いけのさい~子育てと教育の一隅を照らす


「ありがとう!」で終わる人生を目指して、日々のことを振り返り、そして、これからのことを考える。
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カテゴリ:海まで走ろう( 8 )


ゆうひが丘の総理大臣

 休日の今日は、早起きして小田原までひとりで出かけた。

小田原は、うちの奥さんとつきあい始めたころに行って以来だった。

とにかく今日は、海が見たくて海へ!

昔、テレビで観ていた「ゆうひが丘の総理大臣」、舞台は東京の多摩地域(八王子付近)なのに、なぜか海が出てくる。

実は、この小田原の海の場面である。(下の写真)

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中村雅俊が唄うエンディング曲「海を抱きしめて」の歌詞・・・。

「生まれてこなければよかったなんて、心がつぶやく日は、人ごみに背を向け、 会いに行くのさ、なつかしい海に・・・(中略)

        ・・・いつの間にか、生きることが、また好きになる僕だよ!」

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漂流していたサッカーボール!(よく見ると小田原高校と書いてあった)

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曇天ながら、かすかに青い海!

 小田原城にも行ってきた!

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小さい秋が、ここにも・・・!

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城内には、この地の英雄、二宮尊徳を祀る「報徳二宮神社」がある。

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駅には、大きな小田原ちょうちん!

城下町に点在する、干物やかまぼこの店。

そして、梅干しも・・・!

かまぼこをお土産に持って帰った。














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by ikenosai | 2015-12-03 21:45 | 海まで走ろう | Comments(4)

桜が満開


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                 我が家のベランダ越しから観る桜!


 4月を待たずして桜が咲いた。

昨日の朝は半分くらいの花が咲いていたが、夕方には満開に!

心地よい風に心が躍っていた。

中学2年の新学期、春風を切って海まで行った日のことを思い出していた。

津山から瀬戸内海を目指して、午後2時から自転車に乗って出掛けたあの日を。

上級生に脅されて、逃げ道を失って、やむなく海まで走って行った。

今はない片上鉄道の線路をつたって、さらに吉井川を下って行った。

不安からひたすら逃げたくて走っていたあの瞬間を今もはっきり覚えている。

しかし、自転車をこいで行くうちに、心地よい疲労感に包まれていた。

やがて、自分の悩みがちっぽけなものに変わっていく瞬間があの心地よい風の中から僕の小さかった心にショックを与えていった。

気が付けば汽笛の彼方に大きな船が浮かんでいる。

海まで来た、海まで来れた。

その達成感が僕を支配し、その先の恐怖心を掻き消した。

そして、僕は不良という肩書に興味がなくなり、生まれ変わろうとし始めていた。

 不良からの卒業はやがて僕を、普通の高校生へと導いた。

高校からの帰り道、吉井川沿いの道をつたって今津屋橋まで歩いていた。

川の向こう側に咲く山一面の満開の桜。

その美しさに僕は思わず立ち止まり、動くことができなくなっていた。

あのころに観た一番美しい風景だった。

津山城址の鶴山公園に咲くソメイヨシノもそろそろ満開になるはず。

30年前の美しい景色は僕の青春時代の原風景。

一瞬たりとも止まらない時間の中で、同じような景色に巡り会う。

しかし、一つとして同じものはない。

あの一瞬に感じた思いを、今日の桜が思い出させてくれた。






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by ikenosai | 2015-03-31 18:04 | 海まで走ろう | Comments(0)

