いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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“育て直し”のすすめ

便利になったと思われていた子育て・・・

 “育て直し”を提唱されている角田春高先生の本に、九州大谷短大の山田真理子先生との対談があります。
その中で1983年が子育てのターニングポイントだったことが詳しく書かれています。

紙おむつの登場。

ファミコンの登場。

そして、ビデオデッキが10万円を切り、各家庭に普及していきました。

好きなときに好きなビデオが子守りするようになり、ベビーカーの普及でおんぶや抱っこがなくなっていきました。

すでに母乳から粉ミルクになっていましたので、座布団に寝かせ哺乳瓶を自分で持たせて、抱っこすれば抱き癖がつくというお婆ちゃんの智恵が吹き込まれたのです。

テレビで育った世代のお母さんたちは、授乳しながら子どもを見るのではなくテレビを見ていたのです。

今は、メールにも夢中なお母さんがいます。

テレビを見ているお母さんが今、7割もいるそうです。

お母さんのテレビを見る時間は赤ちゃんが将来テレビを見る時間に大きく影響し、テレビに子守りしてもらった子どもは、人と目を合わせることができなかったり、言葉や情緒の発達の影響でコミュニケーションがとれないまま、保育園や幼稚園に通うようになるそうです。

便利な子育ては、本能的な親の愛情を引き出す力を失わせていきます。

その影響なのか、子育てを負担だと感じる親御さんが8割もいるそうです。

どこから負担という気持ちが生まれるのか考えますと、その答えは無償の愛をつくり出すための子どもとのスキンシップや見つめ合う時間の無さが大きく影響していることだけは事実のようです。


個性という表現では片づけられないこと 

 言葉の遅れも個性、偏食も個性、多動も、物を壊すのも、人を傷つけるのも・・・全て個性で片づけてしまうのは、今、ある問題に目をそらせているのと同じことなのです。

実は個性の柱をつくる年齢は、「つ」のつく年齢、おおよそ思春期を迎える頃までのようです。

その中でも生まれてからの5~6年間はとても重要な時期で、親を中心とする大人の関わりの影響が個性となって現れてきます。

適切な関わり方を知らないまま子育てをしてしまえば、大切なことが伝わらないまま大人になってしまうのです。

その世代間連鎖が日本全国に及んでしまっています。

リテラシーが育たぬまま、テレビやゲームに育てられてきた世代は、本来の動物的本能が麻痺していて、問題解決を困難にしています。

冷静な気持ちを準備して、関わっていけば、親子の相互理解は深まっていくでしょう。

寛容な心であきらめることなく子どもに目線を合わせ、離れてしまっている心に寄り添い、しっかり向き合う覚悟が必要なようです。


幼い頃のイメージを意識的につくり直すこと

人は大人になる課程で以外にも頑固な育ち方をしていきます。

自分の育った環境や生い立ちをできるだけ正当化して納得したいものです。

他人からとやかく言われることは特に受け付けなくなるものです。

しかし、少しでも意識を変え、物事を客観的に見ながら、これからの自分のために、育った頃のイメージを意識的に修復できたなら、親御さん自身も世界が変わっていくはずです。

そのためにクリアすべきいくつかの発達課題について考え、取り組んでいくことが親子の隙間を埋めていく近道になるようです。


“発達課題”を見つめ直す 

 子どもが育つためには7つの発達課題を乳幼児期に経過し、さらに同じ内容を思春期に客観視しながら経過できることで大人になっていくと角田先生はおっしゃってます。

7つの発達課題とは、 
①実感(生きている実感をもつこと) 
②安全(物や場所による安心感が広がること) 
③信頼(人による安心感が広がること) 
④言葉(経験を言葉で表し、言葉で理解する) 
⑤2人遊び(対等な2人遊びができること) 
⑥3人遊び(対等な3人遊びができること) 
⑦畏れ(学習意欲あるいは勤労意欲が持てること)。

といわれています。

前ページの内容の便利な子育てからはこのような発達課題を経過することが非常に困難になっているのが今の子どもたちの育っている環境からおわかりいただけると思います。

そして、何度もいいますが、本来の動物である人間としての子育てを知らない親御さんたちの世代間連鎖がこの発達課題の経過をより困難にしています。

学ばない限り、受けた子育ての内容を次の世代にもしていくのです。

しかし、ここで子育てをする我々の世代の育った環境、生い立ちを見つめ直し、今の子どもたちのために意識して大切なものを取り入れていくことができたら、きっと子どもたちの育ち方は変わっていくと思うのです。

この子どもたちを見ながら幸福感を得ることが、実は遅ればせながらですが、我々自身を“育て直す”きっかけとなり、子どもたちとともに幸せな生き方をつくっていく大きな岐路になっていくのだと思うのです。


