いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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カテゴリ:お父さんお母さん( 16 )


父の一周忌法要で帰省



私の大好きな風景

田園風景
津山の実家
美作大崎~西勝間田の間の集落

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父の一周忌法要の翌日、島根県浜田市の母の実家へ
再び津山に戻ってから一日だけ、のんびりできた日があり散歩へ!

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子どもの頃、よく釣りをした池

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ところどころに廃屋

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朽ち果てた家も


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                   地元の豪農(大地主)の家
                  一族が街に出てしまって・・・
                    高齢化する地域に・・・




もうすぐ母の日ですね!
 僕の大切なお母さんのお話、お読みくだされば嬉しいです。

 これは僕のお母さんの話です。
生まれ育った南国の漁村から瀬戸内海を渡り日本海側の浜田漁港にひっこしてきました。
最初は近所のかんづめ工場で働いていましたが、大阪のしんせきの店を手伝うため家族のもとをはなれ、ひとり大阪にいきました。
大阪の店にはたくさんのお客さんがきていて、親しい人もでき、街にもすっかりなれていました。

 正月を二日後にむかえたある夜、お店によくくる男の人がやってきて、明日いなかに帰るんだが、できればあなたをつれていなかに帰りたいと話したのです。
それが花嫁さんになるお母さんへのお父さんからのプロポーズの言葉でした。
花嫁さんは迷うことなく次の日荷物をまとめて、汽車に乗って僕のいなかにやってきました。
おおみそかの夜、とつぜん花嫁がやってきて、みんなはびっくりしました。
花嫁さんはもっとびっくりしました。
いなかには、三番目と四番目の弟、二人の妹がいる大家族だったのです。
代々続く家だったので、一族が集まるいそがしい家でした。
えらいところにお嫁にきたと思ったことでしょう。

 一年ほどしてお姉ちゃんが生まれ、それから一年半して僕が生まれました。
がんこなおじいちゃんやわがままなおばあちゃんにもまけずにがんばっていましたが、たえられなくなったある日、お姉ちゃんと僕をつれて、いくあてもなく家出をしたことがありました。
それでも僕たちの幸せを考えてくれた花嫁さんは覚悟をきめて、お父さんの待ついなかにもどったのです。
なれない土地でたいへんでした。
それでもその土地になれようと一生懸命生きました。

 僕が幼稚園のとき、がんこなおじいちゃんが病気でなくなりました。
わんぱくでいたずらばかりしていた僕はいつもみんなにめいわくをかけていました。
あやまりにいくのはいつも花嫁さん。

 中学生になった僕は、不良になり、先生にも、近所の人にも迷惑をかけていました。
あやまりにいくのはやっぱり花嫁さんです。
「息子がご迷惑をかけてすんません。」といつも頭をさげてばかりでした。

 僕が中学二年生のときおばあさんが寝たきりになってしまい、そこから介護の生活が三年間続きました。
来る日も来る日もおばあさんのお世話です。
ご飯を食べさせて、体をきれいにふいてあげます。
とこずれやオムツかぶれがあると、どくだみの葉っぱをかわかし、それをにだしたお湯を体に塗ってあげました。

 おばあさんは花嫁さんに文句ばかり言っています。
嫁は信用できないと言われても、いつもやさしくお世話しました。
あいまを見て家々の電気メーターを見る仕事をして家計を支えていました。
おばあさんが死ぬ少し前、おばあさんがわがままばかり言うもんで、花嫁さんはとうとうおばあさんと言葉でけんかをしてしまいました。
僕から見るとおばあさんが悪かったと思います。
それでもなくなる直前でなかなおりしました。
夏の終わりの暑い日でした。

 おばあさんがなくなった数日後は花嫁さんの四十一歳の誕生日でした。
お姉ちゃんとお金を出し合ってケーキを買ってささやかにお祝いをしました。
 
 僕が高校を卒業するころ、花嫁さんはヤクルトの配達のお仕事を始めました。
僕の小学校の学区内でした。
一軒一軒にヤクルトはいりませんかと売りにいきました。
僕となかよしだった子の家はすぐに買ってくれましたが、僕となかが悪かった子の家は、やっぱり買ってくれませんでした。

 配達で地域の情報を知り、僕によく話してくれました。
僕が東京の大学に行ってからもずっとヤクルトを配っていました。
地域ではヤクルトさんと言われていました。
山あいに住む一人暮らしのおじいさんやおばあさんの家にもヤクルトを配達しました。
三輪のバイクで毎日毎日配達にいきました。
そのうちいろいろな人の悩みや相談を聴くようになりました。
みんな花嫁さんが来るのを楽しみにしていました。
 
 いつも買ってくれていたおじいさんやおばあさんがなくなると香典をもって葬式にいきました。

 僕がいなかに帰省していたとき、家の近くの駅まで花嫁さんが見送りにきました。
たまたま居合わせたおばあさんが「あんた、ヤクルトさんの息子さん?」とたずねてきました。
僕が返事をすると「いつもお世話になっとります。」と花嫁さんに親切にしてもらっていることを話してくれました。
僕は嬉しかった。花嫁さんがみんなに好かれていて。
花嫁さんはみんなに親切にして、みんなからたよられていました。