にっぽん縦断 こころ旅

火野正平さんの「にっぽん縦断 こころ旅」、今週も中国地方(島根・山口)。

それぞれの寄稿者の思い出の原風景のお便りに涙があふれてくる。

ふと思い出した僕の青春時代のこころ旅・・・。

寄稿には間に合いませんでしたので、この場所で明かします。


1985年(昭和60年)夏休み。

 7月21日、僕の追いかけていた青春が終わった日。

全国大会にかけていた最後の試合が終わった。

明日から何を目標に生きていけばよいのかと失望の淵に立っていた。

両親との約束で就職することだけは覚悟していたので、残りの夏休みをどうにか充実させたいという一心で、翌日からバイトを始めた。

酒販会社のバイトは朝から晩までビール運び、繁忙期ともあって、酒屋に卸すビールの数は半端ではない。

毎日のように大きなトラックが来て、どっさりとビールをおろしていく。

当時は断トツでキリンのラガービールだった。

アサヒ、サントリー、サッポロは隅っこにポツリ。

ほとんどが黄色のP箱に埋め尽くされて、塀のようになって、酒販会社の周囲を囲んでいた。

 私はそこで、最後の青春の思い出にと、旅費稼ぎに必死だった。

 津山を拠点に、日替わりで配達の助手をした。

市内の酒屋は午前、午後でトラックに積み込み、郡部はさらに大きなトラックで朝、積んで、おろした後、空いた隙間に空き瓶を積んでいく。

遠くは、福渡(現 岡山市北区)、上斎原(現 真庭市)、奥津温泉、柵原(現 美咲町)、加茂町(八つ墓村のモデル)、阿波村(現 津山市)、物見峠を越えると鳥取県。そんなエリアの酒屋を一軒一軒訪れ、配達をする仕事だった。

体力だけには自信があったので、楽しかった。
 そして、お金をためて、仲の良かった友だちと自転車で中国地方を一周する旅行をした。

 

1日目 8月19日(走行距離180㎞)

早朝5時に出発。

東津山から、久米、落合、久世、勝山と抜け、美甘、新庄、そして、四十曲峠(ここはおそらくあさのあつこさんのバッテリーで出てくる“おろちとうげ”と僕は推測する。)。下は旭川支流でとった写真。

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峠を越えると、渓流から水を引いたプールがあった。

小さな山の小学校、さらに下って岸本、日野、そして、米子へ、この日はかなり無理した。

途中で撮った宍道湖の写真、もうすでに陽は西に傾いていた。
 それでも漕いで、出雲に。
 橋の下にテントを張って野宿。



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2日目 8月20日(走行距離80㎞)

 友だちにお願いして、この日は、浜田にある僕の祖父母の家に。

瀬戸ヶ島という本土と橋でつながった小さな島。

僕の大好きな島。

家の前は青くて深い日本海。

到着後すぐに僕は海に飛び込んだ。

その頃は、祖父母ともに元気だったので、みんなにもてなしていただいた。


3日目 8月21日(走行距離100㎞)
 赤ん坊の時から知っている海。島根の海は僕の原風景。

 

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 萩に向かった。

萩城の中にある海辺のキャンプ場で一夜を過ごした。

 両親に萩焼の湯呑を買った。

 この日は甲子園の決勝、山口代表の宇部商業が出場していた。

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4日目 8月22日(走行距離70㎞)

 秋吉台を抜け、湯田温泉へ。

 途中、秋芳洞、景清洞を観光。

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 ドライブインの厨房で水をもらった。

やさしいおばさんが、氷水を入れてくれた。

 長い自転車道を通って湯田温泉に。

 共同浴場に入って、河原の芝の上にテントを張って野宿。


5日目 8月23日(走行距離130㎞)

波乱の一日の幕開け。

午前中、岩国の錦帯橋へ。

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その後、知らず知らずに入ってしまった自動車専用道路。
 通行する車の視線が冷たく、時々怒っている人も。
 パーキングエリアで気づき、自転車を担いで塀から出した。
 さらに、2km近くもあるトンネルではほこりまみれに・・・。
 さらに、さらに・・・。
 宮島へ渡るも、宿代が高くて、野宿もできそうになく、広島駅へ。

 この夜、友だちと大喧嘩になり、一旦は別行動に。

 それでも、気になり、喧嘩別れした場所に戻ると、友だちはのんびりタバコをふかしていた。

互いに謝って、仲直り、そして、広島駅周辺の公園のベンチに横になっていると、知らないおじさんが、こんなところで一夜を明かすのは危険で、蚊もいるからと、家に呼んでくれた。

 単身赴任のそのおじさんは、段原という地区で、原爆にも耐えたぼろアパートの6畳一間に住んでいた。

1枚の布団を横にして、3人で寝た。

財団と協力して福祉施設をつくるために広島に来ているとのこと。

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6日目 8月24日(走行距離80㎞)

 親切なおじさんと別れ、平和公園へ。

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そして、憧れていた尾道へ。

転校生、時をかける少女、さびしんぼ、当時の新日鉄のコマーシャルで尾道大橋を知った。
 それ以来、必ず自転車でこの橋を渡ると決めていた。(今ではしまなみ海道の入口)

 残りのお金を出し合って、最後は民宿に泊ってのんびり過ごすことにした。

興奮を抑えられない僕は、友だちを宿に残してひとり千光寺山へ、林芙美子の放浪記の石碑に行って、そこからの尾道水道の景色を眺め、失神しそうだったことを今でも覚えている。 

