いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
by ikenosai
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新のトラックバック
終戦のエンペラー
from Anything Story
カテゴリ
画像一覧
お気に入りブログ
記事ランキング
最新のコメント
 いつもやさしいコメント..
by ikenosai at 21:10
素敵なお写真ですね。 ..
by suzu-clair at 08:01
> manekinnte..
by ikenosai at 21:45
大トロ・・・・ そ..
by manekinntetti at 06:24
> sakomamabo..
by ikenosai at 23:10
以前の記事
メモ帳
ライフログ
タグ
ファン
ブログジャンル
検索
人気ジャンル

カテゴリ:温故知新( 11 )


終戦となったゴールデンウィーク!

 私のゴールデンウィークが終わり、昨日から仕事。

連休中は、息子の野球の練習にも行けて、家では美味しいビールも飲めた。


e0148909_09273670.jpg

e0148909_09275917.jpg

 ビールのつまみに、鴨肉を焼き、フランクフルトを焼き、レモンを効かせたドレッシングのサラダ。

鴨肉にはバルサミコ酢をベースに濃厚なソースをかけて・・・。(これが子どもたちには一番受けていた。)


 翌日も沈む夕日を眺めながらビールを飲んだ。

前夜と同じフランクフルトにうちの奥さんが西荻窪の実家近くのパン屋さん「アンセン」で買ってきたパンと一緒に・・・。


e0148909_09281635.jpg

e0148909_09282893.jpg
 シベリア抑留で亡くなったうちの奥さんのおじい様の詳しい情報が入りそうな話を聞いた。

すでに新聞でも、カタカナ表記で名前が記されていた。

すぐに、インターネットで調べると、すぐに出てきた。

漢字名、読み仮名、抑留された場所、亡くなった日、出身都道府県が載っていて間違いなかった。

終戦後の翌年の4月末日、アルタイ地方で天に召されていた。

一族にとっての終戦の日となった。


 うちの奥さんにとっての本当のおじい様。

その後に、おばあさまは、リタ夫人に先だたれた竹鶴政孝さんと巡り合い、一緒に暮らしている・・・。

竹鶴さんが亡くなると、リタさんのお墓に納骨し、数年前におばあ様も亡くなった。

おばあ様は今、シベリアで亡くなったおじい様と一緒のお墓から私たちを見守ってくださっている・・・。













[PR]

by ikenosai | 2015-05-05 09:55 | 温故知新 | Comments(1)