※“育て直し”への強い関心、意識のある親御さんへ・・・
 今こうして意識できていることをまず大切になさってください。

ご自分の育った環境を振り返ってください。

周りの人たちとも比較してみてください。

おそらく、大半の人たちがパーフェクトな子育てを受けていなかったという現状を理解していただけると思います。

そして、安心してください。

本人に力があるからこそ育った環境をカバーするだけの力を持って大人になられているのです。

しかし、その感覚では今の子どもたちには伝わりません。

世代間連鎖に加え、育っている環境が昔より深刻化していること、そして、この問題にまだ気がついていない社会が深刻だといえるのです。

どうか心を大きく、広くされ、子育てを客観的に見られるように心の準備をしていただきたいのです。

そして、取り組んでいただければ子どもはしっかり育っていくことでしょう。


護送船団方式で便利な子育てがおこなわれてしまった現実

 合理性を重視した欧米の文化に日本の人々は憧れました。

そして、少しでも裕福に、少しでも便利にと国内の文明は著しい進化を遂げました。

ボタンを押せばご飯が炊け、ボタンを押せば風呂が沸き、ボタンを押せば目の前で、金田が投げて長嶋が打ったのです。

そして、ボタンを押せば子どもが育つのではと錯覚するくらい何でも可能になるとさえ思ったのです。

今、自然が人間に抵抗しています。地球温暖化がその例です。

実は子どもも自然なのです。

良い子育ては便利にはできません。

便利を求める親を見ても子どもは育っていくのです。

一生懸命に生きている親を見ても子どもは育っていくのです。

どちらが大切か、その意識がこれからを変えていくのです。


困難でも誰かがやらなければならない大切なこと

 今、子どもたちに必要なのは、第1の親、第2の親、それでもダメなら第3の親と“育て直し”を意識して関わることのできる大人の存在が今後の人格形成に大きく影響していくことになります。

そうなると、保育園や幼稚園、小学校、中学校、高校、果ては大学と、それぞれの機関で改善していくための取り組みができるような何らかの働きかけが必要なのです。

少子化問題にも屈せず子育て・教育の機関が生き残っていくために果たすべき役割になりつつあるようです。

教育機関にはそれだけの重要な使命があるのです。

そして、この連鎖に何としても歯止めをかけていくための教育が求められているのです。

実はこれがニート問題の最大の予防策なのです。





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by ikenosai | 2008-10-30 17:21 | 育て直しのすすめ | Comments(0)

戦前までの2千年と戦後60年の遺伝子

 遺伝子の話でおもしろい話があります。

私の実家は岡山県津山市という中国山脈の麓にある盆地です。

鳥取県との県境にはオオサンショウウオがいたり、ヤマメがいたり、とにかくきれいな川が流れています。

この地域独特のものといえば、台風の被害が大きく、また、中国山脈から吹きおろされる広戸風という独特の現象があります。

私が子どものころは、米作りも徹底していましたので、父も種籾を温床で栽培し、苗を育てていましたが、私が大人になってからは、農協が品種の良い新潟産の苗などを薦めるもので、当初は、コシヒカリがうちでも作れると張り切っていました。

ところが、不思議なことに、新潟で培ったDNAにはこの地域独特の広戸風に抵抗する力が備わっていなかったようで、すぐに倒れて、地元では“転けヒカリ”と呼ばれ、歓迎されませんでした。

しかし、一旦、種籾をつくらなくなった農家には、今さら以前の種など残っていません。

なのでやむなく“転けヒカリ”の苗を今でも買うハメになっています。

その後も、やはり難問続きでした。

もともと、東北地方の産物なのでこちらでは害虫にも抵抗力がなく、大変な年もありました。

永い年月で培われてきた情報というものは恐ろしいです。

必要でない機能は進化せず、不要なものは退化していくのですから、その地域に適したそれぞれの歴史に基づく考え方で対応していかなければ、上手くはいきません。

人間の体もそうなのです。

温かい地域の人が寒い地域に移り住むと随分と冷えに悩んだり、その影響で病気になったりもします。

また、寒い地域の人が暑い地域に移り住むのも色々と問題が出てきます。

私たちは私たちそれぞれの祖先に由来する遺伝子についてもっと研究をしていかなければならないようです。

そして、現代の食文化をみてください。

たくさんの多国籍な食生活が日常的になってきていて、しかも、戦後60年でこんなに変わってしまっています。

医学でも、科学的な実証がなされないものには誰も感心がないことからも、いつの間にかなおざりになっていて、医者は医者で患者がいるから商売になる、だから、お金にならない予防学については誰も研究の意欲を持たないようです。

研究費自体が自腹になれば興味を示さないのはごく自然なことだと思うのです。

だからこそ、社会保険庁や各保険会社で予防学の研究を推し進めていっていただきたいのです。

戦後60年間で発生した、以前はなかったような病気や心の問題がたくさん取りざたされてきています。

それは、もともと、農耕ができ、穀物を中心とした環境で安定して食べてきた文化の中で、今は欧米化した動物性の食品、精製した砂糖や小麦を大量に摂取することによって本来の長い長い歴史に基づいてきた食文化が大きく崩されてきてしまったことこそが、今のDNAの抵抗をよびおこしているのです。

だから、アレルギーに悩む人々が戦前よりもはるかに多く、理解しがたい心の問題による痛ましい事件が蔓延っているのです。

ゆっくり時間をかけて欧米化していけばそんなには問題はなかったはずですが、何しろ、敗戦直後から、アメリカ主導でアメリカの都合に合わせて食文化までもが変わってしまっているのです。

こんなことは教科書には載せてくれません。

戦争に負けたつけは大きな傷跡として今も、国民を苦しめているわけです。




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by ikenosai | 2008-10-28 23:30 | 食養生 | Comments(0)