通りすがりの観光客、若い学校の先生(女性)が一人で観光に来たと話してくれた。
 僕の興奮に共感してくれていた様子。
 お互いに写真を撮り合った。

 映画の撮影場所がいくつもあり、大林宣彦監督の実家が階段の途中にあった。

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7日目 8月25日(走行距離150㎞)

 朝早く、友だちと尾道大橋を渡り、向島からの千光寺山を眺めていた。

そして、最後の日、ひたすら津山を目指した。

途中の福山で、立ち寄った店にいたおばさんが偉いわねとアイスクリームをおごってくれた。

岡山市を経由し、まずは、東津山の友だちの家に行き、家の人に挨拶して、まだ明るいうちに自宅に着いた。

 両親はまだ、畑に行っていた。

帰ってきたことを伝えると、父が淡々と「おかえり」と言った。

 なんだか、すべてがこじんまりとして小さく見えた。


夏休みが終わり、担任の先生の政経の時間。

先生が、「今日は授業は休みじゃ。」と僕を前に呼んで、「お前、夏休みの旅行の話をみんなにしてくれえ。」とのこと。

 僕は、最初から最後までの出来事を詳細に話した。

 みんなは、僕の話に興味津々な様子で聴いてくれていた。

 僕は、ふたたび旅行のことを思い出し、嬉しくなっていた。

 僕の両親と、友だちと、友だちの両親と、直前にも関わらず、許可をくださった担任の先生に感謝が込み上げていた。

 そして、旅行の途中で、氷水をくださったり、アイスクリームをおごってくださったおばさん、一晩、家に泊めてくださった広島のおじさんへも感謝が込み上げていた。

僕の高校3年の夏はこうして過ぎていった。

このあとに、人生を変える大きな大きな出来事があることなどまったく予想もしないまま・・・。






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by ikenosai | 2014-10-21 12:36 | 海まで走ろう | Comments(0)

束の間の休息

 相変わらず、12月は忙しい。

それでも昨日は仕事で海に行けた。

私はやっぱり海が好き。

そう感じながら海を眺めていた。

 冬の海は何だか寂しい。

日が短く、あっという間に暮れていく。

薄暗い波間が郷愁を誘う。

思い出すのは10代のころ。

どんなことも乗り越えられたあの年代。

海を眺めては、命の洗濯をしていた。

そして、今日も命の洗濯をして東京に帰った。





南房総岩井海岸
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大房岬
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 夢を見た、クリスマスの夜。

浜辺を歩いていた、主と並んで。

砂の上に二人の足が、二人の足跡を残していった。

私のそれと、主のそれと。

ふと思った、夢の中でのことだ。

この一足一足は、私の生涯の一日一日を示していると。

立ち止まって後ろを振り返った。

足跡はずっと遠く見えなくなるところまで続いている。

ところが、一つのことに気づいた。

ところどころ、二人の足跡でなく、一人の足跡しかないのに。

私の生涯が走馬灯のように思い出された。

なんという驚き、一人の足跡しかないところは、生涯でいちばん暗かった日とぴったり合う。

苦悶の日、悪を望んだ日、利己主義の日、試練の日、やりきれない日、自分にやりきれなくなった日。

そこで主のほうに向き直って、あえて文句を言った。

「あなたは 日々私たちと共にいると約束されたではありませんか。

なぜ約束を守ってくださらなかったのか。

どうして、人生の危機にあった私を一人で放っておかれたのか、まさにあなたの存在が必要だった時に」

ところが、主は私に答えて言われた。

「友よ 砂の上の一人の足跡しか見えない日、それは私が君をおぶって歩いた日なのだよ」。

                                         「浜辺の足跡」より


 
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by ikenosai | 2013-12-12 10:23 | 海まで走ろう | Comments(0)