自分が変わればすべてが変わる


自分が変われば相手も変わる

心が変われば態度も変わる

態度が変われば行動も変わる

行動が変われば習慣も変わる

習慣が変われば人格が変わる

人格が変われば運命が変わる

運命が変われば人生が変わる
              ヒンズー教の一節より


 何も残せない。

私は自分の人生で残せるものは何もないと分かっている。

どんな生き方であろうと、そうだと分かっている。

やがて、百年が経ち、千年が経てばもう何も残っていないだろう。

土地を持っても、お金を持っても、どんなに財産を持ってもいつかなくなる運命だと分かっている。

なのに、今欲しいもの、必要と感じているものはそんな類(たぐい)のものばかりである。

心を満たそうとするものは、おおかたの煩悩に影響を受け、自分勝手な欲望に囚われすぎている。

あれも欲しい、これも欲しいと目に入るものが何でも欲しくなってしまう。

しかし、ほとんどのものは、少し考えると、そんなに必要でないものばかり。

私の心を満たすものはいったい何なのだろう。

物欲は、やがて限度を超え、メガサイズへと膨らんでいく。

結局は、きりがない。

なのに煩悩はそれを貪ろうと必死なのである。

得られる収入から物欲を満たすにはあまりにも限界がある。

だから私は考えた。

私なりの生き方を。

それは、身近なところでの思い出づくりだった。

娘が、もし、パパが死んだら大好きな本をお供えしてあげるね・・・と言った。

私は、娘と私の本棚にある本を一冊ずつ見ていった。

全てが現世での悩みを解決するための本だった。

生き方について、自己啓発について、子育てについて、教育について・・・等々。

結局、あの世で必要な本は一冊もない。

この世で必要だと感じていた本を使わないでもよい生き方が実は最高の生き方だった。

それは、魂に向き合うことだった。

妻の・・・。

娘の・・・。

息子の・・・。

お互いの両親の・・・。

姉の・・・。

そして、私に関わる身近な人たちすべての・・・。

こんな私にできること・・・。

誠実に向き合い、それぞれの記憶の中に真心のこもった思い出を残すことくらいしかできない。

だから、私は生きる。

いつか行く彼岸で無念を残さぬために・・・。

そして、いつか子々孫々に良き心が芽生えるわずかな種を蒔くために・・・。


 だから、自分が変われば相手も変わる

心が変われば態度も変わる

態度が変われば行動も変わる

行動が変われば習慣も変わる

習慣が変われば人格が変わる

人格が変われば運命が変わる

運命が変われば人生が変わる





[PR]

by ikenosai | 2010-10-31 07:18 | 温故知新 | Comments(0)

温故知新 ~職人に学ぶ~



「癖(くせ)というのはなにも悪いもんやない、使い方なんです。癖のあるものを使うのはやっかいなもんですけど、うまく使ったらそのほうがいいということもありますのや。人間と同じですわ。癖の強いやつほど命も強いという感じですな。癖のない素直な木は弱い。力も弱いし、耐用年数も短いですな。ほんとなら個性を見抜いて使ってやるほうが強いし長持ちするんですが、個性を大事にするより平均化してしまったほうが仕事はずっと早い。性格を見抜く力もいらん。そんな訓練もせんですむ。それなら昨日始めた大工でもいいわけですわ。」 

西岡常一(つねかず)さんは法隆寺金色堂や薬師寺金堂などを古代の建築様式で復興させた宮大工棟梁です。

1908年に代々法隆寺に仕える宮大工の家に生まれ、幼少のころから祖父に仕事場に連れていかれ、じっと座って大工の仕事を見ていたそうです。

あの人は釘を打つのがうまい、あの人はまた釘を曲げたというのをすでに感じていたそうです。

父親からは、これからは設計や製図ができなければ仕事にならないからと工業高校をすすめられますが、祖父の一声で農業高校に行きました。

そこは土の命や木の命を知る修行の場だったようです。

宮大工の棟梁の仕事は木を選ぶところから始まります。

自ら山に入って木を自分で選定してくるのです。

木をそれぞれ別々の山から買ってくるのではなく、山全体で買うことによって、木の色々な性質が見えてきます。

その性質の違いをうまく組み合わせて使うのだそうです。

大きな建築は、何人もの大工が関わって行います。大工さんたちの口伝の中に“木の癖組みは工人たちの心組み”という言葉があります。

“工人たちの心組みは棟梁の工人らへの思いやり”という言葉もあります。

上手い下手、速い遅い、様々な大工がいます。

それぞれに得手不得手もあります。

それぞれの工人たちの癖を読んで仕事を動かしていく、まさにマネジメントな訳です。

それが昔ながらの棟梁の心構えだそうです。
[PR]

by ikenosai | 2010-09-30 05:20 | 温故知新 | Comments(0)