懐かしい日々 ~少年時代の思い出~

 全てを捨てて、新たなこの地、東京に希望を抱いて私はやってきた。

何よりも愛しい人が東京にいたから。

父を、母を、姉を説得し、再び上京したのである。

念願が叶い、その人と結婚をした。

かわいい娘、息子を授かった。

そして、がんばって生きる支えとなった。

家族を大切にしなければ私の人生は無であると思った。

しかし、私には充分な経済力がなく、妻と力を合わせてやっと成り立っている状況を妻へは申し訳なく思う。

純粋で明るい性格、やさしい父、母に恵まれている妻がこんなつたない私を選んだことが何よりも嬉しくもあり、申し訳なくもある。

しかし、私を選んだということは私を信頼し、人生を託しているのだろう。

そう考えだすと、とにかく真面目に、平凡ながらも妻が喜ぶ人生を、私なりにつくっていかなければ、きっと私も幸せにはなれないのだろうと思う。

妻は東京生まれの東京育ち、田舎者の私の気持ちを正確に理解できるものではない。

そして、私も妻への必要以上の理解を求めることは止めにした。

私の田舎は、東京から遥か遠くにある岡山県の北部の津山市である。

しかし、市とはいっても歩いて隣の郡部にいけるほどの街外れであった。

家のほとんどは爺さん婆さんがいる大家族だった。

私の家は先祖代々続く本家の家で、私はその家の長男だった。

正義感が強く賢い姉と年子だったこともあって、できの悪かった私はいつも周りから比較されていたせいか、ひねくれていたように思える。

今では近くにコンビニエンスストアやファーストフード店ができているが、私の幼少の頃、1970年代はとても信じられないくらい大昔にタイムスリップしていたようなところだった。

幸いにも近くに旧国鉄時代からの美作大崎駅があった。

当時はマイカーブームより前だったこともあって、路線バスか汽車が主流の時代だったため、多くの人が汽車を利用していたので駅には2、3人の駅員がいて改札や待合室があり、駅前にはタバコ屋や食堂があり賑わっていた。

私の家の近くにもホルモン焼の店があり、お好み焼きや焼そばを食べたことをよく覚えている。

道は狭く一車線しかなく、ところどころに対向車を待つ待機場所があった。

それが驚くことに国道なのである。

学校の近くが街になっていて、魚屋、酒屋、駄菓子屋、自転車屋、薬屋などが軒を連ねていた。

私にはその辺りに住んでいる人が都会人に思えた。

スーパーマーケットのない時代だったので、すぐ近くの店にも駄菓子や惣菜があったり、あったかい中華まんも売っていた。

家の周りの道は泥と石が多い道で車が往来するため、かまぼこ型をしていた。

所々に溝があり、下水道が整備されていなかったので、そこを下水が流れていた。

その溝で農機具を洗っている光景をよく見かけた。

家の田んぼは山の方と川の方にあり、川の方が大きな田んぼで田植えは家族が総出でやっていて、役に立たない私は姉やいとこたちと川土手や田んぼのあぜ道で遊んだ。

近くに線路が通っていて踏切があったが遮断機はなく、音もしなかった。

線路に耳をあてて遠くからくる汽車の音を確認したこともよくあった。

春になると線路わきにはつくしがいっぱい咲き、それをみんなで集めてまわったこともあった。

弁当を作り、近くの山に歩いて行き、山桜を見ながら弁当を食べたこともあった。

その山のことを花見坂とよんでいた。

山に田んぼがたくさんあったから溜め池もたくさんあったので、小鮒を釣りによく出かけた。

橋の上から川の中をのぞき込むと橋が影になって川の中の魚が泳いでいるのがしっかりと見える。

田んぼの土を粘土にして戦車や船を作ったりもした。

束ねたわらを集めてマットにし、宙返りの練習をしたこともよくあった。

父に見つかるとすごく叱られたので見つからないように遊んだ。

その頃は、自然と季節を体で感じていた。

白っぽい衣類の肘や膝には草の汁が染み付いて洗濯してもなかなか落ちなかった。

洗濯機はあったが、脱水機はなく、横にローラーが付いていてそのローラーに洗濯物をはさんで回しながらしぼっていくのが主流だった。

幼稚園の頃、洗濯機は二層式に代わり、テレビがカラーになった。

ウルトラマンの色が赤だったのを初めて知った。

夏休みには朝から山へ行き昆虫を採りに行った。

目当ては勿論、クワガタとカブトムシだった。

夕方にも同じ場所に行って採った。

当時はほとんどの子どもが昆虫に興味を持っていた。

私は、上級生にも負けないくらいに必死で集めていた。

椎茸を栽培しているところからもらった腐葉土を入れ、クヌギの枝に穴を空け、脱脂綿を入れ蜜をしみ込ませる。

中には50匹ほどのカブトムシがいた。

クワガタは別の水槽に入れて飼っていた。

1番のお気に入りがノコギリクワガタで初めて手にするまでは夢にまで出てくる始末。

次にヒラタクワガタ、ミヤマクワガタの順でコクワガタはおまけのようなものだったので時々近所の小さな子どもにあげていた。

今までで見たことがあっても捕まえて飼ったことがなかったのがオオクワガタだった。

これは今でもすごいクワガタだと思っている。

家々の庭の木には朝からセミが鳴きサナギの抜け殻が木の下の辺りにくっ付いているのをよく見つけた。

木の根元にはセミの穴がありそこに幼虫が居るのを見つけたこともあった。

日中の暑さはとてもじゃないが耐えられない。

これは盆地特有の気候なのだろう。

風が吹けば少しは涼しいのだが全く吹かないと、うだるような暑さである。

プールに行き暑さをしのぎ、家に帰ってから扇風機を体に当てて、かき氷を食べる。

頭がキンキンして痛いのを手で押さえて食べた。

プールに行かない日は仲間たちと集まって川に行った。

水中眼鏡にシュノーケルを着けて堤防下の淀みに潜ってナマズやフナをヤスでついて採ったり、浅瀬にうつ伏せになり、川底と体との間に入ってくる魚を手づかみで採ったりした。