日帰りで行った小豆島


 高校2年の夏、私は初めてボクシングの試合に出た。

2分間を3ラウンド戦い、あっという間に試合が終わった。

自分の山場をつくることもなく、判定で負けた。

勝てば、国体出場の可能性も充分だったが、その希望が途絶え、何か他のことでもやって楽しい夏休みにしようと考えていた。

所属していた卓球部の練習もあり、試合もあったので、何かはやっていた。

それでも、まだまだ体力は有り余っていた。

部活のあとに、20キロほど走ったりもした。

休日は、那岐山に走って登ったり、岡山港や姫路城までサイクリングをしたりもした。

計画的な旅行がしたいと思い始めたので、去年一緒に鳥取まで行った友だちを誘って、サイクリングの計画を立てた。

泊まりはあきらめ、日帰りで計画を立てた。

早朝に、津山を出発し、吉井川を下って行く。

柵原を抜け、吉野川が吉井川に注ぐところで、橋を渡り、佐伯を抜け、和気を目指す。

片上鉄道をつたうように下り、何個も何個も駅を越えて行った。

中学2年のときの家出の道をしばらく走っていた。

山陽本線の和気駅で少し休んだ。

少し、上り坂があり、小さな峠を越えると、急に下って行く。

赤煉瓦でできた備前焼の煙突が所々に見え始めてきた。

さらに、備前から海づたいに行くと日生港がある。

その港が、小豆島に行くには一番近かった。

フェリーの2等旅客席と自転車の運賃を受付で支払い、船に乗り込んだ。

私たちの自転車は、隅に止められた。

トラックや乗用車も何台か乗っていた。

船から海を見る限り、濁って汚かった。

船が動き始め、甲板に出た。

いくつかの島の間を抜け、広い海に出た。

潮風を浴びながら進む船上が心地よかった。

濁っていた海が次第にきれいな青色になってきた。

そして、真っ青な海が一面に見えてきた。

しばらくして、小さな島と大きな陸が見えてきた。

小さな島を横切ると、この先は小豆島の大部港である。

ここからはお隣の香川県。

船から降りて、帰りのフェリーの出発に間に合うようにと考えながら自転車を漕ぐことにした。

地図上では平坦に見える島だったが、実際に自転車で通るとアップダウンの激しい坂ばかりだった。

しかも、山間部もあり、ダムもあった。

周りは田んぼや畑があり、内陸部だけをみると、ここが小豆島なのかと思うほどだった。

何もない坂道を通っていて昼になったので、たまたま見つけた食堂で昼食にした。

運が良かった。

その食堂のあとにも先にも店はしばらくなかった。

帰りのフェリーを考えながらだったので、結局どこも観光できないまま、時間になって引き返した。

孔雀園の手前だった。

土庄の名所も壺井栄の名作「二十四の瞳」の像も見ることができなかった。

ひたすら自転車を漕いで、坂道をアップダウンしていただけだった。

それでも、視界に広がる地中海のように美しい瀬戸内の海を眺めながら、海の碧さに心奪われていた。

なぜなのか解らないが、帰りのフェリーから家に帰るまでのことを今は覚えていない。

しかし、小豆島の周辺の青くて美しい海は今も記憶にある。

オリーブオイルでつくった化粧品を母に買おうと思ったが、あまりに高くて買えなかったことも今でもはっきり覚えている。




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by ikenosai | 2009-07-30 06:14 | 海まで走ろう | Comments(0)

