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いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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終戦のエンペラー
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カテゴリ:お父さんお母さん( 13 )


塞翁が馬


 紫陽花の咲く6月16日は父の四十九日法要だった。


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 高速バスで津山駅について、汽車を待つ間に、今津屋橋から津山の街を見渡していた。

そして、コンビニで朝食。

広くとってあるイートインコーナーがとても有り難かった。


 この場所は、かつて映画館があった場所。

最後に観たのはキアヌリーブスの「スピード」だった。

田舎特有の2本立て、もう一つは「34丁目の奇跡」。



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 振り返れば30数年前の高校1年の秋、大きな挫折から、私は変わっていった。

何かを達成しようと始めたボクシング。

ひとりで練習するジムを抜け出し、よく走った吉井川の河川敷。

何往復も走っていたこの場所は、今もそのままだった。


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縁に生かされ

 私の青春の原点がこの地にあったことを思い出していた。

鍛え抜いた体幹だけがその後の礎(いしずえ)になって、不思議な縁で運命改革が始まった。

卓球部だったため、部活のあとにジムに行き、朝は八出の河川敷を走り、夜はこの今津屋橋の下を走った。


 高校2年でボクシングのデビュー戦。

卒業までの3試合、すべて同じ相手に負けた。

しかし、やるだけのことはやったという達成感からか、不思議な充実感を味わっていた・・・。

そして、そこで終わるはずだった、それでよかったと思っていた。


 不思議な巡り合わせで、スカウトが来て、私は大学へ進学した。

大学に入るとすぐに、岡山代表で国体に出場。

対戦相手は、アジア大会に出場する日本チャンピオンだった。

そこでは負けたものの、その秋、後楽園ホールでのリーグ戦で、同い年の高校チャンピオンと対戦した。

2年連続でインターハイを制していた選手だった。

これまでに鍛えてきた体幹とスピードがダイナマイトのようなエネルギーになって爆発した。

リングで大暴れした私は、60秒で相手を倒していた。

高校時代で終わるはずだったのに不思議な縁によって開花していった小さな私。

何のために大学に行ったのか?

そのときの役割は、足りない部員の微力ながらの補強に過ぎなかった。

そのお陰で、リーグ戦は全試合に出場した。

高校時代にあこがれていた、後楽園ホールで20戦も戦えた。

 大学4年で引退し、しばらくは東京にいたが、田舎に帰った。



二度目の上京

 田舎に戻って、中学校の講師をしていたが、期限が来て、再び上京することになった。

津山駅に見送りに来た両親。

 
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 出発間際になって、私は初めて父を抱きしめた。

私よりも立派な体格にまだまだ圧倒された。

泣きじゃくる父に、申し訳なく思った。

いよいよ扉が閉まったとき、父は扉を叩いて、くしゃくしゃの顔を見せながら「うんうん」とうなずいて、手を振った。

私はそこから動けなくなり、遠ざかっていく両親をずっと見ていた。

結局、岡山駅に着くまで涙に濡れた顔を上げられないまま、そこに立ちつくしていた。

それから、3年後、私は、彼女を実家につれて帰った。

二度目の上京は、その人とどうしても一緒になりたかったからだった。


 父は私が結婚してからずっと、「おまえはええ嫁をもらった」と褒めてくれていた。

そして、私自身も、彼女の両親に大切にされた。

「寵愛」という言葉の意味と、私が彼女の両親から受けた感覚とが重なる。

遠くにいても、近くにいても、みんな仲むつまじく過ごせた日々を、子どもたちも忘れないでいてほしい。


 田舎を捨てて上京したことをときどき申し訳なく思うことがある。

いつも嬉しそうに迎えてくれていた父を思い出しながら・・・。










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by ikenosai | 2016-06-19 07:19 | お父さんお母さん | Comments(2)

天国へ


「神様がくれた一週間」


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4月23日(土)
 父が危篤との連絡が姉よりあり、父のケータイへ連絡すると、まだ話ができた。

  25日(月)
 朝早くから、姉のメールで、父が肺炎とのこと。
すぐに、職場の上司に話し、大型連休中の私の担当していた業務を全て、分散し、交代していただくことになった。

  26日(火)
 半ば強引な引き継ぎながら、昼前には東京から新幹線に乗って、新大阪から高速バスに乗り継ぎ、父の病院がある中国勝間田で下車。
姉が迎えに来てくれて、その日から、私も看病するメンバーに加わった。
 父は、話すこともでき、臨終はまだまだ先にあるように思えてきた。


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 病院と家との間にある、私の好きな風景。(国道179号線のそば)


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 春の風を感じながら!

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 ウシガエルがすんでいる池!

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 あふれた水が少しずつ!


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 父の病室から見える景色。
高校時代に読んだ、オー・ヘンリーの「THE LAST LEAF (最後の一葉)」を思い出していた。
希望の葉っぱに私たちがなれればと願った。
 姫新線(勝間田駅と林野駅の間)を通る汽車の音が、時報のように!