日が暮れ、涼しくなってくると蚊が出始める。

家々から蚊取り線香の匂いがただよってくる。

夕ご飯の後、一段落すると縁側で西瓜を食べる。

口に含んだ種を庭に向けて吐き出す。

そんな光景もよくあった。

余った西瓜をカブトムシのいる水槽に入れると西瓜を食べに集まってくる。

水槽の中でいつの間にか西瓜の種が芽を出していることもよくあった。

寝る頃になると、周りはシーンと静まり、静かな雰囲気になっている。

遠くの田んぼから蛙の鳴き声が聞こえてくる。

蚊帳の中でタオルケットにくるまって、いつの間にか眠っている。

窓を開けていたためか、明け方には少し肌寒さを感じ、目を覚ますこともあった。

夏休みが終わる頃はいつも溜まった宿題をまとめてやった。

いつものことだが、はじめのうちは楽しい夏休み、途中から母に宿題のことを言われ少しずつ嫌な感じになって最後には大変な思いをするのが私の夏休みだった。

しかし、今思えば、とても楽しい夏休みで、大人になってからはとてもとても味わえない有意義な夏休みだったように思える。

9月中旬まではプールもあったが、プールがなくなると次第に朝が涼しくなり、やがて寒さを感じるようになってくる。

食欲が湧きはじめ、収穫の時期を迎える。

夜長に虫の声が響きわたり、やがて稲刈りが始まる。

朝露の滴る稲穂を鎌で刈っていく、田んぼの端っこは機械が入らないため手で刈っていくしかない。

また、小さな田んぼもそうだった。

稲刈りが終わり、一段落すると松茸を採りに行った。

父に言わせると「茸を引きにいく。」といっていたが、当時は私の家でも山を持っていた。

父と気の合う仲間のおじさんたち3人でチームをつくり、茸を引きに行く。

山には休憩小屋がつくられており、私もよく連れていってもらった。

おじさんたちが交代で休憩小屋の番をし、あとの2人は腰に魚篭をつけて茸を引きにいく。

戻ってくるころにはその魚篭が松茸でいっぱいになっている。

当時はそれが当たり前だった。

父の話では、夜中も番をしたらしく、空腹を満たすために焼いた松茸を腹いっぱい食べたこともよくあったらしい。

おじさんたちのひとりに少し怖そうなおじさんがいた。

そのおじさんと2人きりの時は怖かった。

しかし、腰にぶら下げたナタで梨をむいて食べさせてくれたこともあって、それ以来怖くなくなった。

そのおじさんは狩猟が好きで狸や猪を撃ちにいっていたこともあって猟犬を何匹か飼っていた。

私はそのおじさんから犬をもらったことがあった。

採れた松茸は木箱に詰め、鉄道貨物で送っていた。

結構、儲かったらしい。

当時の松茸の話しは今では夢のような話しになってしまい、全く採れなくなったので山は手放してしまった。

秋祭りになると、村中の人たちで賑わった。

村の若い衆でお神輿をかつぎ、私もいつかかつぐのだろうと思っていたが、それはなくなった。

母は前日から、太巻きやいなりずしの大きなのをたくさん作った。

山の田んぼにいくと近くに古い神社があり、そこにお神輿は保管されていた。

神社の近くに溜め池があり、田んぼに水をひいていた。

上の田んぼから次第に下の田んぼにと水が注がれていく、上の田んぼが満たないと下には来ないので、ちょくちょくトラブルもあったらしい。

地形からいっても開墾された田んぼらしく、山間のため、米のできが悪かった。

だんぜん、川の田んぼの米が美味しかったので父もしっかり手入れをし、毎年、高く売っていたのが自慢だった。

土だけになった田んぼの所々に大きなわらぐろが作られ、やがて、朝には霜が降りるようになる。

籾殻を燃やす煙が辺りにただよい、私たちはその田んぼで野球をする。

ボールは刈り取った切り株の間をつたって転がっていく。

雨の降った次の日は靴が泥だらけになった。

いよいよ晩秋。

雲海に遮断され、空は真っ白で何も見えない。

霜柱が立つ泥道をザクザクと歩いて学校に行く。

教室にはストーブが炊かれ、煙突に消しゴムで落書きをしたりして先生に叱られたこともあった。

授業が始まって体が温まってくると、段々と足の霜焼けがかゆくなって、左右の足を擦り合わせながらかゆみに耐えていたのが懐かしい。

家の縁側にむしろを敷き白菜が干してあった。

雪の混じった土の付いた大根を冷たい水で洗っている母。

ポン菓子や焼きいもを売りにくるおじさんに子どもたちが集まった。

日の当たらない池には氷が張り、石を投げて割って遊んだ。

冬の終わりもしっかりと凍っていて、子どもがのっても割れない所もあった。

大雪が降った翌朝は、雪の重みで曲がった竹をゆすって、どっさりと雪を頭からかぶったこともあった。

寒さに負けず山を探検し、道に迷って隣の集落に出たこともあった。

そうしていくことで地域の地理感覚が養われた。

家に帰って地図で確認して新たな発見もした。

春休みになるとふきのとうやつくしを見つけ、再び春がやってくる。

こんな一年を少年時代に繰り返した。


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by ikenosai | 2008-10-28 17:35 | 思い出のポケット | Comments(0)