海さえあれば楽しかった

 高校生になって、最初の夏休みがきた。

友だち3人と早々に、キャンプを計画した。

大して小遣いを持っていなかったので、自転車で日本海の浦富海岸に行くことにした。

浦富海岸は鳥取砂丘から兵庫県に向けて行ったところにある絶景の海岸である。

私以外の2人は、すでにサイクリング用のドロップハンドルのいいやつに乗っていたので問題なかったが、私は中学時代から乗っているくたびれた自転車。

1人が気を遣ってくれて、余っているいいのがあるからと貸してくれた。

テントやタオルケット、飯ごう、鍋、燃料等々分担して持つことにした。

早朝5時に待ち合わせて出発した。

自転車で遠出するのは中学2年のとき兵庫県の相生に行ったサイクリング以来だった。

楽しさが込み上げてくるのか、みんなスイスイ飛ばして、意気揚々と黒尾峠の坂を上っていた。

峠のドライブインで少し休んだ。

まだ、早朝だったので、人は少なかった。

山の中だったので、水道の水が冷たく美味しかった。

鳥取県側の道はほとんど下り坂で、しかも急だったので、あっという間に鳥取市に入った。

そこから国道9号線を通って、ひたすら浦富海岸のある岩美町を目指す。

砂丘の側をとおり、ああ海まできたという実感でみんな興奮気味だった。

思いの外、上ったり下ったりしながら、やっと浦富海岸にたどり着いた。

日差しは強く、暑かったが、昼までには充分に時間があった。

海水浴場の事務所に行き、手続きをした。

高校生でしかも自転車で来たことを伝えると、料金を半分にまけてくれた。

テントをはり、荷物を入れ、自炊できるようにした。

急いで水着に着替え、その日から原始人のような裸の生活が始まった。

太陽が見えている時間帯はご飯を食べるとき以外は、水中メガネとシュノーケルを付け、ずっと潜っていた。

どんな美人が水着姿でいてもお構いなしだった。

私たちはイルカのようだった。

そして、海の景色の一部のようだった。

夜は、そこらじゅうで花火をやっていたので、私たちも買い込んで野郎だけで楽しんだ。

翌日の朝は、早朝に目が覚め、飯ごうで飯を炊き、朝ご飯を作った。

そして、8時頃にはもう海の中にいた。

昼ご飯を食べるとき以外は、夕日が沈むまで海の中にいた。

いくら潜っても飽きない景色。

魚の群れや、浅瀬にやってくるボラを追いかけて遊んだ。

小島の岸から飛び込んだりもした。

午後から海水浴場のイベントがあり、宝探しに参加した。

広い砂浜を利用し、枠内の砂の中に色々な品物が埋めてあった。

みんな、それぞれに何か見つけたが、何を見つけたのか今は覚えていない。

それでも、3日連続の海の暮らしはすごく楽しかった。

3日目、午前中は海で遊んでいたが、午後、荷物をまとめて、海をあとにした。

充分に満足感はあったはずなのに、まだまだ海にいたいという気持ちが強かった。

鳥取駅まで1時間近くかかった。

そこからは、ひたすら千代川を上っていくだけである。

来るときよりも上り坂が多く、みんな疲れが出始めていた。

智頭駅を過ぎたあたりから、本格的な上り坂に入る。

それでも、体力に自信のあった私は、テンポ良く、スイスイと自転車を漕いで上っていった。

上り坂も最後のほうは急なヘアピンカーブが続く。

それでも、漕いで漕いで登り切った。

振り返ると、2人がついてきていなかった。

20分ほど休憩しながら待ったが、一向にくる気配がなかった。

坂を見下ろしても、姿はなく、心配になった。

私は、とうとう上ってきた坂をまた下り始めた。

長かったはずのヘアピンカーブをあっという間に駆け下りてみると、疲れ切った2人は、自転車を路肩にねかせ、本人たちも路肩の安全な場所で仰向けになって死んだように寝っ転がっていた。

体力の差は歴然とあった。

私は運動部に所属し、毎日2時間以上の運動は当たり前だったし、ちょうどマッチョにあこがれていたこともあって、筋トレにもはまっていた。

彼らも普通の高校生並みの体力はあったが、私が異常に元気だったと思う。

再び列をつくり、坂道を上り始めた。

彼らを先に行かせ、私はその後ろについた。

さすがに2度目のヘアピンは疲れた。

それでも、彼らのペースだったので、ついて行くことができた。

黒尾峠の頂上のドライブインで一息入れた。

トンネルの向こうは、岡山県。

あとはほとんど下るだけ。

ここまでくればもう安心だった。

途中まで一緒に行き、私だけ方向が違うので途中で別れた。

家に着いたのは夕方だった。

ヒグラシの鳴き声が山の方から盛んに響いていた。

家にはまだ誰もいなかった。



 今日は海の日、当時はそんな祝日はなかった。

それでも、中学や高校のときは、毎日が海の日かプールの日だったように思う。

さらにお金のない日は、川に潜ってナマズやアユを捕っていた。

その川も今は、とても泳げるような川ではない。

あんな田舎でさえ、時代とともに環境破壊が進んでいるのだと思うと、何だか悲しい感じがする。

3年前の夏、四万十川に行った。

今では日本最後の清流なんて言われているが、私の実家近くの川も昔は同じような清流だった。

那岐山の麓、塩手池から流れる広戸川は、私が子どもの頃はまだまだきれいだった。

堤防近くの浅瀬にうつぶせになると、遡上するハヤがお腹のすき間に入ってくる。

それを手づかみで捕るのが楽しかった。

近くには、駄菓子屋もあり、300ミリのコーラをよく飲んでいた。

その場で空き瓶を返すので、一本50円で飲めたのも、何ともありがたく、いい時代だったなあと懐かしい。

そんな駄菓子屋も店主が亡くなり、儲からない趣味のような店だったので今はない。

あるのは、どこへ行っても金太郎飴のごとく、個性のないコンビニだけである。
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by ikenosai | 2009-07-20 07:14 | 海まで走ろう | Comments(0)