 おじいさんの弟が寝たきりになったときもお世話になる老人ホームが見つかるまで家で介護をしました。
お父さんより18歳も若い弟が病気でなくなったときも、花嫁さんはなくなる間際までお世話をしました。
 
 花嫁さんが僕の家にきてからたくさんの人がなくなりました。
花嫁さんはいつもみんなのいる仏壇に手を合わせ、ご飯や水をおそなえし、線香をたき「なんまんだ、なんまんだ・・・」ととなえます。

 お嫁にきてからもうすぐ50年になります。
四国から日本海にうつり住んだ花嫁さんの両親も何年も前になくなりました。
もう帰る場所もなくこの岡山の土地で静かに暮らしています。

 僕たちの一族のために花嫁さんは自分の人生をささげて生きています。
お父さんの親や兄弟、しんせきを天国におくり、とうとうこの土地の一員になりました。

 花嫁さんがいないとみんなが困ります。
お父さんも困ります。
しんせきの人たちも困ります。
近所の人たちも困ります。
長い年月をかけて花嫁さんはこの土地の人になっていったのです。

 花嫁さん、ありがとう、僕の家にお嫁にきてくれて。
 花嫁さん、ありがとう、僕を産んでくれて。
 僕の大切な大切なお母さん・・・、いつも、いつもありがとう。

                                   2010年







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by ikenosai | 2017-05-05 22:05 | お父さんお母さん | Comments(2)

久しぶりに母の実家へ帰省

素敵な風景

私の大好きな場所
母の実家
「島根県浜田市瀬戸ヶ島」

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県立水産高校のドック
生徒たちはここから遠方まで船の実習に

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そのさきは日本海

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大きな吊橋

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昔のままの海辺も

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島にある「厳島神社」

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今だ現役の井戸

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狭い路地

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韓国からの漂流物


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療養中のおじに会いに

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そして1日目の夕日が沈むころ


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漁港の食堂で食べた「のどぐろの炙り丼」


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母と姪
小さなビーチ


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一般道(国道9号線)を通って


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仁万町にある「サンドミュージアム」へ


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世界一の「砂時計」(1年時計)

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間近で見られるレプリカ



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 以前かかわった生徒たちとマレーシアに修学旅行に行ったとき。

その年は精神的に重い女子生徒が何人かいた。

それでもみんな一生懸命に私についてきてくれて楽しい旅行になった。

帰りの飛行機の中。

両サイドに生徒が座り、みんな疲れていたのか眠っていた。

私は、いくつか観られる映画の中からたまたま「砂時計」を選んで観ていた。

心の中がいっぱいいっぱいで壊れそうな生徒たちが少しずつ大人になって・・・

1年生からずいぶん成長したことを旅行の中で感じていた。

そんな思いと重なってか、家族のこと、友だちのこと、恋人のこと、そして、本人のこと・・・

たくさんの悩みを抱えながらも一生懸命生きている生徒たち・・・

それだけで感動し、それとも重なって、涙がじんわりとにじんでいた。

私は誰にも気づかれぬよう涙をぬぐっていた。

いつか、この世界一の「砂時計」を見に行きたいと思っていた。

そして、今回見に行くことができた。

やっぱり、あの時の生徒たちのことを思い出し、胸が熱くなった。

ひとりひとりを思い出し、みんな元気でいますように・・・と、そう祈った。



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蒜山高原から見える鳥取の大山


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蒜山(ひるぜん)



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(岡山県)蒜山のジャージ牛乳と(鳥取県)大風呂敷がコラボしたソフトクリーム(450円)

ここのサービスエリア(蒜山)で一押しのスイーツ










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by ikenosai | 2017-05-04 22:09 | お父さんお母さん | Comments(0)

さくら咲くころ

 今日は春のお彼岸!

昨年4月30日に天国へいった父を思い、そして、まる5年経つ義理の母を思う。

今日は、これからお寺に出かけ、彼岸会にて、父、義理母、そして我々ご先祖の供養へと・・・。


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 もうすぐさくらが咲きそうな感じがする。

近くのモノレール車庫の敷地にもたくさんの土筆が土の中から出てきている。

この1枚の写真は、立川の災害医療センターのあたりから見えるモノレール。

さくらとのきれいなショットが今では幻に・・・。

私が撮影したお気に入りの写真。


今、桜並木の向こうには、大きなIKEAの建物があり、モノレールは見えない・・・。









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by ikenosai | 2017-03-20 08:29 | お父さんお母さん | Comments(2)

塞翁が馬


 紫陽花の咲く6月16日は父の四十九日法要だった。


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 高速バスで津山駅について、汽車を待つ間に、今津屋橋から津山の街を見渡していた。

そして、コンビニで朝食。

広くとってあるイートインコーナーがとても有り難かった。


 この場所は、かつて映画館があった場所。

最後に観たのはキアヌリーブスの「スピード」だった。

田舎特有の2本立て、もう一つは「34丁目の奇跡」。



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 振り返れば30数年前の高校1年の秋、大きな挫折から、私は変わっていった。