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4月30日(土)
 命日になる朝が来た。
まだまだ、そんな余波はなかった。
 霜(しも)が降りた朝だった。

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 大型連休の2日目だった。

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 午後から、ひとり外に出て野球を観ていた。
病院から数キロ先、湯郷温泉の近くにあるスポーツの総合施設の野球場。
シニアリーグの練習試合(津山のチーム vs 美作のチーム)
美作といえば、湯郷出身で今も在住の、あさのあつこさんの「バッテリー」、ここはその聖地と言える場所。
野球を観ながら、少年時代の父とのソフトボールの思い出を振り返っていた。
小6のあの夏に市の大会で優勝した思い出。
父が監督で、私がキャプテンだった。
秋には県大会に出場したことも思い出していた。
のびのびとプレイしていた少年時代。
そのまんま私は大人になった。


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 再び病院に戻るとき、車を止めて眺めていた滝川。
この川は、梶並川、吉野川、吉井川に注がれ、瀬戸内海へと・・・。
水に映る西日に、微睡んでいた。
父とのわずかな時間を意識しながら・・・。


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 西日本の夕方は、東京より少し長い。
通り過ぎていく人々、周りにいる人々が輝いて見えていた。
父の薄れゆく命の儚さと重なってか、切なく、そして尊く見えて・・・。

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 26日(火)から帰郷して5日目になる。
昨朝から父の意識レベルは下がってきていた。
痛みの緩和のため、背中には麻薬の湿布が貼られていた。
それまで堪えていた痛みが嘘のようにすやすや眠っている。

 26日(火)、27日(水)、28日(木)と、この3日間で思い出話を交えながら、父に「ありがとう」と言えた。
そして、父からも「ありがとう」という言葉が何度も出ていた。
 父の手を握り、額と額を寄せ合って「共に乗り越えていこう!」と言葉を掛けると、父は「うん、うん!」と応え、お互いに覚悟した。

 48年もの重なり合う父との現世・・・。
とうとう、私たち家族はジェットコースターに乗り込んだ・・・。
そして、今、絶叫の乗り物に一喜一憂しながら乗っている・・・。
そんな感じがしていた。

 午後から、血圧が下がり始め、酸値も少しずつ下がっていることを看護師からも伝えられた。
もう寝ているだけの父。
寝息が穏やかになってきている。
やがって止まってしまう父の呼吸。
寂しさが少しずつ私を襲い始めてきていた。
もう語らうことはないかもしれない。
しかし、ときどき、手を握り「お父さん」と言葉を掛けている。
どうか、苦しみが少ないようにと祈る私。
「シュワシュワ」と酸素が通る瓶の音に一定のリズムで「~ハッ、~ハッ、~ハッ」と父の寝息の音がする。
その横で、父を見ながら座っている私。
今日も叔父(父の弟)が付き添ってくれていた。
昔の話をたくさんしてくれた。
父との若い頃、大阪にいたころの話など・・・。
私の知らなかったことがたくさんあった。


 夜8時半頃

 以前、肺炎をおこした父は、あの危機的な状況から生還していた。
あれから5年目の春が過ぎていた。
一旦、肺が弱ってしまった父は、弱いなりの肺を、高地トレーニングのような状態で鍛え上げていた。
なので、医者からは2日ともたないだろうと言われていたのに6日が過ぎようとしている。


 夜9時40分頃

 血圧が下がり、120くらいもあった脈拍が50~60に・・・。
肩で呼吸をしていたはずが、浅くなり、弱まっている。

 そして、呼吸が止まった。
もう、戻ってこない・・・。
再び、1回だけ大きく肩で息をした。
それが最後で、もう息がなかった。
「お父さん、お父さん」と耳元で呼んだが父の意識はもうこの世には現れなかった。

 ジェットコースターが止まった。
私は周りを見渡した。
みんながいた・・・。
しかし、父だけがそこからいなくなっていた。

 
 夜22時頃

 当直の医師が死亡を確認した。
呼吸器、諸々の管が外され、やっと父は身軽になった。
主事医も自宅から駆けつけてくれた。

 看護師2人、母、姉、姪、義兄、私で父の体をきれいにし、お気に入りのスーツを着せた。
そして、叔父の車で運ばれて父は帰宅した。
すでに日付が変わっていて、葬儀屋が家に来ていた。



 5月2日(月)通夜

 5月3日(火)告別式



 父の遺言どおりに葬儀がおこなわれた。



 父が私にくれたもの、それは慈悲の一言に尽きる。

みかえりを求めない無償の愛を惜しみなくいただいた。

小学校6年のとき、前年までのソフトボールの指導者が勇退し、私の担任の説得で、父が監督になった。

毎日、16時に仕事を切り上げて、指導に来てくれた。

その年、市の大会で優勝。

私が卒業後も監督をし、3年間務め、市の大会では全て優勝し県大会へ出場した。


 今年に入ってからも父が言い続けていたことがある。

「子どもは親の背中を見て育つ、だから、おまえの生き方は子どもに影響を与えるけん、子どもたちをしっかりとみてやって欲しい・・・。」と。

そして、必ず、「お父さんはそれができなかった。許しちゃってくれいや・・・。」と私に謝っていた。

私は、その言葉を聞くだけで、ああ、親孝行をしなければという思いになる。

しかし、墓石に布団は掛けられぬ・・・。

なので、その思いを子どもたちにと思う。

しっかり、子育てをすることで父への恩返しにしたい。

 
  お父さん、どうか天国から見守っていてくださいね。

いつか私がそちらに行くまでの間・・・。



 棺の中に花をたむけるときだった。

それまでは涙が出なかった。

もう覚悟ができていたから、そう思いこんでいた。

喪主の私は、一番最初に棺の中に花をおくと、思わず父の髪をなでて、自分の頬を父の額につけて「ありがとう、お父さん、さよなら・・・。」と父に話しかけると、止めどなく涙が溢れてきた。