今日は広島の原爆の日



 今朝のラジオでも、電車内のニュースでも報道が無かったので、通勤のバスを降りてから、「そうだ、今日は原爆の日だ。」と思い出していた。

私が生まれる20年以上も前のことだからピンとこない。

それでも、中学校時代の夏休みの登校日や平和教育で、詳しく学んだ記憶がある。

あんな酷い目にあっても、日本はアメリカにやさしい。

大したもんだと思う。

一向に謝罪のないアメリカをここまで受け入れている日本は本当に偉いと思う。

8月は、終戦の月、何年経っても、癒されることのない戦争被害者の霊魂が誰かの供養を求めて漂っているのではないかと思うことがある。

本当に戦争はいけないものだとつくづく思う。

どんな形で終わっても、必ず誰かが悲しい思いをする。

 昔、NHKの連ドラでやっていた“おしん”の中で、戦時中におしんの夫、竜三がどんどん若者を戦地に送って、敗戦になったとき悔やんでいたシーンがある。

竜三とおしんの最後の夜に、竜三が「私の人生の中で一番素晴らしかったことは、おしんと巡り会えたことだよ。」とおしんに告白する。

私は、それを再放送で妻と観ていて、涙をグッと堪えていたのを今でもハッキリ覚えている。

翌朝、竜三は誰もいない草むらで自刃してこの世を去る。

いくら、フィクションとはいっても、こんな思いをして自決した人も少なくないと思う。

少なくとも、原子爆弾を落として、平気でいられるヤンキーよりは正常だと私は思う。

それでも、社会が、世の中がひとつの方向に突き進みだしたとき、後戻りすることが難しくなって、どうにもならなくなってしまうことは多々あると思う。

だから色々な意見が言える環境は必要である。

とにかく、原理主義に陥らない環境が大切であり、全体で協調し合うことである。

それは家族でも同じであり、国家間でも同じである。
[PR]

by ikenosai | 2010-08-06 20:19 | 温故知新 | Comments(0)

言葉のDNA


 比較言語学にたずさわっている大学の先生と年に1回会う日がある。

もともとは社会学専門の先生だが、趣味の分野で比較言語の研究をされている。

先生の話によると、我々日本人の祖先のほとんどはシュメール人だそうである。

アイヌの言葉も何段階かに置き換えていくとシュメール語とつながる。

北からのルートと南からのルートによって時代に差はあり、辿ったルートで言葉の変化も違っている。

どちらにせよ、シュメールにつながるという。

どうやら八百万の神の信仰もシュメールの人々がたどり着いた東の果てで開花したのであろう。

それが今の日本人のルーツである。

その影響もあり、神にちなんだ地名や名称も所々に残っているらしい。

“さけ”という言葉1つにしても、もともとは神に捧げるお供え物の意味を持っており、それが、飲み物では酒であり、食べ物では鮭だったとのこと。

言葉の文化は文明の地より少しずつ移動し、世界に広がっていったのだと推測される。

その研究の話を先生は私に興味深く話してくださった。

果たしてどこまでが真実で、どこからが推測で終わるのかはまだハッキリしていないが、科学の進歩でそれもハッキリする日がくると私は信じている。

養老孟司さんの著書の中でマイマイカブリのDNAを研究している人たちのことが書かれていたが、言葉の由来と似ているところが多く、こちらは完全に科学的なデータによる証明がされるであろう。