思い出の写真

 アマチュアボクシングの世界は非常に地味です。

私が大学時代、わが部は貧乏な部で、試合の映像がほとんど無く、写真ですら誰も撮っていませんでした。

そんな中で、私たちの一隅を照らし続けてきたカメラマンがいました。

そのカメラマンは高尾啓介さんといいます。

その方の集大成である『この道一筋~高校ボクシング指導者の横顔』という写真集が出版されアマチュアボクシング界では話題となりました。

残念ながら、その写真集には私のようなマイナー選手は載っていません。

しかし、私を大学におくって下さった熊本道之先輩のことが大きく載っています。

長年にわたって駒澤大ボクシング部に大きく貢献された素晴らしいOBのひとりです。

北京オリンピックに出場した清水聡君を育てたのも熊本先輩でした。

私は、熊本先輩との出会いがなければ、この素晴らしい人生を歩むことはなかったことでしょう。

こんな素晴らしいご縁をいただき、ただただ感謝の一言です。

そして、後楽園ホールのリングサイドで、私のようなマイナー選手を撮り続けてくださった高尾氏にも、ただただ感謝です。

下の写真は、高尾氏の撮ってくださった写真で、大学1年のとき、高校チャンピオンに1Rで勝ったときのものです。
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by ikenosai | 2008-10-28 05:15 | 思い出のポケット | Comments(3)

海まで走ろう

 それは、新学期が始まった13歳の春だった。

授業はまだ始まっておらず、昼前には皆、家に帰った。

私も家に帰ろうと思っていたが、偶然に嫌な集団と出くわしてしまった。

奴らは、1つ年上の不良グループで6人いた。

私が、通りがかったところを待ってましたとばかりに行き先を塞ぎ、ひとりひとりが、それぞれの欲しいものを万引きしてこいと脅すような口調で言い、期限は明日までだと言った。