やっぱり、泣いてしまった。

おいおい泣いて、父にお別れをした。





















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by ikenosai | 2016-05-13 19:03 | お父さんお母さん | Comments(9)

運動会を観ながら・・・

 昨日は娘の中学の運動会を観に行った。

 先月の息子の運動会は仕事で行かれなかった。

 中学にもなると、競技中心で、いまいち盛り上がりにはかけるが、私は感動しつつ見入っていた。

 娘が出た競技種目は、二人三脚、百足競争、大縄跳び、クラス全員リレーだった。

 当日までの様子は時々伺っていて、大丈夫かな?と心配していたが、勝負の世界はやってみなければ分らない。

 どの競技も申し分のない結果で本当に良かったが、特に印象に残ったのがクラス全員リレーだった。

 3クラスでの対抗戦で、どのクラスもそれなりの戦術で挑んでいたが、娘のクラスは後半に駿足の生徒を集め、半周も遅れていたはずが、終盤に大逆転し、観衆への最高の演出に私は目頭が熱くなっていた。

 昨年度の合唱コンクールでも話したが、やはり、学校は素晴らしい。

 あの多感な年頃の子達の融合の場はまさに学校にあるとつくづく感じた日だった。

 今から、20年近く前、私は岡山県津山市にある中道中学校で社会科の教師をしていたことがある。

13ヶ月ほどの産休代替だったが、運よく運動会と文化祭が2回あった。

 生徒たちと共に協力し合い、計画を進めていくと色々な面から成長が見えてくる。

 教育の真髄はこの関わりの中に垣間見ることができる。

 実は教師がどこまで真剣に生徒たちを信じて関わるかであるが・・・?

 結果としてでてくるのもこういった真剣な取り組みの中からであると思う。

 教師として携わった1回目の運動会のとき、私は計り知れぬ充実感で満たされた。

 それは、生徒たちと共にやり尽くしたことへの充実感からだと今は感じている。

 応援合戦では、リーダーをしていた先生から、応援の仕掛けで使うスロットマシーンを作りたいと相談され、その日の夕方、父と竹薮に入り、長い竹をもらってきた。

 私の幼少期に鯉のぼりをあげる時にいただいて以来の竹薮に、父は懐かしそうに当時の話をしてくれた。

 美術部の生徒に、製作の詳しい内容を伝えると、見る見るうちにスロットマシーンが出来上がり、当日は、3人の先生がドラムを動かし、スリーセブンに合わせ、揃った瞬間に、スロットマシーンの下のゲートから、ボンボンを振りながら生徒たちが一気に出てきて応援合戦がフィナーレになる光景だった。

 応援合戦を向かい側で見ていた先生たちから、「あれは、素晴らしかった。誰のアイデアだ。」と聞かれ、「ボンボンを持って出てきた生徒たちがとても楽しそうで絵になっていた。」と言われ、演出の喜びを強く感じた。

 それぞれの学年代表で結成しているリレーでは、先生チームも加わり、私は第1走者をさせていただいた。

  しかし、第1走者は1年生なので同じ場所では差がついてしまうため、私のスタート位置は一番後ろの走者からさらに10メートルほど後ろからだった。

 それでも、次の先生には1番でバトンを渡せていたので、私の面目はたった。

 2年生はそこそこ速く、追いつかれてきて、3年生で一気に抜かれ、先生チームはビリだった。

 中には、もと陸上部で100メートルの県の中学校記録を持っている女の先生もいた。

 驚くことにその先生は生徒たちの体育の教科書で県の記録として名前が載っていた先生だった。

 その先生さえも、3年生にことごとく抜かれてしまっていたので、私は後半の走者でなくて良かったと思った。

 私自身の中学の運動会も思い出していた。

 小学校では全てのリレーがアンカーで、応援団長をしていたのに中学では一気に陰の存在。

 800メートル走に出場し、7人中ビリ、2年のときは400メートル走で7人中3位。

 3年のときは、おたふく風邪と髄膜炎で2週間休んで卒業アルバムの運動会のところを見ても、記憶にない場面ばかり。

 決して輝けるものではなかったと記憶している。

 それでも、母は応援に来ていたし、運動会前には自主練習をしていた私にスタミナドリンクを毎日飲みなさいと1箱買ってくれていた。

 両親との色々なことを思い出していた。

 小学6年のとき、父はソフトボールチームの監督になった。

 レフト側のファウルボールの位置に校舎があり、1階が音楽室で2階が図書室。

 1階の音楽室のガラスがファウルボールで何度も割られていたので、その都度用務員のおじさんがガラスを入れていた。

 大変な仕事と思った父が、家に余っている大量の板ガラスを寄贈し、1階の音楽室の窓全面に鉄のネットを組んで取り付けた。

 事前に学校から許可を得て、何日かに分けて少しずつ奉仕活動として自己負担で取り付けた。

 それ以来、音楽室のガラスは壊れなくなった。

 それは、卒業後も、私が大学を卒業して数年後の建て替えまでの間ずっとだった。

 私が通う学校のために精一杯できることをやってくれた父に今はとても感謝している。
 

 果たして私は、子どもたちの通う学校にどれだけ恩返しできているだろうか?そして、先生たちに感謝できているだろうかと思いながら1日を過ごしていた。

 学校は素晴らしい、とにかく子どもたちを見ながらつくづくそう思った。

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by ikenosai | 2013-06-09 13:48 | お父さんお母さん | Comments(0)