このマイマイカブリのDNAを調べた結果、日本列島の本州だけでもいくつかの島々に別れていたことがハッキリしている。

なぜ、マイマイカブリなのか、実はマイマイカブリは這うだけの虫なので移動する場所がせまく、遠くにいかなかったため、その場所にとどまって今に至っている。

そして、人気もないことが今のマイマイカブリの繁栄を支えていたのである。

夏休みの昆虫採集にしても、マイマイカブリは人気がなく、集めて売りさばくようなメジャーな昆虫ではなかったことも幸いしている。

水辺に蛍を復活させる活動が地域でおこなわれているが、その地域に根づいたとしても、地域ごとのDNAのデータがあれば出身地が明らかになることになる。

十年ほど前にフランスのノルマンディー地方に行ったことがある。

モンサンミッシェルの中のレストランでプリプリの生ガキにレモンを搾って白ワインを飲みながら食べたのを覚えている。

あのフランスのカキにしても、1960年代後半、病気で全滅してしまった。

しかし、そこから再びカキの養殖が始まった。

日本のマガキがフランスに渡っていったのである。

話によると、東北地方、三陸海岸から送られたとのこと。

ワインを作るブドウにしても、品種によっては、ブドウの木の根を食べる害虫によってヨーロッパの主要産地では全滅状態になったことがある。

しかし、南米チリに渡り、難を逃れた苗木によって耐性のあるアメリカ系品種の台木にヨーロッパ系品種を接木するという方法で今は復活している。

ここではグローバルによってのメリットもあるということが分かる。

さて、言葉のDNAに戻るが、1543年の鉄砲伝来にせよ、1549年のキリスト教の伝来にせよ、そこから外国の言葉は文化とともにたくさんの変化をもたらしている。

ボタンやカバン、コップにパン・・・などなどたくさんの外来語が日常会話で使われている。

幕末の開国以後はさらにたくさんの言葉が入ってきた。

日本人は外国語を上手く取り入れ、活用するようである。

比較言語学の先生の話では、“背高のっぽビル”という言葉で外来語を多様に受け入れているかが分かるという。

背高は日本語、のっぽは朝鮮半島、ビルはビルディングつまり英語である。

ビルディングは高い建物の意味で、のっぽは高い、背高は背が高いなので、3つとも同じような意味の言葉がくっついているだけである。

しかも、それぞれ違う国の言葉である。

日本人の智恵には、外国のものをただ受け入れるというだけにおさまらない力がある。

日本語と外国語の組み合わせでもよく分かる。

それは言葉だけにとどまらない。

木村屋のあんパンの誕生でも説明がつく。

幕藩体制が終わり、失業する武士がたくさん出始めたころ、転職に踏み切った武士がパンを作り始めた。

日本人に合う美味しいパンを考えた。

酒の酵母を使い、さらにあんこを中にいれた。

その当時のまま、日本一高い土地で今も売られている。

それが木村屋のあんパンである。

日本人は外国からのものを柔軟に受け入れ、今も新しい時代をつくり続けている。

そのDNAは、東端に最初にやってきたシュメール人によって、四季の変化に富んだこの地でつくりあげられた多様な生き方への智恵だったのかもしれない。

この原点に戻れば、何か新たな智恵を授かるかもしれない。

それは、世界を宥和へと導く智恵であって欲しい。

平和で心豊かな社会をつくっていくためにこそ歴史はひもとかれるべきだと密かに私は願っている。

それが、科学的解明であっても、歴史的解明であっても・・・。





[PR]

by ikenosai | 2009-12-19 22:09 | 温故知新 | Comments(0)

この“一瞬”にこそ愛を


私たちはひとつの愛を得た時、いつでもその永遠をこい願うけれど、それは今夜で終わるかもしれないことを常に覚悟しておくべきなのだ。そう思えば、その日その日に、精一杯の愛を相手にそそぎ、愛情の出し惜しみなどはしないで、たとえその夜かぎりで天地がさけ、ふたりの幸福と平和が破壊されようとも、生きていた限りに愛しつくしたという想い出が残るだろう。すべての万物は流転するし、移ろい変わるものである。物も心も一瞬として留まることのない理を知っておくべきだろう。


 これは、瀬戸内寂聴さんの著書の中に出てくる一文です。

私たちは今、何のために生きていて、何を心のよりどころにしているのでしょうか。

幸せになるための秘訣は、その時、その時を一生懸命に生きていくことだと、終末医療に携わる人が話されてましたが、本当にそうだと思います。

今を懸命に生きなくては希望は見えてきません。

懸命に生きることで、心が育つのです。

心が育っていかなければ希望にはつながっていきません。

希望がなければ、なかなか幸せにはなれません。

怠けている人には幸せはやってきません。

もし、くるとしても、それは、お金や地位といういかにも幸せそうなメッキに包まれた虚無にしか過ぎません。

いつか、メッキがはがれたとき、哀しさと虚しさがどっと押し寄せてくるのです。

大切なのは今ある真心を育てながら精一杯生きていくこと。

これこそがまさに“一期一会”なのです。
[PR]

by ikenosai | 2009-10-10 06:33 | 温故知新 | Comments(0)