私は、そんなに怖いとは感じなかったか。

しかし、何分にも厄介だった。

もし明日、万引きをせず、のこのこと学校に来たら、何かの仕打ちを受けるだろう。

そう思うと、どうも憂鬱になる。

良い方法を考えなければと思いながら家路をたどっていた。

帰る途中、私はあることをひらめいた。

それは、家出をすれば、明日は学校に行かなくてすむ。

ただ、それだけのために、私は家出をすることを決心した。

机に地図をひろげ海までどのくらいあるか調べてみた。

直線で見れば50キロぐらいだが、道をたどれば70キロ以上はある。

まして、こんなに遠くへ1人で出かけたことは1度もなかった。

私は、道に迷わないか少し心配だった。

しかし、川を下って行けば、なんとかなるだろうと安易な気持ちで出発することにした。

出発前、不安なことが1つあった。

それは、お金を少ししか持っていなかった。

それでも決行し、親友の家に寄って、事情を話した。

そして、詳しい行き先は告げず、ただ、海まで行くと伝え、出発した。

午後2時を少し過ぎていた。

風もなく、ぽかぽかとした春だった。

自転車に乗り、吉井川を目指した。

吉井川は鳥取県との県境の中国山脈から流れる大きな川で、中流には私の故郷、津山がある。

私の家は津山の街から8キロ程はずれた、集落にあった。

近くにあった広戸川をつたって3キロも行けば、吉井川に出る。

吉井川を渡って、私は、時計を見た。

2時半になる頃だった。

私はついに覚悟を決めて、一心不乱にペダルをこぎ始めた。

感じる風はまだ暖かく、心地良かった。

しばらくして、となりまち町に入った。

川の向こう側から大きな鉱山が見え、鉄道も見え始めた。

それは片上鉄道で鉄鉱石を主に運んでいる単線の鉄道だった。

1時間に1本ぐらいの間隔で旅客車両が走っていた。

赤くとんがった屋根の駅が2~3キロおきにあったので駅名を見ることを楽しみにして走り続けた。

吉井町に入って川沿いの道が途切れた。

橋を渡り、反対側の川沿いの道に変えた。

長く長く続くなだらかな道、川を下っていたためか、上り坂はほとんどなかった。

ベンガラで一面が真っ赤な工場があった。

道にもその赤茶けた色が染まっていて、辺りは静かで人の気配もなく不気味だった。

小さな川からは赤い水が吉井川にそそがれていた。

私は、一心不乱にペダルをこぎ続けた。

ただ、今の現実から逃れようと必死だった。

佐伯町に入った。

まだまだ海は遠かった。

なだらかな単調な道を走っていた。

海まで、海までと、そう思いながら。

そして、まだまだ暗くなる気配は感じられなかった。

未開の地にこんな冒険があったことを私は初めて知った。

好奇心は益々高まっていった。

和気町に入り川沿いの道がなくなった。

再び橋を渡り、反対側の川沿いの道に移った。

しばらくの間、民家もなく静かな道が続いた。

通る自動車も少なかった。

そして、その静寂の中から大きな、大きな工場が川の向こう側に見えてきた。

黄色のビールケースが塀のように積まれている。

大きなキリンビールの看板が見えた。

そこはビール工場だった。

キリンビールが岡山でも作られていたことをそのとき知った。

西日に向かいながらビール工場が遠ざかっていく。

やがて、川沿いの道がなくなった。

地図を持ってきてなかった私は、どうにかこの先の道を探さなければと思いながら、海の方向を考えた。

南だ、南に行けば海にたどり着く。

そして、しばらくの間、迷いながら民家の路地を走っていた。

辺りが暗くなってきて、どこを走っているのか分からなかった。

お腹も減った。

喉も渇いた。

しかし、あまりお金は持っていない。

買い物をする店も近くにはなかった。

そうしているうちに、カップヌードルの自動販売機を見つけた。

少し休もう。

そう決めて、しばらく休んだ。

公衆電話の住所を見て、そこが瀬戸町であることを知った。

吉井川からもずいぶん離れてしまっていた。

暗い夜道の中、ペダルをこぎ始めた。

とにかく、標識のある大通りに出なければ行き先が定まらない。

そう思いながら民家の路地を走っていた。

走っても走っても、大通りが見つからない。

やがて川に出た。あまり大きな川ではないが、その川を下って行けば必ず海に出る。

そう信じてこぎ続けた。

川の彼方に、大きな、大きな、平野が見えてきた。

少しずつ動く、大きな船の灯りも見えた。

海だ。海が見えた。

やっと海まで来た。

そして、さらに、勢い良く、私はこぎだした。

海辺に自転車を止め、しばらく海を眺めていた。

しかし、海の向こうに陸が見え、民家の灯りも見える。

ここは海なのかと疑い始めた。

海でなければ、ここを越えてさらにその向こうへ行かなければと思った。

海であるか、海でないかを調べることは容易だった。

そこの水に手を浸し、なめてみた。

しょっぱい、塩の味がする。

間違いなく、そこは海だった。

その地形で児島湾だと分かった。

目的の地にたどり着いたことがすごく嬉しかった。

真っ暗で静かな海辺だったが、まだ8時前だった。

安心したのか、私はコンクリートの床に仰向けになったまましばらく眠った。

すごく疲れていた。

肌寒かったせいか、30分位して目がさめた。

やはり、ここで眠ることは難しい。

しかし、十分なお金があるわけでもなく不安になってきた。

みんなのことが気になった。

きっと私を探している。

そう思い始めた。

このまま一夜を明かす気はなかった。

持っていたお金も電話をかける位しかない。

もし、このお金をほかのことに使えばどこに連絡することも出来なくなくなってしまう。

私は自転車に乗り、電話ボックスを探した。

すぐに、それは見つかった。

10円玉を何枚か入れて、家に電話をかけた。

すぐに親父が出た。

「今、どこにおるんなら、寒うないか。」と話しかけてくる。

私はすぐに、ここにいることを話した。

「お父さんが迎えに行くから、おまえは津山に向かって戻ってこい。たぶん、どっかですれ違うだろう。しっかり注意して見て行くけん、おまえも注意して戻ってこい。」

私は無我夢中で自転車のペダルを踏んでいた。

しかし、暗かったせいか、来た道が分からなくなっていた。

迷いながら、大きな土手に出た。

しかし、道が途中から進入禁止になっていて鎖でふさがれていた。

自転車と歩行者専用の長い橋を渡り、反対側の土手に出た。

橋の手すりに、旭川と記してあった。

線路があった。

しばらく行くと、駅もあった。

備前原駅だった。

たぶん、ここを通れば津山の方へ行くだろう。

そう思って走った。

ここまで来れば不安も何もない。

あとはなるようになる。

そう思って、深く考えることはしなかった。

車とすれ違うたびに、もしかして親父かも。

そう思いながら何台も車を見た。

しかし、こんなに早く来るわけはない。

車でさえ1時間半位かかるところだから、その位の時間は読んでおかないと。

しかし、電話してから、かれこれ1時間程経っていた。

玉柏駅のあたりだった。

慎重に通る軽トラックが私の前を通り過ぎたあと、Uターンして私の横で止まった。

親父だった。

親父は黙々と私の自転車を荷台に固定した。

車の中で意識がぼんやりしていた。

親父が話し始めた。

「おまえ、みんなに心配かけたなあ、先生が家に来とるで、おっちゃんらあも。」

私は、事の重大さにやっと気づき始めていた。

それから家に着くまでのことを今ははっきりと覚えてはいない。

家に着いたとき母さんが外に出てきて、「もう、やっちゃあいけんで。」そう言った。

家に入ると、家の中には学校の先生達と親戚の叔父さん叔母さん達が地図を広げて待っていた。

2階には、いとこ達がいて、私は益々居場所を失っていた。

そんな中、副担任をしていた先生が「今日は、もう寝んちゃい。何人かの友達に電話をかけとるけん今日のことを聞かれるかもしれん。そしたら、遊びに行っとって遅く帰ってみんなに心配かけたということにして、それ以外は黙っておきなさい。」と言った。

あとから2台の車が帰ってきた。

私を探すため、それぞれが違う道を走ってきたことが分かった。

3台の車が3方向に分かれて私を探し、見つけたのが偶然にも親父だった。

次第に、みんな退散し、私は風呂に入り、疲れていたせいか朝までぐっすり眠った。

学校へ行く途中で、友達にあった。

「昨日は、本当に行ったんじゃな。」とびっくりした様子で話してきた。

私は彼の驚いた表情に何だか変な自信を持ってしまった。

学校に着くと、昨日私に指示を出した連中の1人がやってきた。

その人は数年後に無免許で暴走運転をして、壁に激突した。

助手席にはまだ中学生の女の子が乗っていた。

2人とも即死だった。

筋金入りの不良だったその人が、心配そうに、「家出したんか。」と言ってきた。

私はただ「うん。」とうなずいただけだった。

それ以来、その人とたちからは、何も言われることはなかった。




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by ikenosai | 2008-10-25 06:58 | 海まで走ろう | Comments(0)