花嫁さん

 明日は5月の第2日曜日、母の日ですね!
 僕の大切なお母さんのお話をぜひ、ご覧ください。



 これは僕のお母さんの話です。
 生まれ育った南国の漁村から瀬戸内海を渡り日本海側の浜田漁港にひっこしてきました。最初は近所のかんづめ工場で働いていましたが、大阪のしんせきの店を手伝うため家族のもとをはなれ、ひとり大阪にいきました。大阪の店にはたくさんのお客さんがきていて、親しい人もでき、街にもすっかりなれていました。

 正月を二日後にむかえたある夜、お店によくくる男の人がやってきて、明日いなかに帰るんだが、できればあなたをつれていなかに帰りたいと話したのです。それが花嫁さんになるお母さんへのお父さんからのプロポーズの言葉でした。花嫁さんは迷うことなく次の日荷物をまとめて、汽車に乗って僕のいなかにやってきました。おおみそかの夜、とつぜん花嫁がやってきて、みんなはびっくりしました。花嫁さんはもっとびっくりしました。いなかには、三番目と四番目の弟、二人の妹がいる大家族だったのです。代々続く家だったので、一族が集まるいそがしい家でした。えらいところにお嫁にきたと思ったことでしょう。

 一年ほどしてお姉ちゃんが生まれ、それから一年半して僕が生まれました。がんこなおじいちゃんやわがままなおばあちゃんにもまけずにがんばっていましたが、たえられなくなったある日、お姉ちゃんと僕をつれて、いくあてもなく家出をしたことがありました。それでも僕たちの幸せを考えてくれた花嫁さんは覚悟をきめて、お父さんの待ついなかにもどったのです。なれない土地でたいへんでした。それでもその土地になれようと一生懸命生きました。

 僕が幼稚園のとき、がんこなおじいちゃんが病気でなくなりました。
わんぱくでいたずらばかりしていた僕はいつもみんなにめいわくをかけていました。あやまりにいくのはいつも花嫁さん。

 中学生になった僕は、不良になり、先生にも、近所の人にも迷惑をかけていました。あやまりにいくのはやっぱり花嫁さんです。「息子がご迷惑をかけてすんません。」といつも頭をさげてばかりでした。

 僕が中学二年生のときおばあさんが寝たきりになってしまい、そこから介護の生活が三年間続きました。来る日も来る日もおばあさんのお世話です。ご飯を食べさせて、体をきれいにふいてあげます。とこずれやオムツかぶれがあると、どくだみの葉っぱをかわかし、それをにだしたお湯を体に塗ってあげました。

 おばあさんは花嫁さんに文句ばかり言っています。嫁は信用できないと言われても、いつもやさしくお世話しました。あいまを見て家々の電気メーターを見る仕事をして家計を支えていました。おばあさんが死ぬ少し前、おばあさんがわがままばかり言うもんで、花嫁さんはとうとうおばあさんと言葉でけんかをしてしまいました。僕から見るとおばあさんが悪かったと思います。それでもなくなる直前でなかなおりしました。夏の終わりの暑い日でした。

 おばあさんがなくなった数日後は花嫁さんの四十一歳の誕生日でした。お姉ちゃんとお金を出し合ってケーキを買ってささやかにお祝いをしました。
 
 僕が高校を卒業するころ、花嫁さんはヤクルトの配達のお仕事を始めました。僕の小学校の学区内でした。一軒一軒にヤクルトはいりませんかと売りにいきました。僕となかよしだった子の家はすぐに買ってくれましたが、僕となかが悪かった子の家は、やっぱり買ってくれませんでした。

 配達で地域の情報を知り、僕によく話してくれました。僕が東京の大学に行ってからもずっとヤクルトを配っていました。地域ではヤクルトさんと言われていました。山あいに住む一人暮らしのおじいさんやおばあさんの家にもヤクルトを配達しました。三輪のバイクで毎日毎日配達にいきました。そのうちいろいろな人の悩みや相談を聴くようになりました。みんな花嫁さんが来るのを楽しみにしていました。
 
 いつも買ってくれていたおじいさんやおばあさんがなくなると香典をもって葬式にいきました。

 僕がいなかに帰省していたとき、家の近くの駅まで花嫁さんが見送りにきました。たまたま居合わせたおばあさんが「あんた、ヤクルトさんの息子さん?」とたずねてきました。僕が返事をすると「いつもお世話になっとります。」と花嫁さんに親切にしてもらっていることを話してくれました。僕は嬉しかった。花嫁さんがみんなに好かれていて。花嫁さんはみんなに親切にして、みんなからたよられていました。

