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今日、ありがたくも朝から映画を観に行った。
25年前に受けた教職の授業でのことだった。
日本史概説の先生は、歴代天皇の研究が専門だった。
特に昭和天皇の終戦時の話を事細かに話していたのが当時の私の胸には強く響いていた。
中学時代の恩師にその話をしたときには、間逆の解釈を聞かされ、教育は戦後から狂ったのだということがはっきりと分った。
私が思っている教育とは、心の内側を育てること。
滾滾と湧き上がるエネルギーの上手な放出。
そして、自分の考えや自分の信念を作り上げていくこと。
そのきっかけを授けていくことが、私の考える真の教育だと今は思っている。
中学校時代の恩師は、昭和天皇の戦争責任について日教組的立場で私をまくし立てるように話していた。
そこには私の意見も考えも入る隙はなかった。
これが間違った戦後教育の中の氷山の一角なのだと今は思っている。
入学式や卒業式に君が代を生徒に唄わせなかったり、天皇否定を滾滾と生徒に教育したりと・・・。
やわらかい頭の中に、自分の考えが育たない、しかも、一方的な日教組の原理主義の中に・・・。
考えはまさにスターリンか毛沢東。
果たして、自分で学び、自分で調べ、自分で意見を出せる環境はどこにあるのだろう。
子どもの頃、父と一緒に風呂に入っていたとき、子ども心にも疑問があって父に天皇陛下はどんな人なのかとたずねたことがあった。
昭和一桁生まれの父は、「天皇陛下は日本の父だ。」と笑顔で答えていた。
これがまさに戦前教育のさらに日本全体の信仰のようなものだったと私は思う。
この辺りに関しては、ユダヤの人々とどこか似ているのではと思う。
しかし、父はこうでなければならないという強い考えを私には強要しなかった。
しかし、当時の日教組に洗脳されてしまったあの先生は、君の考えはおかしいといい、改めさせようとするくらいだった。
終戦で、日本人の価値観は変わってしまったという人もいる。
大人を信じられなくなったという人もいる。
昨日まで言っていたことと今日言っていることが180度も違うのでは、止むを得ない。
すべて、戦争がそうさせたのだと思うが、むしろ戦争がそうだったのだという真実をあぶり出したのだとも言える。
私はその真実を確かめたくて、いや、もう一度客観的にその真実を確かめたくて、アメリカが作った映画を観に行った。
それが“終戦のエンペラー”だった。
登場するダグラス・マッカーサー元帥もボナー・フェラーズ准将も私は生身の人間であることを前提にして見ていた。
特にボナー・フェラーズ准将の心の内を懸命に解ろうとし、日本人の彼女を思う気持ちをも深く考えていた。
もし、彼らによって米国の統治下におかれなかったら・・・。
と考えると、果たしてどんな日本になっていたのかとも思う。
それだけでも、あの二人の功績は大きいと思う。
そして、昭和天皇は戦争責任という大きな十字架を自分自身で背負ったまま戦後を生き続けたのだと思う。
これは、大学時代に残した戦後教育についての宿題の25年後の答えにしか過ぎない。
しかも、私の、一個人の答えである。
ただ言えることは、あの映画の中の人たちと違って、今は平和な時代に生きていて、しかも愛する人たちが一緒であり、生きていること。
これだけで、本当はいいのに、幸せなのにと思った。
こんなものでも観ないと感謝は湧き上がらないのかと情けなくなった。
平和の時代にこそ忘れている感謝の気持ちを取り戻したい。
by ikenosai
| 2013-08-28 22:05
| いつか余熱に気づくとき
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