“失望するなかれ”

 『中学2年のとき、1つ目の学校は1学期で、2つ目の学校も2学期でクビになった。白皚皚たる一面雪景色の中を私は1人とぼとぼと駅に向かっていった。退学となったその日、駅に着くと学校でずっと悪戯をしてきた悪ガキの子分たちが誰1人として見送りに来ない。畜生め、と思ったが汽車が来たので乗り込むと、校長先生が窓を叩いていた。先生は、私に「いいか、これからいろいろあるだろうが『失望するなかれ』という言葉を忘れるな。どんな窮地に落ちようと、失望せず、まっすぐに進むんだぞ」と言うと、私はふてくされて「もう、失望してます。あれだけ面倒みてやった仲間が、1人も見送りに来ないんですから」と答えた。すると先生は「来ないはずだ、今東光を駅で見送るやつは停学処分にすると言い渡してあるからな」と笑って言った。やがて発車時間が来て、汽車が踏切りにかかったら、いたね、仲間たちが黒山のようにいやがった。悪ガキの子分たちがほとんどきてくれていた。そいつらが「ワ-イ、ワ-イ」って大声を上げ、力の限りに手を振っている。私は泣きながら、校長先生の言葉をかみしめていた。「失望するなかれ!」と。』



  直木賞作家であり、天台宗平泉中尊寺の貫主僧侶だった今東光大僧正は若かりし頃、素行の悪さから豊岡中学を退学となって神戸に返されます。

この日、校長先生に言われた「失望するなかれ」が強烈な言葉となって心に宿ります。

東京大学でもぐりの学生をしていた頃、川端康成と親しくなり、文学への道を拡げていきます。

大学の先生たちは、もぐりの学生だとは知らず、随分と今東光さんを可愛がったそうです。

ちなみに、この今東光という名は、本名だそうです。

日本郵船で船長をしていた父が、大海原の先、水平線の彼方に光り輝く日の出を見ながら、東から昇る太陽に感謝し、命名したそうです。

まさに、希望の光りだったのでしょう。

それでも、紆余曲折あり、波乱に満ちた生涯を送っていきます。

親交のあった芥川龍之介の自殺をきっかけに僧侶となり、心の友であった川端康成や谷崎潤一郎までもが失望し、自殺します。

しかし、彼は命ある限り生きぬいていきます。

瀬戸内寂聴さんは彼を師事し、得度します。

寂聴という法名は、彼がつけました。

やがて、70歳を過ぎ癌におかされますが、懸命に79歳までの天寿を全うしました。

亡くなる直前の頃にもこの「失望するなかれ」の話をし、とめどなく涙を流していたそうです。

若い頃にかけられた言葉は、その後に大きな影響をもたらすこともあるのです。

魂の入った言葉は魂の入った心によって、言葉によってしっかりと伝わっていくのです。

大人の言葉かけは、それだけ大きく影響するのです。
[PR]

by ikenosai | 2009-10-03 05:39 | 温故知新 | Comments(0)

“愛の果実は奉仕、奉仕の果実は平和”

 私は自分の心の中に、死にゆく人々の最後のまなざしをいつも留めています。そして私は、この世で役立たずのように見えた人々が、その最も大切な瞬間、死を迎える時に、愛されたと感じながら、この世を去ることができるためなら、何でもしたいと思っているのです。


マケドニア(旧ユーゴスラビア)の首都スコピエの裕福なアルバニア人家庭の3人兄弟の末っ子として1910年に生まれた“マザー・テレサ”は18才で修道院に入り、その後、インドのカルカッタで教鞭をとります。