 おじいさんの弟が寝たきりになったときもお世話になる老人ホームが見つかるまで家で介護をしました。お父さんより18歳も若い弟が病気でなくなったときも、花嫁さんはなくなる間際までお世話をしました。
 
 花嫁さんが僕の家にきてからたくさんの人がなくなりました。花嫁さんはいつもみんなのいる仏壇に手を合わせ、ご飯や水をおそなえし、線香をたき「なんまんだ、なんまんだ・・・」ととなえます。

 お嫁にきてからもうすぐ50年になります。四国から日本海にうつり住んだ花嫁さんの両親も何年も前になくなりました。もう帰る場所もなくこの岡山の土地で静かに暮らしています。

 僕たちの一族のために花嫁さんは自分の人生をささげて生きています。お父さんの親や兄弟、しんせきを天国におくり、とうとうこの土地の一員になりました。

 花嫁さんがいないとみんなが困ります。お父さんも困ります。しんせきの人たちも困ります。近所の人たちも困ります。長い年月をかけて花嫁さんはこの土地の人になっていったのです。

 花嫁さん、ありがとう、僕の家にお嫁にきてくれて。

 花嫁さん、ありがとう、僕を産んでくれて。

 僕の大切な大切なお母さん・・・、いつも、いつもありがとう。




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by ikenosai | 2013-05-11 02:36 | お父さんお母さん | Comments(0)

いつか来る覚悟の日までに・・・

 この1ヶ月はもの凄く忙しかった。

3月最後の週は三途の川を渡りかけていた父に会いに金曜の夜から夜行バスに乗って津山に帰った。

姉に迎えにきてもらって、そのまま父の入院している病院へ行った。

その週の火曜日に母から電話があり、もうダメかもしれないと不安そうな様子で涙声だった。

今生のお別れかもしれないと覚悟して水曜日に夜行バスのチケットをネットで予約しようとした。

しかし、空席の隣が女性のためか手続きが完了しないため、木曜日、仕事帰りに小田急の営業所に行ったが予約受付の時間がすでに終了していた。

窓口の若い男性職員の方に事情を話したら、それなら私が明日の朝一番に責任を持ってチケットを発行し、さらに都合の良い営業所で受け取れるよう準備しておきましょうと全てを上手く手配してくださった。

出発の金曜日、予約確認の電話をするとすでに準備が出来ていたので、帰りによって新宿から夜行バスに乗った。

毎日、残業で睡眠不足だったせいもあってか、夜行バスで初めてぐっすり眠れた。

津山に着くと、3月も終わろうとしている時期にもかかわらず、白皚皚たる一面雪景色、やはりこの街は寒い。

姉に送られ、実家の集落を過ぎ、病院に着いた。

個室に移された父は、酸素マスクをし、腕には何箇所か点滴を刺され、尿袋をベッドの脇に置かれ、身動きも出来ない状況だった。

後期高齢者の父は、肺炎を患い、高齢者特有の免疫力の弱さからか熱が出ず、自然治癒する見込みもなく、ただただ神の、仏の力にすがるだけだった。

それでも私が病室に入ると、よくきたとばかりに嬉しそうに話し始める。

そのたびに巡回のドクターより喋らないようにと叱られて、酸値が上がらないと命の保証がないと言われていた。

その都度父は苦笑し、両手を合わせ謝っていた。

結局、一晩を病院で過ごし、姉が夜中の3時までそばについていて、私がそのあとからそばについた。

母は久しぶりに家でゆっくり寝た。

わがままな父の看病で疲れていたことだろう。

白々と夜が明けて、近くの高速バス乗り場まで義兄に送ってもらった。

年老いた父に私が出来たことは、そばについて思い出話をしたことと、残された短い余生で仏性を磨いて欲しいと切に話したことだった。

心から先祖の供養と良きことを思い、良き行いをして欲しいとひたすら頼んだ。

いつ天国に行くか分からぬ不安の中から、少しずつ覚悟が定まってきた。

いずれ行く道、お父さんとまた巡り逢いたいと手を握って話した。

一晩を振り返りながらバスの中でぼんやり過ごしていた。

新大阪から新幹線に乗って帰ってきた。

その後、父は日に日に回復していった。

酸素マスクが外され、ご飯も食べられるようになった。

その間に同じ肺炎で入院していた人が亡くなっていた。

父に何かお力がいただけたのだと深く感謝した。

それでもいつかは天国にいく。

ドクターからは2回も三途の川を渡りかけたと言われていた。

5年ほど前に肺炎になったときも奇跡的に助かって、次はないですよと念を押されていた。

その父とまだ電話で話しができる、そう思うだけでまだまだ安心している私だった。




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by ikenosai | 2011-04-23 13:58 | お父さんお母さん | Comments(0)

やさしい母の背中


 私の母は、愛媛県の漁村で生まれ、父とは大阪で知り合って、海のない中国山脈の麓に嫁いできました。

20歳そこそこのまだまだ遊びたい時期に、父にそそのかされてやってきたように思いますが、当時はどこに行っても貧しいのが当たり前だったようで、母も懸命にその土地に馴染もうとがんばっていたと思います。