4歳半、パパとふたりで1泊旅行

 岐阜にいる叔母のお見舞いに、娘とふたりで出かけました。

岡山の両親と姉家族にそこで落ち合うことになっていました。

娘も従姉弟と会える楽しみもあって、前日から「明日会えるの?」と私に何度もたずねていました。

朝、4時半、娘を毛布にくるんで車に乗せましたが、眠そうな表情でも従姉弟に会える楽しみもあってか、全く嫌がりませんでした。

車の少ない時間帯で高速道路を走行中、寝袋の中からニッコリして目を覚ましてきました。

7時頃でした。

「パパ、これから皆に会えるの」と嬉しそうに私にたずねてきました。

諏訪湖のサービスエリアで焼き立てのパンを食べながら一休みしました。

娘には、今日は温泉によって泊まっていくことを話すと嬉しそうに、「楽しみ」と答えました。

何度か休憩しながら、9時には多治見インターを出て、9時半には可児の病院に着きました。

母と姪が車のところまで走って来ました。

娘はもう大喜びで姪に抱っこしてもらっていました。

母たちは1台の車に8人乗ってお見舞いに来ていたようです。

前日手術を終えたばかりの叔母は疲れた様子でしたが、昼前から看護婦に付き添われ歩く練習を始めていました。

これ以上いても叔母が疲れるだけだと話し合い、帰ることになりました。

皆で昼食を食べに行き、その後、皆と別れた娘は、寂しそうに、「ああ、もっと遊びたかった」と話していました。

私は娘に、「機関車に乗りに行く?シュッシュッポッポだぞ・・・」と話すと「楽しそう、もう元気になった」と笑顔で答えました。

そして、明治村に向かったのです。

広い駐車場から少し奥に入ったところに入口があり、嬉しいことに娘はまだ、入場無料でした。

入ってすぐのところに蒸気機関車の駅があって、ひらがなで「とうきやうえき」と書いてありました。

発車まで20分もあったので、土産屋を見物しながら時間をつぶして待ちました。

機関車は明治時代に開通した新橋~横浜間を走っていた陸蒸気と言われていたものと同じ機関車でした。

次の駅の「名古屋」で降りて、市電に乗って「京都」から「品川燈台前」まで行きました。

明治村の中は日本中から集められた歴史的建造物が移築され、とても面白いものでした。

明治時代の病院を娘はたいそう気に入っていたようで、一回見た後、また、見に行きました。

西郷邸を見ているとき、洋風のたたずまいの中に、テーブルがセットされ、洋食器にナイフやフォークまでのっていました。

娘がそれを見て、「ボナパルトの家みたい。」と言ったとき思わずびっくりしました。

ボナパルトとは、ナポレオン=ボナパルトのことで、以前、BS放送でやっていたナポレオンのドラマに見入っていたとき、そう言えば娘も一緒に見ていたことを思い出したのです。

西郷邸の中には、カフェがあり、娘はアイスクリームを、私はカフェオレを注文しました。

洒落た洋館の上品な雰囲気に娘は満足な様子でした。

閉門が近づき、私たちは、後ろ髪を引かれる思いで外に出ました。

帰りは、温泉に寄って、車の中で寝ることを話すと、娘はわくわくしたようすで、嬉しそうでした。

高速道路を東京方面に向けて遅くならないうちに、諏訪湖サービスエリアに着きました。

ゆっくり温泉に入ったあと、レストランで晩御飯を食べました。

トイレのお湯が出る水道のところで歯を磨き、車のシートをフラットにした上に寝袋を敷いて、私の手を握ったまま娘は眠りました。
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by ikenosai | 2008-10-25 06:45 | 子育て 一期一会 | Comments(0)

意欲充分やる気充分

 春休みが終わる頃、8歳の娘と3歳の息子を連れて横浜港に行きました。

海を見に行こうと誘い、午前10時には電車の中にいました。

電車好きの息子は南武線に感激し、京浜東北線に感激し、最後は遊覧船に感激していました。

中華街のレストランでも大喜びだった息子は、午後から眠くなり、私は抱っこひもで息子を寝かしながら娘の手を引き中華街を歩いていると、中国雑貨の店の前を通るたびに娘にチャイナドレスをせがまれ、何軒目かでとうとう買ったのです。

家に戻ってから娘は嬉しそうにそのチャイナドレスに着替え、夕食の準備を手伝い始めました。

「今日は中華にしましょう。」なんて嬉しそうにいいながら、配膳等の準備を手伝っていました。

翌日もその翌日もチャイナドレスを着て、嬉しそうに夕食の準備を手伝っています。

以前は飯事(ママゴト)で充分だった娘も、今では本当の手伝いをしたがるようになっています。

この気持ちを削がないよう関わらなければと思います。

春の横浜は娘にきっと素敵な思い出を残したことでしょう。

                                 平成20年 4月
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by ikenosai | 2008-10-25 06:43 | 子育て 一期一会 | Comments(0)

 運動会

 5月最終の日曜日に娘の小学校で運動会がありました。

小学2年生の娘は練習の話を毎日の夕食時に話してくれていました。

五月晴れの朝を迎え、私は早朝に場所取りに行きました。

すでにたくさんのシートが敷かれ、保護者の人たちの熱い気持ちがその様子から伝わってきました。

運動会が始まり、娘の一生懸命に踊る花笠音頭に感激し、7年間の成長に深く感謝していました。

5・6年生の組み体操のとき、保護者の人たちが、その瞬間を懸命に残そうと撮影に必死になっている姿がところどころで見られ、なんとも胸が熱くなり、私も3~4年後はこんな風になるのだろうと思いつつ、この時の気持ちをいつまでも大切にしなければと思ったのです。