何かを達成しようと始めたボクシング。

ひとりで練習するジムを抜け出し、よく走った吉井川の河川敷。

何往復も走っていたこの場所は、今もそのままだった。


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縁に生かされ

 私の青春の原点がこの地にあったことを思い出していた。

鍛え抜いた体幹だけがその後の礎(いしずえ)になって、不思議な縁で運命改革が始まった。

卓球部だったため、部活のあとにジムに行き、朝は八出の河川敷を走り、夜はこの今津屋橋の下を走った。


 高校2年でボクシングのデビュー戦。

卒業までの3試合、すべて同じ相手に負けた。

しかし、やるだけのことはやったという達成感からか、不思議な充実感を味わっていた・・・。

そして、そこで終わるはずだった、それでよかったと思っていた。


 不思議な巡り合わせで、スカウトが来て、私は大学へ進学した。

大学に入るとすぐに、岡山代表で国体に出場。

対戦相手は、アジア大会に出場する日本チャンピオンだった。

そこでは負けたものの、その秋、後楽園ホールでのリーグ戦で、同い年の高校チャンピオンと対戦した。

2年連続でインターハイを制していた選手だった。

これまでに鍛えてきた体幹とスピードがダイナマイトのようなエネルギーになって爆発した。

リングで大暴れした私は、60秒で相手を倒していた。

高校時代で終わるはずだったのに不思議な縁によって開花していった小さな私。

何のために大学に行ったのか?

そのときの役割は、足りない部員の微力ながらの補強に過ぎなかった。

そのお陰で、リーグ戦は全試合に出場した。

高校時代にあこがれていた、後楽園ホールで20戦も戦えた。

 大学4年で引退し、しばらくは東京にいたが、田舎に帰った。



二度目の上京

 田舎に戻って、中学校の講師をしていたが、期限が来て、再び上京することになった。

津山駅に見送りに来た両親。

 
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 出発間際になって、私は初めて父を抱きしめた。

私よりも立派な体格にまだまだ圧倒された。

泣きじゃくる父に、申し訳なく思った。

いよいよ扉が閉まったとき、父は扉を叩いて、くしゃくしゃの顔を見せながら「うんうん」とうなずいて、手を振った。

私はそこから動けなくなり、遠ざかっていく両親をずっと見ていた。

結局、岡山駅に着くまで涙に濡れた顔を上げられないまま、そこに立ちつくしていた。

それから、3年後、私は、彼女を実家につれて帰った。

二度目の上京は、その人とどうしても一緒になりたかったからだった。


 父は私が結婚してからずっと、「おまえはええ嫁をもらった」と褒めてくれていた。

そして、私自身も、彼女の両親に大切にされた。

「寵愛」という言葉の意味と、私が彼女の両親から受けた感覚とが重なる。

遠くにいても、近くにいても、みんな仲むつまじく過ごせた日々を、子どもたちも忘れないでいてほしい。


 田舎を捨てて上京したことをときどき申し訳なく思うことがある。

いつも嬉しそうに迎えてくれていた父を思い出しながら・・・。










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by ikenosai | 2016-06-19 07:19 | お父さんお母さん | Comments(2)

天国へ


「神様がくれた一週間」


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4月23日(土)
 父が危篤との連絡が姉よりあり、父のケータイへ連絡すると、まだ話ができた。

  25日(月)
 朝早くから、姉のメールで、父が肺炎とのこと。
すぐに、職場の上司に話し、大型連休中の私の担当していた業務を全て、分散し、交代していただくことになった。

  26日(火)
 半ば強引な引き継ぎながら、昼前には東京から新幹線に乗って、新大阪から高速バスに乗り継ぎ、父の病院がある中国勝間田で下車。
姉が迎えに来てくれて、その日から、私も看病するメンバーに加わった。
 父は、話すこともでき、臨終はまだまだ先にあるように思えてきた。


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 病院と家との間にある、私の好きな風景。(国道179号線のそば)


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 春の風を感じながら!

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 ウシガエルがすんでいる池!

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 あふれた水が少しずつ!


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 父の病室から見える景色。
高校時代に読んだ、オー・ヘンリーの「THE LAST LEAF (最後の一葉)」を思い出していた。
希望の葉っぱに私たちがなれればと願った。
 姫新線(勝間田駅と林野駅の間)を通る汽車の音が、時報のように!








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4月30日(土)
 命日になる朝が来た。
まだまだ、そんな余波はなかった。
 霜(しも)が降りた朝だった。

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 大型連休の2日目だった。

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 午後から、ひとり外に出て野球を観ていた。
病院から数キロ先、湯郷温泉の近くにあるスポーツの総合施設の野球場。
シニアリーグの練習試合(津山のチーム vs 美作のチーム)
美作といえば、湯郷出身で今も在住の、あさのあつこさんの「バッテリー」、ここはその聖地と言える場所。
野球を観ながら、少年時代の父とのソフトボールの思い出を振り返っていた。
小6のあの夏に市の大会で優勝した思い出。
父が監督で、私がキャプテンだった。
秋には県大会に出場したことも思い出していた。
のびのびとプレイしていた少年時代。
そのまんま私は大人になった。


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 再び病院に戻るとき、車を止めて眺めていた滝川。
この川は、梶並川、吉野川、吉井川に注がれ、瀬戸内海へと・・・。
水に映る西日に、微睡んでいた。
父とのわずかな時間を意識しながら・・・。


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 西日本の夕方は、東京より少し長い。
通り過ぎていく人々、周りにいる人々が輝いて見えていた。
父の薄れゆく命の儚さと重なってか、切なく、そして尊く見えて・・・。