真夏の砂丘まで


 16歳の夏休み、その年の夏はバイトが見つからなかった。

何もすることがなく、退屈で仕方がなかった。

お金がなく、暇だけが無限にあった気がする。

昼ご飯を食べて、自転車で海まで出かけた。

私の場合、自転車でふらっと出かけるのは、10キロ単位が当たり前だった。

岡山まで60キロ、鳥取まで70キロの位置に私の家はあった。

どっちに行っても片道2~3時間は漕がなくてはならない。

どうせならと過酷な峠を越えて、日本海を目指すことにした。

午後1時前には出発した。

20キロほどで黒尾峠の坂道にさしかかる。

12段シフトの軽い自転車は、自分の部屋に置いて眺めてはうっとりするくらい大切にしていた。

片手で軽々と持ち上がる自転車は、去年の夏のバイトで買った命の次に大切にしていた自転車だった。

炎天下の中、ひたすら漕いで漕いで上っていく。

トンネルをいくつか越えて、馬桑川の側を走る国道53号線をひたすら上っていく。

夏の炎天下とはうってかわって、勢いよく流れる渓谷が目で涼しさを感じさせる。

ループ橋を通り、一気に急な坂が立ちはだかる。

それでも、岡山県側の峠の坂は大した苦労もなく終わった。

トンネルを越えると、鳥取県の標識が見える。

小さなドライブインがあり、名物の鯛焼きが道端で売られている。

涼しい標高の高いところで、1年中商いをしている。

冬は雪が降り、凍結した道路になるが、それでも鯛焼きは売っている。

黒尾峠のてっぺんからは一気に坂を下っていく。

あっという間に智頭駅を過ぎ、千代川を左右に下り、あっという間に穏やかな平坦の地に下りると、そこは用瀬、さらに行くと河原までスイスイと走っていく。

その勢いで進むと千代川が広がっていき、大きな河口に出て行く。

さらに漕ぐと、もう日本海である。

家を出てから2時間少々で海まできて、砂浜から、ぼんやり海を眺めて体を休めた。

コーラを飲みながら防波堤にもたれて休んだ。

砂丘まで砂丘までと意識はあったが、海水浴の人たちを眺めているうちに、ここまでくればいい。

海が見られたことで満足していた。

そして、上着を脱ぎ、短パンのまま泳いだ。

心地よい海の冷たさが、炎天下の中を走り抜けてきた熱い体を癒してくれた。

ふわふわと海に浮いて、しばらく涼んだ。

そして、再び現実に戻り、日が傾く前にはここを出発せねばと思った。

足を乾かし、砂をふるい、靴を履いた。

海水でべたべたする体のまま、シャツを着て、千代川を左右に上り始めた。

あれだけ楽にスイスイとやってきたので、帰りの上り坂はやたらと長かった。

漕いでも漕いでも頂上に着かない。

そのうち、急なヘアピンカーブの上り坂が続く。

やっと来た。

やっと鳥取が終わる。

そして、黒尾峠のあの鯛焼き屋が見えた。

トンネルを越えると岡山県である。

ここまでくれば、あとは目をつぶっても帰ることができる。

そんな安心感で家路を急いだ。

そして、日没までには家に着いた。

真っ黒に焼けた体が、さらに日焼けし、赤くなっていた。

顔中に出た汗が、出ては乾き、出ては乾いて、顔中が塩まみれになっていた。

熱いお風呂にひりひりしながら入った。

くたくたになり、布団に横たわり、いつの間にか眠った。

翌日は登校日だった。

みんなから海に行ったのかと聞かれた。

行ったとだけ伝えたので、誰も自転車で、しかもひとりで行ったとは知らないまま今日にいたっている。

今でも思う。

時間があればまた行ってみたいと・・・。





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by ikenosai | 2009-07-13 13:55 | 海まで走ろう | Comments(0)

海まで走ろう

 それは、新学期が始まった13歳の春だった。

授業はまだ始まっておらず、昼前には皆、家に帰った。

私も家に帰ろうと思っていたが、偶然に嫌な集団と出くわしてしまった。

奴らは、1つ年上の不良グループで6人いた。

私が、通りがかったところを待ってましたとばかりに行き先を塞ぎ、ひとりひとりが、それぞれの欲しいものを万引きしてこいと脅すような口調で言い、期限は明日までだと言った。