子どもは、いつの日か抱っこができない大きさになり、やがて毎日会えないところに離れていくかもしれません。

今しかない、今しかない。

そう思いながら愛娘の姿を遠くから眺めていました。  

                          平成19年 5月 
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by ikenosai | 2008-10-25 06:41 | 子育て 一期一会 | Comments(0)

 連休明け

ゴールデンウィークが明けて2日目のことでした。

疲れがとれていないのか娘は朝遅く起きてきて急いでご飯をかき込み、家を出ました。

通学仲間と待ち合わせ中、少し気分が悪くなり嘔吐してしまい、泣きながら家に帰ってきたのです。

服を着替えさせ、学校まで自転車に乗せて行きました。

門を抜け、広い校庭の向こう側の玄関に行くまで見届けようと、ずっと娘の方を見ていました。

娘は時々振り返りながら私を確認し、そしてまた、玄関の方へと歩いて行きます。

いよいよ玄関というところで、振り向いた娘は、私の存在を確認すると懸命に走って長い校庭を引き返してきました。

私が思わず抱き上げると「学校へ行きたくない、パパといたい。」と声を出して泣き出しました。

連休明けの疲れもあるんだろう。

新しい環境での緊張や慣れない勉強にも疲れていっぱいいっぱいなのだろうとつくづく思いました。

娘を強く抱きしめ、なだめながら教室へ行くよう促しました。

しかし、なかなか受け入れる様子はなく、とうとう手を引き長い長い校庭を横断し玄関まで連れて行ったのです。

上履きに履き替えた娘は、ふたたび私に抱きついて離れません。

「今、頑張ろうという気持ちを持たなければ、明日も、明後日も学校へ行けなくなってしまう。だから、行くんだよ。階段を上がっていくまで、ここで見ているからね。」と言うと、泣きながら階段を上がり始めました。

私は心の中で「頑張れ、頑張れ。」と応援していました。

そして、娘のその様子を見ながら、泣きそうになっている自分を必死で押さえていました。

始業前の静かな下駄箱の前で私はひとりたたずんで、娘の心の内を必死で解ろうとしていました。

子どもたちにとってゴールデンウィークは1つの壁になっているように思います。

この大きな壁を乗り越えられれば、次の壁はいちだんと低く感じられるのかもしれません。

まさに子育ては一喜一憂して関わっていくことだと強く思いました。  

                            平成18年 5月 
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by ikenosai | 2008-10-25 06:39 | 子育て 一期一会 | Comments(0)

お母さんのお弁当

 子どもたちの昼ご飯には、親の子育てへの意識がそのまま現れています。

お昼にいただく弁当はお母さんの子どもへの関心の深さがうかがえます。

だからといって重箱にたくさんの手の込んだおかずを詰めればいいということではありません。

保育園や幼稚園でお弁当の日が増えるとお母さんたちから不満が出るそうです。

現代のお母さんも忙しいようです。

今の子どもたちの弁当事情は、冷凍食品が多く、しかも、温めないでそのまま入れておくと昼には具合が良くなっているものがあります。

これだったらお父さんも作れるので、お母さんに代わってお父さんの日もいいのではないでしょうか。

世の中が夜型の生活スタイルになって、寝る時間はタイムスケジュールの中で押していきます。

そして、ギリギリまで睡眠にあてられ、朝の時間が少なくなってしまうのです。

朝の身支度の優先順位は、食べることも、新聞を読むことも省かれます。

親が遅ければ、子どもはもっと遅いです。

弁当も本当は作りたくありません。

なので、一番子育てに手を抜く親は、お金を持たせて、コンビニなどで買わせるのです。

もっとひどい親は、お金も持たせません。

その典型が、給食費を払わない親です。

小学校卒業後、中学でも給食があればいいのですが、なければお金も持たせないで学校に行かせるのです。

朝寝坊で朝飯抜きで昼も抜きだと子どもは学校にいられません。

勉強をする気にもなれません。

だから、同じような仲間を集めて、学校を抜け出し、遊ぶのです。

お金もなければ悪いことをして遊ぶ方法を考えもします。

同じ家庭環境で同じ境遇だと同じような価値観で遊ぶようになるのです。

そして、親子の距離が離れ、反抗するようになっていきます。

親は関わるのが面倒だからほったらかしてしまい、子どもの精神的な成長を支えられないまま大人にしてしまうのです。 

 お母さんが作る弁当には、一生の幸せを約束するくらいの愛情が詰まっています。

子育てへの意識がたくさん詰まっています。

季節のものや前日の夕食の残りでも子どもは満腹になれるのです。

お母さんの気持ちがその弁当から伝わるから大切に食べるのです。

買った弁当は見栄えはいいですが、冷たく味気ないものです。

やがて大人になって、子育てするようになったとき、お母さんの弁当に感謝し、自分の子どもにも弁当を作るのです。

弁当を作ってもらえなかった子どもは、母の弁当のイメージが記憶の中にないのです。

それはとても不幸なことです。

それでも、次の世代を大切に考えるお母さんは意識を変えて子育てをしていきます。

素晴らしいお母さんだと思います。

しかし、なかなかそうはいかないようです。

私が生まれた昭和40年代は便利な子育てが蔓延しました。

今、その時代に育った人たちが親になって子育てをしています。

だから、便利が一番なのです。

子育てもできるだけ楽な子育てを優先してしまいます。

弁当作りは、普段作らない人にとっては楽ではありません。

だから弁当を作らない人が少なくない世代なのです。
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by ikenosai | 2008-10-25 06:36 | 親の通信簿 | Comments(0)