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 26日(火)から帰郷して5日目になる。
昨朝から父の意識レベルは下がってきていた。
痛みの緩和のため、背中には麻薬の湿布が貼られていた。
それまで堪えていた痛みが嘘のようにすやすや眠っている。

 26日(火)、27日(水)、28日(木)と、この3日間で思い出話を交えながら、父に「ありがとう」と言えた。
そして、父からも「ありがとう」という言葉が何度も出ていた。
 父の手を握り、額と額を寄せ合って「共に乗り越えていこう!」と言葉を掛けると、父は「うん、うん!」と応え、お互いに覚悟した。

 48年もの重なり合う父との現世・・・。
とうとう、私たち家族はジェットコースターに乗り込んだ・・・。
そして、今、絶叫の乗り物に一喜一憂しながら乗っている・・・。
そんな感じがしていた。

 午後から、血圧が下がり始め、酸値も少しずつ下がっていることを看護師からも伝えられた。
もう寝ているだけの父。
寝息が穏やかになってきている。
やがって止まってしまう父の呼吸。
寂しさが少しずつ私を襲い始めてきていた。
もう語らうことはないかもしれない。
しかし、ときどき、手を握り「お父さん」と言葉を掛けている。
どうか、苦しみが少ないようにと祈る私。
「シュワシュワ」と酸素が通る瓶の音に一定のリズムで「~ハッ、~ハッ、~ハッ」と父の寝息の音がする。
その横で、父を見ながら座っている私。
今日も叔父(父の弟)が付き添ってくれていた。
昔の話をたくさんしてくれた。
父との若い頃、大阪にいたころの話など・・・。
私の知らなかったことがたくさんあった。


 夜8時半頃

 以前、肺炎をおこした父は、あの危機的な状況から生還していた。
あれから5年目の春が過ぎていた。
一旦、肺が弱ってしまった父は、弱いなりの肺を、高地トレーニングのような状態で鍛え上げていた。
なので、医者からは2日ともたないだろうと言われていたのに6日が過ぎようとしている。


 夜9時40分頃

 血圧が下がり、120くらいもあった脈拍が50~60に・・・。
肩で呼吸をしていたはずが、浅くなり、弱まっている。

 そして、呼吸が止まった。
もう、戻ってこない・・・。
再び、1回だけ大きく肩で息をした。
それが最後で、もう息がなかった。
「お父さん、お父さん」と耳元で呼んだが父の意識はもうこの世には現れなかった。

 ジェットコースターが止まった。
私は周りを見渡した。
みんながいた・・・。
しかし、父だけがそこからいなくなっていた。

 
 夜22時頃

 当直の医師が死亡を確認した。
呼吸器、諸々の管が外され、やっと父は身軽になった。
主事医も自宅から駆けつけてくれた。

 看護師2人、母、姉、姪、義兄、私で父の体をきれいにし、お気に入りのスーツを着せた。
そして、叔父の車で運ばれて父は帰宅した。
すでに日付が変わっていて、葬儀屋が家に来ていた。



 5月2日(月)通夜

 5月3日(火)告別式



 父の遺言どおりに葬儀がおこなわれた。



 父が私にくれたもの、それは慈悲の一言に尽きる。

みかえりを求めない無償の愛を惜しみなくいただいた。

小学校6年のとき、前年までのソフトボールの指導者が勇退し、私の担任の説得で、父が監督になった。

毎日、16時に仕事を切り上げて、指導に来てくれた。

その年、市の大会で優勝。

私が卒業後も監督をし、3年間務め、市の大会では全て優勝し県大会へ出場した。


 今年に入ってからも父が言い続けていたことがある。

「子どもは親の背中を見て育つ、だから、おまえの生き方は子どもに影響を与えるけん、子どもたちをしっかりとみてやって欲しい・・・。」と。

そして、必ず、「お父さんはそれができなかった。許しちゃってくれいや・・・。」と私に謝っていた。

私は、その言葉を聞くだけで、ああ、親孝行をしなければという思いになる。

しかし、墓石に布団は掛けられぬ・・・。

なので、その思いを子どもたちにと思う。

しっかり、子育てをすることで父への恩返しにしたい。

 
  お父さん、どうか天国から見守っていてくださいね。

いつか私がそちらに行くまでの間・・・。



 棺の中に花をたむけるときだった。

それまでは涙が出なかった。

もう覚悟ができていたから、そう思いこんでいた。

喪主の私は、一番最初に棺の中に花をおくと、思わず父の髪をなでて、自分の頬を父の額につけて「ありがとう、お父さん、さよなら・・・。」と父に話しかけると、止めどなく涙が溢れてきた。

やっぱり、泣いてしまった。

おいおい泣いて、父にお別れをした。





















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by ikenosai | 2016-05-13 19:03 | お父さんお母さん | Comments(9)

運動会を観ながら・・・

 昨日は娘の中学の運動会を観に行った。

 先月の息子の運動会は仕事で行かれなかった。

 中学にもなると、競技中心で、いまいち盛り上がりにはかけるが、私は感動しつつ見入っていた。

 娘が出た競技種目は、二人三脚、百足競争、大縄跳び、クラス全員リレーだった。

 当日までの様子は時々伺っていて、大丈夫かな?と心配していたが、勝負の世界はやってみなければ分らない。

 どの競技も申し分のない結果で本当に良かったが、特に印象に残ったのがクラス全員リレーだった。

 3クラスでの対抗戦で、どのクラスもそれなりの戦術で挑んでいたが、娘のクラスは後半に駿足の生徒を集め、半周も遅れていたはずが、終盤に大逆転し、観衆への最高の演出に私は目頭が熱くなっていた。

