国内自給率の問題に加え、農薬被害がどうなのかという問題もでてきます。

今すぐには分かりません。

何代か先に答えがでるのです。

子ども達の未来の環境整備をしていくのは、今の大人達の大切な役割なのです。

その入口が食育なのです。


 調理できる力と工夫こそ本当に生きる力となる

ビワの葉やタンポポの根っこの効用はあまり知られていません。

風邪などで喉が痛いときダイコンやショウガを下ろして飲んだり、また、お腹を下したときなどには、ニンジンをつぶしたスープが良いそうです。

野菜が持つ自然の力を今では誰も教えてくれません。

また、八百屋さんが旬の野菜の調理法をアドバイスしていた風景も、今のスーパーでは希薄なのかほとんど見ません。

昔、天皇の料理番をされていた秋山徳蔵さんは、それぞれの食材の調理法や適切な保存法を本で紹介されています。

その本には、鍋にお湯をはっただけの調理法やレンジで温めるだけの調理法はありません。

生きるために命をつなぐ大切なことは本当は手間をかけて作るもののようです。

5百円玉を持たせばお昼は何とかなるでしょう。

しかし、命をつなぐ大切な意識はどんどん遠のいていっていることが何よりも心配です。


 食育は“自己管理”の源

食べることでは、自分がどれだけ食べればよいのか、あるいは食べられるのかという自分を管理できる力も重要です。

レストラン等でのバイキングで食べ残しの皿が多いのも、食育の問題として考えていく必要があるようです。

戦国時代の小田原城主北条氏康が息子氏政がご飯に汁を注ぎ足しているのを見て、自分の食べる量も解らないようでは、人の気持ちなど解るはずがないと失望したそうです。

案の定、息子は秀吉に滅ぼされ切腹します。

名家である北条家には存続の話もあったはずです。

しかし、何度会議を開いても北条家は何の決断もできないのです。

これが世にいう“小田原評定”です。

今でこそ平和ボケした世の中ですが、昔はご飯を食べることでさえ命に関わる重要なことだと名将たちは捉えていたようです。


 まごわやさしい ~日本食は素晴らしい ~

⇒まめ=豆類・豆腐・味噌・納豆:たんぱく質とマグネシウムが豊富 
⇒ごま=ゴマ、ナッツ類:老化の原因となる活性酸素を防ぐ抗酸化栄養素
⇒わかめ=ワカメ 昆布などの海藻類:カルシウムなどのミネラルが豊富
⇒やさい=野菜:ベータカロチンやビタミンCが豊富
⇒さかな=魚類:不飽和脂肪酸のオメガ3が豊富なたんぱく質
⇒椎茸=キノコ茸類:ビタミンDが豊富
⇒いも類=じゃがいも・さつまいも:腸内環境を整える食物繊維が豊富





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by ikenosai | 2008-11-05 16:22 | 食養生 | Comments(0)