厳しい祖父と変わり者の祖母、父の妹と弟も同居していて大変だったのではないでしょうか。

姉と私が生まれてから数年後、祖父は他界しました。

私が幼稚園年中のとき、ダンプカーにはねられて、3ヶ月ほど入院しました。

母は何日も連続で私の付き添いをして、毎晩添い寝をしてくれました。

家のこともやり、病院に来ては私の世話をして大変だったと思います。

誰に文句を言うでもなく、いつも優しい母でした。

ある時、私がウサギの風船が欲しいと言い出したら、分かった分かったとすぐに買いに行ってくれました。

しかし、私のイメージしていたウサギの風船はヘリウムの入った浮かび上がるものだったので、これは本当の風船じゃあないと駄々をこねると、ないものはしょうがないとなだめるのです。

そのときは、不満を言って困らせていましたが、その母のしてくれたことへの嬉しさが今頃になってこみ上げてきます。

私を育てるのに一生懸命だったのだと、苦労かけたなあ、悪かったなあと思うのです。

ひとりものの祖父の兄が近くの公会堂で住み込みの管理人をしていて、いつも家に来て、私たちと一緒に夕食を食べていました。

少しでも支え合おうという考えもあったようです。

そのお爺さんには、私は随分と可愛がってもらったことを覚えています。

私が小学校のとき、お爺さんは、ぎっくり腰になり、歩けなくなってしまったのです。

何ヶ月間か、母が自宅で介護していましたが、民生委員や市の福祉のすすめで、養老院へ入所することになりました。

最初のうちはよく面会にもいっていましたが、私が高校のとき、独り寂しく亡くなったのです。

亡くなる1ヶ月ほど前、養老院から死期が近いと連絡がありました。

母がお爺さんに面会に行ったのですが、意識もハッキリせず、話ができなかったそうです。

棺桶に入ったお爺さんの痩せ細った姿に、人間の孤独さを感じさせられました。

私が中学2年のとき、祖母が夏風邪を患い、何日間か寝込みました。

体重が百キロほどある祖母だけに、治ってはみたものの、歩けなくなってしまったのです。

毎日、食事の準備と排泄の介助、毎晩の清拭で大変なようでした。

しかし、祖母の心の内を理解していたのでしょう、母は、文句も言わず、約3年間もその生活を継続していたのです。

内職をしながら、電力会社の依頼で電器メーターのチェックをする仕事もやっていて、そんな姿もあってか、私は不良を卒業するきっかけをこの時期にもらったように思います。

いよいよ祖母の元気がなくなってきた頃、母に何度も不満をいう祖母の姿がありました。

あまりにもひどかったようで、母が我慢できず、とうとう怒りだしたのです。

私も姉もどうにかなだめながら、母を落ち着かせました。

祖母も謝って、お互いが理解し合えて良かったなあと思っていた数日後、祖母はこの世を去っていきました。

私はなんて、素敵な母に育てられたのだろうとそのとき、思えたのです。

だから、決して母の悲しむことはできないなとも思いました。

私が高校を出て上京する頃、母はヤクルトおばさんをしていました。

4キロ四方のエリアを毎日、三輪バイクで回って配達に行きます。

母の話で驚いたのは、山間部の一軒家に独りで住んでいる老人が何人かいて、母が配達で訪れるのを楽しみにしているそうでした。

バリカンを出してきて、頭を刈ってくれと頼むお爺さんもいたそうです。

そのお爺さんの子どもたちは都会に出ていて、お爺さんだけで静かに独りで生活していたそうです。

しかし、あまりの寂しさからか、首を吊って亡くなったそうです。

「独りは寂しいんじゃ」と母は残念そうにそのことを話してくれました。

母はいつもそういう孤独な年寄りの話をしみじみと私にしてくれました。

誰かが気にかけてあげなければいけないこと、人は支え合っていかなければ駄目なんだと、直接は言わなくとも、私に伝えようとしているのがよく分かったのです。

母は両親に、最期の最期まで送金をしていました。

年中苦労の絶えない母が一生懸命生きて、人生の意味を私に伝えようとしていました。

貧乏な生活ではありましたが常に一喜一憂して、毎日を大切に積み上げている母が私には誇りだったのです。

自分にできる精一杯のことをしている母が私は大好きです。

そんな母のような生き方を私もできるようになりたいと思うのです。

親の思いは自分自身がこうやって子どもを授かり、子育てをしていくうちに分かっていき、感謝できるようになっていくのだと思います。

人生はまだまだ学ばなければいけないことが山積みであるからこそ、これからも一生懸命生きていこうと母の背中に教えられているのです。


 どこの馬の骨だか判らぬ私でさえ、愛し、祈り続けていてくれる両親がいます。そんな慈愛に満ちた親の愛が私の心の支えになっているのです。



 今日は母の日、お母さんいつもいつもありがとう!