 昨年度の合唱コンクールでも話したが、やはり、学校は素晴らしい。

 あの多感な年頃の子達の融合の場はまさに学校にあるとつくづく感じた日だった。

 今から、20年近く前、私は岡山県津山市にある中道中学校で社会科の教師をしていたことがある。

13ヶ月ほどの産休代替だったが、運よく運動会と文化祭が2回あった。

 生徒たちと共に協力し合い、計画を進めていくと色々な面から成長が見えてくる。

 教育の真髄はこの関わりの中に垣間見ることができる。

 実は教師がどこまで真剣に生徒たちを信じて関わるかであるが・・・?

 結果としてでてくるのもこういった真剣な取り組みの中からであると思う。

 教師として携わった1回目の運動会のとき、私は計り知れぬ充実感で満たされた。

 それは、生徒たちと共にやり尽くしたことへの充実感からだと今は感じている。

 応援合戦では、リーダーをしていた先生から、応援の仕掛けで使うスロットマシーンを作りたいと相談され、その日の夕方、父と竹薮に入り、長い竹をもらってきた。

 私の幼少期に鯉のぼりをあげる時にいただいて以来の竹薮に、父は懐かしそうに当時の話をしてくれた。

 美術部の生徒に、製作の詳しい内容を伝えると、見る見るうちにスロットマシーンが出来上がり、当日は、3人の先生がドラムを動かし、スリーセブンに合わせ、揃った瞬間に、スロットマシーンの下のゲートから、ボンボンを振りながら生徒たちが一気に出てきて応援合戦がフィナーレになる光景だった。

 応援合戦を向かい側で見ていた先生たちから、「あれは、素晴らしかった。誰のアイデアだ。」と聞かれ、「ボンボンを持って出てきた生徒たちがとても楽しそうで絵になっていた。」と言われ、演出の喜びを強く感じた。

 それぞれの学年代表で結成しているリレーでは、先生チームも加わり、私は第1走者をさせていただいた。

  しかし、第1走者は1年生なので同じ場所では差がついてしまうため、私のスタート位置は一番後ろの走者からさらに10メートルほど後ろからだった。

 それでも、次の先生には1番でバトンを渡せていたので、私の面目はたった。

 2年生はそこそこ速く、追いつかれてきて、3年生で一気に抜かれ、先生チームはビリだった。

 中には、もと陸上部で100メートルの県の中学校記録を持っている女の先生もいた。

 驚くことにその先生は生徒たちの体育の教科書で県の記録として名前が載っていた先生だった。

 その先生さえも、3年生にことごとく抜かれてしまっていたので、私は後半の走者でなくて良かったと思った。

 私自身の中学の運動会も思い出していた。

 小学校では全てのリレーがアンカーで、応援団長をしていたのに中学では一気に陰の存在。

 800メートル走に出場し、7人中ビリ、2年のときは400メートル走で7人中3位。

 3年のときは、おたふく風邪と髄膜炎で2週間休んで卒業アルバムの運動会のところを見ても、記憶にない場面ばかり。

 決して輝けるものではなかったと記憶している。

 それでも、母は応援に来ていたし、運動会前には自主練習をしていた私にスタミナドリンクを毎日飲みなさいと1箱買ってくれていた。

 両親との色々なことを思い出していた。

 小学6年のとき、父はソフトボールチームの監督になった。

 レフト側のファウルボールの位置に校舎があり、1階が音楽室で2階が図書室。

 1階の音楽室のガラスがファウルボールで何度も割られていたので、その都度用務員のおじさんがガラスを入れていた。

 大変な仕事と思った父が、家に余っている大量の板ガラスを寄贈し、1階の音楽室の窓全面に鉄のネットを組んで取り付けた。

 事前に学校から許可を得て、何日かに分けて少しずつ奉仕活動として自己負担で取り付けた。

 それ以来、音楽室のガラスは壊れなくなった。

 それは、卒業後も、私が大学を卒業して数年後の建て替えまでの間ずっとだった。

 私が通う学校のために精一杯できることをやってくれた父に今はとても感謝している。
 

 果たして私は、子どもたちの通う学校にどれだけ恩返しできているだろうか?そして、先生たちに感謝できているだろうかと思いながら1日を過ごしていた。

 学校は素晴らしい、とにかく子どもたちを見ながらつくづくそう思った。

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by ikenosai | 2013-06-09 13:48 | お父さんお母さん | Comments(0)

花嫁さん

 明日は5月の第2日曜日、母の日ですね!
 僕の大切なお母さんのお話をぜひ、ご覧ください。



 これは僕のお母さんの話です。
 生まれ育った南国の漁村から瀬戸内海を渡り日本海側の浜田漁港にひっこしてきました。最初は近所のかんづめ工場で働いていましたが、大阪のしんせきの店を手伝うため家族のもとをはなれ、ひとり大阪にいきました。大阪の店にはたくさんのお客さんがきていて、親しい人もでき、街にもすっかりなれていました。