結核で療養のためヒマラヤのふもとダージリンに行く途中の汽車の中で神の声を聞くのです。

勿論心の中にです。

それから「死を待つ人の家」を開きます。

それは人間としての尊厳に敬意を払い、貧しい人々が最後に魂の尊厳を感じながら安らかに死を迎えることのできる施設だったのです。

マザー・テレサは言っています。

この世の最大の不幸は、貧しさや病ではなく、誰からも自分は必要とされていないと感じることだと言っています。

これはカルカッタの貧しい人々にとっての話しだけではなく、老いていく私たちの問題でもあるのです。

マザー・テレサの開いた「孤児の家」の壁にはこんな言葉がかかっています。

“考える時間を持ちなさい 祈る時間を持ちなさい 笑う時間を持ちなさい それは力の源 それは地球でもっとも偉大な力 それは魂の音楽 (中略) 施しをする時間を持ちなさい それは天国へと導く鍵”・・・こうした言葉が目に触れ、口にされ、行為を支える意志は常に反復され強固になっていくのです。

マザー・テレサにとってもっとも重要なのは言うまでもなく“行為”でした。
[PR]

by ikenosai | 2009-09-21 06:54 | 温故知新 | Comments(0)

“心のよりどころ”漱石がつたえるもの・・・

 出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。
来る途中小間物屋で買って来た歯磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れてくれた。
そんな物は入らないと云ってもなかなか承知しない。
車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌よう」と小さな声で云った。
目に涙が一杯たまっている。
おれは泣かなかった。
しかしもう少しで泣くところであった。
汽車がよっぽど動きだしてから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。
何だか大変小さく見えた。



上の文章は夏目漱石の“坊ちゃん”に出てくる場面です。

母に嫌われ、父に嫌われ、兄とも上手く付き合えなかった坊ちゃんにとって、理解者は住み込みでいた下女の清だけでした。

社会となかなか折り合いが付けられない坊ちゃんにとって、唯一の心の拠り所であったようです。

人は独りでは生きられません。

だからこそ、どこかで心の隙間をうめてくれる存在を求めているのです。

そして、この物語の結末はこう続くのです。

死ぬ前日おれを呼んで、「坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っております」と云った。
だから清の墓は小日向の養源寺にある。」

[PR]

by ikenosai | 2009-09-20 15:38 | 温故知新 | Comments(0)

“子煩悩”だった森鴎外


  父は人の気持について、実に微妙な、同情深い心を持っていた。

その人の欠点、ひけめ、そうしたものに少しでも触れる事を非常に憎み、かつ怖れた。

 母が子どもたちを叱責するような場合、その子どもの容貌だとか、その他の欠点に触れるような事が少しでもあると、父はたとい自分の子どもに対してであってもそう言う事を言うものではないと言ってよく怒った。



 上の文章は、森鴎外の次女、小堀杏奴さんの著書『晩年の父』の中に出てきます。

父としての鴎外は、その当時としては珍しいほど子どもたちに対してあたかい接し方をしていました。

幼い子どもたちが寝るときに、鴎外の手を子どもが握って安心して眠りにつく。

寝入るとまた書斎に戻っていって仕事をしました。

子どもが話す長々としたおとぎ話を喜んで微笑みを浮かべながら聞くのです。

こうした子どもの世界に同じように浸って話をしたのは、教育的な配慮もあってのことでした。

妻に対して、「お前はもっと子どもの話を一生懸命に聞いてやらなくてはいけない。

大きくなるほど子どもは親に何でも話せるようにして置かないと、思いがけない間違いが起こるものだ」と言っていたそうです。

鴎外は、陸軍の軍医総監を務めた軍人であり、家でもよく軍服をきたまま過ごしたそうですが、心は物静かで柔らかな人物だったようです。
[PR]

by ikenosai | 2008-11-09 09:51 | 温故知新 | Comments(0)