先日、娘が新型のインフルエンザに感染し、私はやむなく出勤停止あつかいで1日休んで娘と過ごした。
前日からのリベンザが効き、少し退屈な様子でいたので、映画でも見ようかとフォレストガンプの日本語吹き替え版をすすめてみた。
少しつまんなそうだったが、半ば強引にビデオを再生して、私は大量にたまっていた年賀状の宛名書きをしていた。
30分ほど経って、どうかと聞いてみると、面白いと夢中な様子。
しめしめ、そう思って私も一緒に見始めた。
フィクションではあるが、波瀾万丈なガンプの人生をとても面白く見ていた娘だったのだが、終わる頃になって、何だか悲しい、可哀想に感じると話していた。
ガンプにとって大切な友人の死、母の死、そして、幼少の頃から憧れていたジェニーの死、紆余曲折ありながらもジェニーとの結婚は最高の幸せだったことだろう。
しかし、結婚後しばらくして彼女は病気で亡くなる。
ジェニーとの間に授かった男の子がガンプに見送られてスクールバスに乗り込むところでエンディングとなる。
私は初めてフォレストガンプを見終わったとき、涙が溢れて止まらなかった。
映画の中で、母が死ぬ間際に“死は人生の一部だよ”とガンプに言い聞かせていたのがとても印象に残っている。
生まれた以上は誰にでも公平に死は訪れる。
その死をどう迎えるか、その準備をするためにどうしていくか、それを見つけることが人生最大の目的だと私は考えている。
生まれてから死ぬまでの間、私たちに与えられた課題とは、死を理解し、どう受け入れていくか、死を怖がらないで、かつ天寿を全うするかではないだろうか。
そして、そこに誰かに愛されたという実感があればと思う。
これは、マザーテレサの実践でもあった。
マザーテレサの言葉の中に、“私は、この世で役立たずのように見えた人々が、その最も大切な瞬間、死を迎える時に、愛されたと感じながら、この世を去ることができるためなら、何でもしたいと思っているのです。”と。
これは私たち自身の課題でもあり、子々孫々に伝えていく最大の課題でもあると思う。
信仰のあり方、本来の宗教のあり方も実はそこに凝縮しているのだと思う。
そして、大切な周りの人々と価値を分かち合うことができたら、人間本来の幸福感は得られるのだと思う。
多様な価値を受け入れるためには、原理主義に偏ってはいけない。
妻を思い、可愛い子どもたちを思い、育ててくれた親を思うなら、飛行機をハイジャックして貿易センタービルに突っ込んだりはしないだろう。
原理主義のもたらす価値観は、決して社会を幸福には導けない。
多様な価値だからこそ、幸せな選択肢は広がっていく。
そして、本人にとって、よりベターな選択のできる力を付けてあげられればそれでいいと思う。
ガンプを見て、悲しそう、可哀想だといった娘の心もいつの間にか成長していたことに私は感激していた。
今、この一瞬をみていたい、そしてこの感動に感謝しながら、もうすぐ思春期が始まる娘の可愛らしさを心にとどめておきたい。