 正月を二日後にむかえたある夜、お店によくくる男の人がやってきて、明日いなかに帰るんだが、できればあなたをつれていなかに帰りたいと話したのです。それが花嫁さんになるお母さんへのお父さんからのプロポーズの言葉でした。花嫁さんは迷うことなく次の日荷物をまとめて、汽車に乗って僕のいなかにやってきました。おおみそかの夜、とつぜん花嫁がやってきて、みんなはびっくりしました。花嫁さんはもっとびっくりしました。いなかには、三番目と四番目の弟、二人の妹がいる大家族だったのです。代々続く家だったので、一族が集まるいそがしい家でした。えらいところにお嫁にきたと思ったことでしょう。

 一年ほどしてお姉ちゃんが生まれ、それから一年半して僕が生まれました。がんこなおじいちゃんやわがままなおばあちゃんにもまけずにがんばっていましたが、たえられなくなったある日、お姉ちゃんと僕をつれて、いくあてもなく家出をしたことがありました。それでも僕たちの幸せを考えてくれた花嫁さんは覚悟をきめて、お父さんの待ついなかにもどったのです。なれない土地でたいへんでした。それでもその土地になれようと一生懸命生きました。

 僕が幼稚園のとき、がんこなおじいちゃんが病気でなくなりました。
わんぱくでいたずらばかりしていた僕はいつもみんなにめいわくをかけていました。あやまりにいくのはいつも花嫁さん。

 中学生になった僕は、不良になり、先生にも、近所の人にも迷惑をかけていました。あやまりにいくのはやっぱり花嫁さんです。「息子がご迷惑をかけてすんません。」といつも頭をさげてばかりでした。

 僕が中学二年生のときおばあさんが寝たきりになってしまい、そこから介護の生活が三年間続きました。来る日も来る日もおばあさんのお世話です。ご飯を食べさせて、体をきれいにふいてあげます。とこずれやオムツかぶれがあると、どくだみの葉っぱをかわかし、それをにだしたお湯を体に塗ってあげました。

 おばあさんは花嫁さんに文句ばかり言っています。嫁は信用できないと言われても、いつもやさしくお世話しました。あいまを見て家々の電気メーターを見る仕事をして家計を支えていました。おばあさんが死ぬ少し前、おばあさんがわがままばかり言うもんで、花嫁さんはとうとうおばあさんと言葉でけんかをしてしまいました。僕から見るとおばあさんが悪かったと思います。それでもなくなる直前でなかなおりしました。夏の終わりの暑い日でした。

 おばあさんがなくなった数日後は花嫁さんの四十一歳の誕生日でした。お姉ちゃんとお金を出し合ってケーキを買ってささやかにお祝いをしました。
 
 僕が高校を卒業するころ、花嫁さんはヤクルトの配達のお仕事を始めました。僕の小学校の学区内でした。一軒一軒にヤクルトはいりませんかと売りにいきました。僕となかよしだった子の家はすぐに買ってくれましたが、僕となかが悪かった子の家は、やっぱり買ってくれませんでした。

 配達で地域の情報を知り、僕によく話してくれました。僕が東京の大学に行ってからもずっとヤクルトを配っていました。地域ではヤクルトさんと言われていました。山あいに住む一人暮らしのおじいさんやおばあさんの家にもヤクルトを配達しました。三輪のバイクで毎日毎日配達にいきました。そのうちいろいろな人の悩みや相談を聴くようになりました。みんな花嫁さんが来るのを楽しみにしていました。
 
 いつも買ってくれていたおじいさんやおばあさんがなくなると香典をもって葬式にいきました。

 僕がいなかに帰省していたとき、家の近くの駅まで花嫁さんが見送りにきました。たまたま居合わせたおばあさんが「あんた、ヤクルトさんの息子さん?」とたずねてきました。僕が返事をすると「いつもお世話になっとります。」と花嫁さんに親切にしてもらっていることを話してくれました。僕は嬉しかった。花嫁さんがみんなに好かれていて。花嫁さんはみんなに親切にして、みんなからたよられていました。

 おじいさんの弟が寝たきりになったときもお世話になる老人ホームが見つかるまで家で介護をしました。お父さんより18歳も若い弟が病気でなくなったときも、花嫁さんはなくなる間際までお世話をしました。
 
 花嫁さんが僕の家にきてからたくさんの人がなくなりました。花嫁さんはいつもみんなのいる仏壇に手を合わせ、ご飯や水をおそなえし、線香をたき「なんまんだ、なんまんだ・・・」ととなえます。

 お嫁にきてからもうすぐ50年になります。四国から日本海にうつり住んだ花嫁さんの両親も何年も前になくなりました。もう帰る場所もなくこの岡山の土地で静かに暮らしています。

 僕たちの一族のために花嫁さんは自分の人生をささげて生きています。お父さんの親や兄弟、しんせきを天国におくり、とうとうこの土地の一員になりました。

 花嫁さんがいないとみんなが困ります。お父さんも困ります。しんせきの人たちも困ります。近所の人たちも困ります。長い年月をかけて花嫁さんはこの土地の人になっていったのです。

 花嫁さん、ありがとう、僕の家にお嫁にきてくれて。

 花嫁さん、ありがとう、僕を産んでくれて。

 僕の大切な大切なお母さん・・・、いつも、いつもありがとう。




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by ikenosai | 2013-05-11 02:36 | お父さんお母さん | Comments(0)