私は、そんなに怖いとは感じなかったか。

しかし、何分にも厄介だった。

もし明日、万引きをせず、のこのこと学校に来たら、何かの仕打ちを受けるだろう。

そう思うと、どうも憂鬱になる。

良い方法を考えなければと思いながら家路をたどっていた。

帰る途中、私はあることをひらめいた。

それは、家出をすれば、明日は学校に行かなくてすむ。

ただ、それだけのために、私は家出をすることを決心した。

机に地図をひろげ海までどのくらいあるか調べてみた。

直線で見れば50キロぐらいだが、道をたどれば70キロ以上はある。

まして、こんなに遠くへ1人で出かけたことは1度もなかった。

私は、道に迷わないか少し心配だった。

しかし、川を下って行けば、なんとかなるだろうと安易な気持ちで出発することにした。

出発前、不安なことが1つあった。

それは、お金を少ししか持っていなかった。

それでも決行し、親友の家に寄って、事情を話した。

そして、詳しい行き先は告げず、ただ、海まで行くと伝え、出発した。

午後2時を少し過ぎていた。

風もなく、ぽかぽかとした春だった。

自転車に乗り、吉井川を目指した。

吉井川は鳥取県との県境の中国山脈から流れる大きな川で、中流には私の故郷、津山がある。

私の家は津山の街から8キロ程はずれた、集落にあった。

近くにあった広戸川をつたって3キロも行けば、吉井川に出る。

吉井川を渡って、私は、時計を見た。

2時半になる頃だった。

私はついに覚悟を決めて、一心不乱にペダルをこぎ始めた。

感じる風はまだ暖かく、心地良かった。

しばらくして、となりまち町に入った。

川の向こう側から大きな鉱山が見え、鉄道も見え始めた。

それは片上鉄道で鉄鉱石を主に運んでいる単線の鉄道だった。

1時間に1本ぐらいの間隔で旅客車両が走っていた。

赤くとんがった屋根の駅が2~3キロおきにあったので駅名を見ることを楽しみにして走り続けた。

吉井町に入って川沿いの道が途切れた。

橋を渡り、反対側の川沿いの道に変えた。

長く長く続くなだらかな道、川を下っていたためか、上り坂はほとんどなかった。

ベンガラで一面が真っ赤な工場があった。

道にもその赤茶けた色が染まっていて、辺りは静かで人の気配もなく不気味だった。

小さな川からは赤い水が吉井川にそそがれていた。

私は、一心不乱にペダルをこぎ続けた。

ただ、今の現実から逃れようと必死だった。

佐伯町に入った。

まだまだ海は遠かった。

なだらかな単調な道を走っていた。

海まで、海までと、そう思いながら。

そして、まだまだ暗くなる気配は感じられなかった。

未開の地にこんな冒険があったことを私は初めて知った。

好奇心は益々高まっていった。

和気町に入り川沿いの道がなくなった。

再び橋を渡り、反対側の川沿いの道に移った。

しばらくの間、民家もなく静かな道が続いた。

通る自動車も少なかった。

そして、その静寂の中から大きな、大きな工場が川の向こう側に見えてきた。

黄色のビールケースが塀のように積まれている。

大きなキリンビールの看板が見えた。

そこはビール工場だった。

キリンビールが岡山でも作られていたことをそのとき知った。

西日に向かいながらビール工場が遠ざかっていく。

やがて、川沿いの道がなくなった。

地図を持ってきてなかった私は、どうにかこの先の道を探さなければと思いながら、海の方向を考えた。

南だ、南に行けば海にたどり着く。

そして、しばらくの間、迷いながら民家の路地を走っていた。

辺りが暗くなってきて、どこを走っているのか分からなかった。

お腹も減った。

喉も渇いた。

しかし、あまりお金は持っていない。

買い物をする店も近くにはなかった。

そうしているうちに、カップヌードルの自動販売機を見つけた。

少し休もう。

そう決めて、しばらく休んだ。

公衆電話の住所を見て、そこが瀬戸町であることを知った。

吉井川からもずいぶん離れてしまっていた。

暗い夜道の中、ペダルをこぎ始めた。

とにかく、標識のある大通りに出なければ行き先が定まらない。

そう思いながら民家の路地を走っていた。

走っても走っても、大通りが見つからない。

やがて川に出た。あまり大きな川ではないが、その川を下って行けば必ず海に出る。

そう信じてこぎ続けた。

川の彼方に、大きな、大きな、平野が見えてきた。

少しずつ動く、大きな船の灯りも見えた。

海だ。海が見えた。

やっと海まで来た。

そして、さらに、勢い良く、私はこぎだした。

海辺に自転車を止め、しばらく海を眺めていた。