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 思い出したらお花を贈ろう!
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by ikenosai | 2010-05-09 08:40 | お父さんお母さん | Comments(0)

大きな鯉のぼり



 田舎で中学の教師をしていた20代のころ。

運動会の応援合戦でどうしてもスロットを作りたいというパチンコ好きの上司の希望で、骨組みだけでも費用をかけぬようにと考えた。

結局、父に相談し、川辺の竹藪に行って調達することをすすめられた。

初秋の夜空の下で父と一緒に竹を切っていた。

ふと父が昔のことを思い出した。

「お前が生まれてから、鯉のぼりを揚げるのに大きな竹竿が必要で、この辺ではここの竹藪の竹が一番大きくて、土地の持ち主に頼んで長いやつをいただいた。」

と懐かしそうに話した。

思わず、勝手に切っていいのかと尋ねると、事後承諾になるが、お願いに行くから心配するなとのこと。

そういえば、私が幼少のころ、大きな鯉のぼりが揚げられていたのを覚えている。

そのころは、男の子が生まれた家は、どこの家でも大きな竹の竿を立てて、大きな鯉のぼりを揚げていた。

何でも一生懸命にやってくれていた父だったと、色々なことを思い出した。

すっかり、引退してくたびれた蒸気機関車のような父ではあるが、私の記憶の中では、あのころのたくましい現役の機関車が走り続けている。

ありがとう、お父さん。

たくさんの思い出をありがとう。

今でこそ、都会のマンションやアパートでは、ベランダに小さな鯉のぼりしかかけられないが、そんな父の思いはしっかり受け継いでいきたい。

今日は、こどもの日。

とにかく、元気に強くたくましくそして、心の優しい人間に育ってくれればいいかな?

そう思っている。
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by ikenosai | 2010-05-05 05:43 | お父さんお母さん | Comments(0)

母の誕生日に・・・

 男性よりも女性のほうが心の水分が多い。
それは男性が女性の多い水分を飲む、つまり受け入れること、理解することである。
その多い水分とは産む性のことである。
男性は子ども産まない。
だから女性との意識の差を埋めるものはより深い理解しかない。
その第一歩は生まれてきたこと、産んでくれた母に感謝することである。
この意識の欠如によって女性が男性に失望していくのである。




 意識しても、しなくても喜びのときはあった。

まず、生まれたこと。

母は命がけで私を産んで、母の愛で包んでくれた。

そして、父の慈悲によって両親の愛を教えてもらった。

人は生まれ、そして、いずれ死んでいく。

意識して喜びを感じたのは、親の世代になったときだった。

親となり、子どもたちによって、母の愛、父の愛を深く理解した。

無意識に過ごしていた子どものころを振り返る。

両親の愛に満ちていた日々は、再び記憶の中から始まっていく。

そして、無償の愛に気づく。

それでも、私は偉大な母にはなれない。

腹を痛めて、子どもも産めない。

だから、意識して女性の役割に感謝する。

9月3日は母の64回目の誕生日。

お母さん、私を産んでくださってありがとう。

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by ikenosai | 2009-08-29 07:07 | お父さんお母さん | Comments(0)

大きな背中 


 子どもの頃、よく父の背中にのった。

朝、目覚めた父に、背中を踏んでくれと頼まれる。

私は、黙々と父の背中を歩くように踏んでいく。

私が背中を動くとき、父は息を止めている。

大きな背中に、太い腕。

たくましい父の体。

私は父のようにたくましい体であることが大人の条件のように思っていた。

どんなに体が辛い日でも、父は黙って仕事に行った。

雨の日以外は、せっせとせっせと働いた。

何も知らなかった私は、その父の背中をただただ踏んでいた。

踏み終わると、財布から百円玉を取り出して、お駄賃だといって渡してくれた。

本当は、休みたい日もあっただろう。

それでも、私たちのためにせっせと働いていた父。

大人はたくましいものだと思っていた。

父の背中は、私に、強い大人、たくましい大人、誠実な大人を教えてくれた。

だから、私は不誠実な大人が嫌いである。

誠実な父の背中が今でも私の大きな指針になっている。

真っ黒に日焼けし、真夏の炎天下のしたで働いていた父。

遊ぶ金などほとんど持たなかった父。

仕事の日は、水筒を持ち、弁当を持ち、出かけていった。

昼は弁当を食べ、木陰で昼休みを過ごしていたに違いない。

街中の工事現場の昼休み。

床に仰向けに寝そべっている職人を見るたびに、父を思い出す。

そして、職人たちも、その背中で誰かを支えているのだと思う。

仕事から父は、まっすぐ帰ってくる。

そして、田んぼや畑の手入れをした。

農作業を終えて、6時から7時には食卓につき、みんなで夕食を食べた。

夏は、冷たいビールを豪快に飲み、冬は燗酒を美味しそうに飲む父の様子から、お酒は美味しいものだと思っていた。

雨の日は、のんびり新聞を読んで過ごしていた父。

それでも、時間をみては、田んぼに行き、畑に行き、納屋に行き、何かしら家の仕事をしていた父。

私たちのために働き続けた父。

晩年くらいわがままに過ごしたって罰なんて当たらない。

それなのに、たいした親孝行が出来ていない私は何だか恥ずかしい。

私が背中にのっていた頃の父に比べると・・・。
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by ikenosai | 2009-06-28 06:43 | お父さんお母さん | Comments(0)