いつか来る覚悟の日までに・・・

 この1ヶ月はもの凄く忙しかった。

3月最後の週は三途の川を渡りかけていた父に会いに金曜の夜から夜行バスに乗って津山に帰った。

姉に迎えにきてもらって、そのまま父の入院している病院へ行った。

その週の火曜日に母から電話があり、もうダメかもしれないと不安そうな様子で涙声だった。

今生のお別れかもしれないと覚悟して水曜日に夜行バスのチケットをネットで予約しようとした。

しかし、空席の隣が女性のためか手続きが完了しないため、木曜日、仕事帰りに小田急の営業所に行ったが予約受付の時間がすでに終了していた。

窓口の若い男性職員の方に事情を話したら、それなら私が明日の朝一番に責任を持ってチケットを発行し、さらに都合の良い営業所で受け取れるよう準備しておきましょうと全てを上手く手配してくださった。

出発の金曜日、予約確認の電話をするとすでに準備が出来ていたので、帰りによって新宿から夜行バスに乗った。

毎日、残業で睡眠不足だったせいもあってか、夜行バスで初めてぐっすり眠れた。

津山に着くと、3月も終わろうとしている時期にもかかわらず、白皚皚たる一面雪景色、やはりこの街は寒い。

姉に送られ、実家の集落を過ぎ、病院に着いた。

個室に移された父は、酸素マスクをし、腕には何箇所か点滴を刺され、尿袋をベッドの脇に置かれ、身動きも出来ない状況だった。

後期高齢者の父は、肺炎を患い、高齢者特有の免疫力の弱さからか熱が出ず、自然治癒する見込みもなく、ただただ神の、仏の力にすがるだけだった。

それでも私が病室に入ると、よくきたとばかりに嬉しそうに話し始める。

そのたびに巡回のドクターより喋らないようにと叱られて、酸値が上がらないと命の保証がないと言われていた。

その都度父は苦笑し、両手を合わせ謝っていた。

結局、一晩を病院で過ごし、姉が夜中の3時までそばについていて、私がそのあとからそばについた。

母は久しぶりに家でゆっくり寝た。

わがままな父の看病で疲れていたことだろう。

白々と夜が明けて、近くの高速バス乗り場まで義兄に送ってもらった。

年老いた父に私が出来たことは、そばについて思い出話をしたことと、残された短い余生で仏性を磨いて欲しいと切に話したことだった。

心から先祖の供養と良きことを思い、良き行いをして欲しいとひたすら頼んだ。

いつ天国に行くか分からぬ不安の中から、少しずつ覚悟が定まってきた。

いずれ行く道、お父さんとまた巡り逢いたいと手を握って話した。

一晩を振り返りながらバスの中でぼんやり過ごしていた。

新大阪から新幹線に乗って帰ってきた。

その後、父は日に日に回復していった。

酸素マスクが外され、ご飯も食べられるようになった。

その間に同じ肺炎で入院していた人が亡くなっていた。

父に何かお力がいただけたのだと深く感謝した。

それでもいつかは天国にいく。

ドクターからは2回も三途の川を渡りかけたと言われていた。

5年ほど前に肺炎になったときも奇跡的に助かって、次はないですよと念を押されていた。

その父とまだ電話で話しができる、そう思うだけでまだまだ安心している私だった。




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by ikenosai | 2011-04-23 13:58 | お父さんお母さん | Comments(0)

やさしい母の背中


 私の母は、愛媛県の漁村で生まれ、父とは大阪で知り合って、海のない中国山脈の麓に嫁いできました。

20歳そこそこのまだまだ遊びたい時期に、父にそそのかされてやってきたように思いますが、当時はどこに行っても貧しいのが当たり前だったようで、母も懸命にその土地に馴染もうとがんばっていたと思います。

厳しい祖父と変わり者の祖母、父の妹と弟も同居していて大変だったのではないでしょうか。

姉と私が生まれてから数年後、祖父は他界しました。

私が幼稚園年中のとき、ダンプカーにはねられて、3ヶ月ほど入院しました。

母は何日も連続で私の付き添いをして、毎晩添い寝をしてくれました。

家のこともやり、病院に来ては私の世話をして大変だったと思います。

誰に文句を言うでもなく、いつも優しい母でした。

ある時、私がウサギの風船が欲しいと言い出したら、分かった分かったとすぐに買いに行ってくれました。

しかし、私のイメージしていたウサギの風船はヘリウムの入った浮かび上がるものだったので、これは本当の風船じゃあないと駄々をこねると、ないものはしょうがないとなだめるのです。