しかし、海の向こうに陸が見え、民家の灯りも見える。

ここは海なのかと疑い始めた。

海でなければ、ここを越えてさらにその向こうへ行かなければと思った。

海であるか、海でないかを調べることは容易だった。

そこの水に手を浸し、なめてみた。

しょっぱい、塩の味がする。

間違いなく、そこは海だった。

その地形で児島湾だと分かった。

目的の地にたどり着いたことがすごく嬉しかった。

真っ暗で静かな海辺だったが、まだ8時前だった。

安心したのか、私はコンクリートの床に仰向けになったまましばらく眠った。

すごく疲れていた。

肌寒かったせいか、30分位して目がさめた。

やはり、ここで眠ることは難しい。

しかし、十分なお金があるわけでもなく不安になってきた。

みんなのことが気になった。

きっと私を探している。

そう思い始めた。

このまま一夜を明かす気はなかった。

持っていたお金も電話をかける位しかない。

もし、このお金をほかのことに使えばどこに連絡することも出来なくなくなってしまう。

私は自転車に乗り、電話ボックスを探した。

すぐに、それは見つかった。

10円玉を何枚か入れて、家に電話をかけた。

すぐに親父が出た。

「今、どこにおるんなら、寒うないか。」と話しかけてくる。

私はすぐに、ここにいることを話した。

「お父さんが迎えに行くから、おまえは津山に向かって戻ってこい。たぶん、どっかですれ違うだろう。しっかり注意して見て行くけん、おまえも注意して戻ってこい。」

私は無我夢中で自転車のペダルを踏んでいた。

しかし、暗かったせいか、来た道が分からなくなっていた。

迷いながら、大きな土手に出た。

しかし、道が途中から進入禁止になっていて鎖でふさがれていた。

自転車と歩行者専用の長い橋を渡り、反対側の土手に出た。

橋の手すりに、旭川と記してあった。

線路があった。

しばらく行くと、駅もあった。

備前原駅だった。

たぶん、ここを通れば津山の方へ行くだろう。

そう思って走った。

ここまで来れば不安も何もない。

あとはなるようになる。

そう思って、深く考えることはしなかった。

車とすれ違うたびに、もしかして親父かも。

そう思いながら何台も車を見た。

しかし、こんなに早く来るわけはない。

車でさえ1時間半位かかるところだから、その位の時間は読んでおかないと。

しかし、電話してから、かれこれ1時間程経っていた。

玉柏駅のあたりだった。

慎重に通る軽トラックが私の前を通り過ぎたあと、Uターンして私の横で止まった。

親父だった。

親父は黙々と私の自転車を荷台に固定した。

車の中で意識がぼんやりしていた。

親父が話し始めた。

「おまえ、みんなに心配かけたなあ、先生が家に来とるで、おっちゃんらあも。」

私は、事の重大さにやっと気づき始めていた。

それから家に着くまでのことを今ははっきりと覚えてはいない。

家に着いたとき母さんが外に出てきて、「もう、やっちゃあいけんで。」そう言った。

家に入ると、家の中には学校の先生達と親戚の叔父さん叔母さん達が地図を広げて待っていた。

2階には、いとこ達がいて、私は益々居場所を失っていた。

そんな中、副担任をしていた先生が「今日は、もう寝んちゃい。何人かの友達に電話をかけとるけん今日のことを聞かれるかもしれん。そしたら、遊びに行っとって遅く帰ってみんなに心配かけたということにして、それ以外は黙っておきなさい。」と言った。

あとから2台の車が帰ってきた。

私を探すため、それぞれが違う道を走ってきたことが分かった。

3台の車が3方向に分かれて私を探し、見つけたのが偶然にも親父だった。

次第に、みんな退散し、私は風呂に入り、疲れていたせいか朝までぐっすり眠った。

学校へ行く途中で、友達にあった。

「昨日は、本当に行ったんじゃな。」とびっくりした様子で話してきた。

私は彼の驚いた表情に何だか変な自信を持ってしまった。

学校に着くと、昨日私に指示を出した連中の1人がやってきた。

その人は数年後に無免許で暴走運転をして、壁に激突した。

助手席にはまだ中学生の女の子が乗っていた。

2人とも即死だった。

筋金入りの不良だったその人が、心配そうに、「家出したんか。」と言ってきた。

私はただ「うん。」とうなずいただけだった。

それ以来、その人とたちからは、何も言われることはなかった。




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by ikenosai | 2008-10-25 06:58 | 海まで走ろう | Comments(0)