永遠の原風景


 最近、ふと祖父を思い出した。

祖父は、愛媛県の南宇和にある外泊の漁師の家に生まれたと母から聞いている。

隣村の祖母を嫁にもらい、8人の子どもを授かった。

私の母は、3番目の子どもとして生まれた。

母が中学の時、新天地を求めて、島根県浜田市の瀬戸ヶ島に移り住んだ。

やがて、いか釣り船を手に入れ、日本海の荒波で漁業を営んだ。

母は、中学を出て、しばらくして親戚を頼って大阪に出た。

そこで、私の父と出逢った。

父が田舎に帰るというので、大晦日の晩に一緒に津山に戻ってきた。

そして、姉が生まれ、私が生まれた。

夏になると、よく父の運転する車で瀬戸ヶ島に行った。

当時は高速道路はなく、津山から奥津温泉を通り、人形峠を抜け、倉吉を通って、国道9号線に出て、そこからはひたすら走るだけだった。

明るいうちに着くために、夜明け前に出発した。

楽しみの定番は、宍道湖の湖畔にあるドライブインでお子様ランチを食べることだった。

小さな、軽自動車の荷台にバスタオルを敷いて、姉と交代で昼寝をした。

それでも、父はひたすら運転をしていた。

その横で母は父の運転を見守っていた。

海を眺めながら通った9号線はまるで楽園への道のりのようだった。

母は、もっともっと楽しかったに違いない。

なぜだか、同じ道も、帰りは寂しく切ない思いがした。

母は、もっともっと切ない思いがしたに違いない。

もうあと一息という場所に、大衆食堂があって、そこでかき氷を食べて、父は眠気をしのいでいたのだと思う。

私たちには楽しいおやつの時間だった。

坂を登って、降りるころ、母が「もうすぐ着くで」と弾ませた声で私たちに伝える。

母の嬉しそうな表情に姉も私も心が弾んだ。

魚の加工場のにおいがやがて、海の潮の香りのいいにおいに変わるころ、小さな橋を渡る。

そこからが瀬戸ヶ島だった。

厳島神社に近い、一軒家を借りて、祖父母と叔父3人が住んでいた。

夏になると、母の兄弟姉妹たちが集い、従兄弟と遊ぶのも楽しかった。

何よりも、360度海の小さな島。

祖父の船に乗って、沖の彼方にある島に行ったり、ゆらゆらと揺れる船の上から花火を観たこともあった。

そこに居るだけで、何だか楽しかった。

祖父は、晩ご飯の時、笑いながら私のご飯の上に砂糖をかけて食べさせてくれた。

甘いので嬉しくて、笑って祖父の顔を見上げると、祖父は笑顔で私を膝にのせてくれた。

口べたな祖父に、いつも寄り添っていた祖母。

「父ちゃん、父ちゃん」というかけ声が今も私の耳に残っている。

海を愛し、海とともに生きた、祖父が亡くなり、数年前に祖母も亡くなった。

私の体の半分は、海の恩恵を受け生きてきた先祖の魂が今も生き続けている。

私にとって祖父との思い出は、ただただ感謝の思い出である。

仲むつまじく寄り添った祖父母の思い出が私たちの未来をつくってくれた証である。

ありがとう、おじいちゃん。

ありがとう、おばあちゃん。

ありがとう、おとうさん、おかあさん。

先祖への感謝を忘れそうになる。

あたかも自分の力で生きているような錯覚で。

しかし、自分の力ではどうにもならないことだらけ。

それでも、奇蹟がおきている。

それは、この世に祖父母が生まれ、両親が生まれ、愛しい妻が生まれたこと。

そして、最大の奇蹟は、私がここに生きていること。

私の愛しい子どもたちがいることに違いない。

この幸せを大切に、このスタイルを崩さないように生きられれば、それでいいはずなのに、何かを求めてしまう。

だから人間は学ばなければならない生きものなのだろう。

 高校生のとき私は中国地方一週のサイクリングをした。

できるだけコンパクトにまわるための道のりを調べていると人形峠は少し遠回りだということに気がついた。

なぜ、父はもっと近い四十曲峠を選ばなかったのかと疑問を持っていた。

数年前、父と姉の家族と奥津温泉に行ったとき、宿の女将に父が昔の思い出を語り始めた。

その様子から、懐かしさがうかがえた。

父にとって人形峠は思い出深い特別な場所なのだと分かった。

工事現場の飯場で過ごしていた若い頃、自転車に乗って,人形峠から遙々坂を下り,奥津温泉に入りに来ていたことを、本当に懐かしく話していた。

父の歩んだ人生、そして思い出には、私の知らない世界がたくさんある。

母の人生にも、思い出にも、私の知らない世界がたくさんある。

祖父母の人生にも、そして思い出にも、私の知らない世界がたくさんある。

その思い出とともに先祖の供養をしていくことが私にできる命の恩恵への僅かな僅かな恩返しになるのだと思う。

私の原風景は、先祖の生きた原風景とともにある。

そして、いつしか彼岸で合流する運命である。

先祖たちがどんな思いで待っているのかと考える。

きっと魂のきれいな人間になって来ることを待ち望んでいるのだと思う。

だから、今はただ襷を受け娑婆を走るひとりのランナーとして誠実に走ることくらいしか思いつかない。

でもそれでいいのだと思う。

私にできることはそれくらいしかないのだから・・・。




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by ikenosai | 2009-06-10 11:17 | お父さんお母さん | Comments(0)