そのときは、不満を言って困らせていましたが、その母のしてくれたことへの嬉しさが今頃になってこみ上げてきます。

私を育てるのに一生懸命だったのだと、苦労かけたなあ、悪かったなあと思うのです。

ひとりものの祖父の兄が近くの公会堂で住み込みの管理人をしていて、いつも家に来て、私たちと一緒に夕食を食べていました。

少しでも支え合おうという考えもあったようです。

そのお爺さんには、私は随分と可愛がってもらったことを覚えています。

私が小学校のとき、お爺さんは、ぎっくり腰になり、歩けなくなってしまったのです。

何ヶ月間か、母が自宅で介護していましたが、民生委員や市の福祉のすすめで、養老院へ入所することになりました。

最初のうちはよく面会にもいっていましたが、私が高校のとき、独り寂しく亡くなったのです。

亡くなる1ヶ月ほど前、養老院から死期が近いと連絡がありました。

母がお爺さんに面会に行ったのですが、意識もハッキリせず、話ができなかったそうです。

棺桶に入ったお爺さんの痩せ細った姿に、人間の孤独さを感じさせられました。

私が中学2年のとき、祖母が夏風邪を患い、何日間か寝込みました。

体重が百キロほどある祖母だけに、治ってはみたものの、歩けなくなってしまったのです。

毎日、食事の準備と排泄の介助、毎晩の清拭で大変なようでした。

しかし、祖母の心の内を理解していたのでしょう、母は、文句も言わず、約3年間もその生活を継続していたのです。

内職をしながら、電力会社の依頼で電器メーターのチェックをする仕事もやっていて、そんな姿もあってか、私は不良を卒業するきっかけをこの時期にもらったように思います。

いよいよ祖母の元気がなくなってきた頃、母に何度も不満をいう祖母の姿がありました。

あまりにもひどかったようで、母が我慢できず、とうとう怒りだしたのです。

私も姉もどうにかなだめながら、母を落ち着かせました。

祖母も謝って、お互いが理解し合えて良かったなあと思っていた数日後、祖母はこの世を去っていきました。

私はなんて、素敵な母に育てられたのだろうとそのとき、思えたのです。

だから、決して母の悲しむことはできないなとも思いました。

私が高校を出て上京する頃、母はヤクルトおばさんをしていました。

4キロ四方のエリアを毎日、三輪バイクで回って配達に行きます。

母の話で驚いたのは、山間部の一軒家に独りで住んでいる老人が何人かいて、母が配達で訪れるのを楽しみにしているそうでした。

バリカンを出してきて、頭を刈ってくれと頼むお爺さんもいたそうです。

そのお爺さんの子どもたちは都会に出ていて、お爺さんだけで静かに独りで生活していたそうです。

しかし、あまりの寂しさからか、首を吊って亡くなったそうです。

「独りは寂しいんじゃ」と母は残念そうにそのことを話してくれました。

母はいつもそういう孤独な年寄りの話をしみじみと私にしてくれました。

誰かが気にかけてあげなければいけないこと、人は支え合っていかなければ駄目なんだと、直接は言わなくとも、私に伝えようとしているのがよく分かったのです。

母は両親に、最期の最期まで送金をしていました。

年中苦労の絶えない母が一生懸命生きて、人生の意味を私に伝えようとしていました。

貧乏な生活ではありましたが常に一喜一憂して、毎日を大切に積み上げている母が私には誇りだったのです。

自分にできる精一杯のことをしている母が私は大好きです。

そんな母のような生き方を私もできるようになりたいと思うのです。

親の思いは自分自身がこうやって子どもを授かり、子育てをしていくうちに分かっていき、感謝できるようになっていくのだと思います。

人生はまだまだ学ばなければいけないことが山積みであるからこそ、これからも一生懸命生きていこうと母の背中に教えられているのです。


 どこの馬の骨だか判らぬ私でさえ、愛し、祈り続けていてくれる両親がいます。そんな慈愛に満ちた親の愛が私の心の支えになっているのです。



 今日は母の日、お母さんいつもいつもありがとう!


Gift de お花屋さん
 思い出したらお花を贈ろう!
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by ikenosai | 2010-05-09 08:40 | お父さんお母さん | Comments(0)

大きな鯉のぼり



 田舎で中学の教師をしていた20代のころ。

運動会の応援合戦でどうしてもスロットを作りたいというパチンコ好きの上司の希望で、骨組みだけでも費用をかけぬようにと考えた。

結局、父に相談し、川辺の竹藪に行って調達することをすすめられた。

初秋の夜空の下で父と一緒に竹を切っていた。

ふと父が昔のことを思い出した。

「お前が生まれてから、鯉のぼりを揚げるのに大きな竹竿が必要で、この辺ではここの竹藪の竹が一番大きくて、土地の持ち主に頼んで長いやつをいただいた。」

と懐かしそうに話した。

思わず、勝手に切っていいのかと尋ねると、事後承諾になるが、お願いに行くから心配するなとのこと。

そういえば、私が幼少のころ、大きな鯉のぼりが揚げられていたのを覚えている。

そのころは、男の子が生まれた家は、どこの家でも大きな竹の竿を立てて、大きな鯉のぼりを揚げていた。

何でも一生懸命にやってくれていた父だったと、色々なことを思い出した。

すっかり、引退してくたびれた蒸気機関車のような父ではあるが、私の記憶の中では、あのころのたくましい現役の機関車が走り続けている。

ありがとう、お父さん。

たくさんの思い出をありがとう。

今でこそ、都会のマンションやアパートでは、ベランダに小さな鯉のぼりしかかけられないが、そんな父の思いはしっかり受け継いでいきたい。

今日は、こどもの日。

とにかく、元気に強くたくましくそして、心の優しい人間に育ってくれればいいかな?

そう思っている。
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by ikenosai | 2010-05-05 05:43 | お父さんお母さん | Comments(0)